チヨ
「ああ……そ、そこまで吹っ飛ばすつもりは……! お、お兄さん大丈夫ですか……!? ち、父上! 父上の御客人が!」
少女は泣き出しそうな声で叫んだ。ドタドタと激しい物音が響いて、すぐに店主が駆けつけてくる。
壁際で伸びているアキツグと、慌てて着物を掻き寄せている少女を交互に見比べ、しばし黙り込んだ。風呂場の前に纏められた衣服を見て、自分の過ちには気づいたが。
「……なるほどな。まぁこういう事故も何かの縁だろう。縁は大切にしろよ?」
そんな適当な言葉ではぐらかした。
「なるほどじゃありません!」
「風呂入れって言っただけなんだがなぁ」
「チヨが入っておりました!」
黒い三本の尾をぶわりと膨らませながら怒鳴った。
店主は頭を掻きながらアキツグの傍へしゃがみ込み、頬を軽く叩いていく。
「おい、生きてるか? 死んでると困る。娘をこの歳で殺人犯にはしたくない」
「…………訓練と比べたらマシでございました。……驚いただけです」
「なら平気だな」
「いや、明らかに出血と打撲がありますしチヨが手当を――――、服着たらします……」
チヨは駆け寄ろうとして、自分がまだ十分に着付けてもいないことに気付き、慌てて戸の陰へ引っ込んだ。しばらくして衣擦れの音が止むと、先ほどまでとは打って変わって、きっちりと着物を整えて戻ってくる。
濡れた黒髪を背へ流し、三本の尾だけがまだ落ち着かない様子で揺れていた。
「……先ほどは取り乱しました。父、竈門源蔵の娘、竈門千代と申します」
チヨは深々と名乗ると、アキツグの様子を一瞥して、尾が一本も生えていないことに気づくと、気まずい様子で少し視線をそらした。
「……噂は、聞いたことがあります。遥か上層からここに来た男が、尻尾が生えていなかったと。それでも父上の御客人であるならば、……どうか、お名前を聞かせてくれませんか?」
その問いに、アキツグは一瞬だけ言葉を失った。
――葛葉。喉まで出かかった名を飲み込む。……長く沈黙してしまったが、クズノハの名を隠すことにした。
「……アキツグ。ただの、アキツグです。先ほどは本当に申し訳ございませんでした、チヨ殿。本当に、どのようように詫びればよいことか」
「い、いえ。わざとではないのでしたら……もうよいのです。父上が悪いので気になさらないでください」
ゲンゾウは二人へ交互に視線を向けて、堪え切れなくなったように肩を揺らした。
「くくっ……なんだお前ら。さっきまであんな大騒ぎしてたくせに、今度は揃って畏まってんのか」
「父上? 誰のせいだと思っているのですか?」
「悪かった悪かった。次から風呂場に服が置いてあったら開ける前に声かけろ。そんでアキツグ、お前はいつまでそこで転がってんだ。風呂入りに来たんだろ。さっさと入ってこい」
アキツグはまだ腫れの残る頬を押さえながら立ち上がった。
風呂場へ視線を向けると、先ほど目に焼き付いてしまった光景まで鮮明に蘇り、逃げるように目を逸らす。
親切にされながら……、自分はなんて邪なんだ?
我ながら嫌気が差すぐらい隣にいるチヨの背中が、恥じらいと困惑の表情が、頭から離れる気配がない。
「それとチヨ。そいつの背中でも流してやれ」
「…………はい? 父上、今なんと?」
ピョコピョコと揺れていた狐耳がぴたりと動きを止めた。
「だから、背中でも流してやれって言ったんだよ」
「聞こえております! なぜチヨがそのようなことを!?」
「拾ってきた野良犬は責任持つべきだろ? それにオレがやるよりはいいだろ」
「ひ、拾ってきたのは父上ですし! そういう問題ではありません!」
三本の尾が落ち着かなさそうに揺れる。アキツグも遅れて意味を理解すると、慌てて口を挟んだ。
「い、いえ。そこまでしていただくわけには参りません。湯を貸していただけるだけでも身に余る恩義です。ましてチヨ殿に背を流していただくなど――」
「おーいいつになったら戻ってくるんだ!! 早くしてくれ!」
言葉が客の怒鳴り声にかき消される。ゲンゾウはそそくさと店に戻ってしまって、気まずい空気のなかアキツグはチヨと二人きりになった。
「……誠に申し訳ありません。背中など流さずとも結構です。手当も俺一人でできます。……尻尾はありませんが、それなりに鍛えているので大した怪我もしていませんので」
アキツグは逃げるように風呂場へ向かい、戸を閉ざそうとしたが、なぜかチヨは足を押し込んで妨げてくる。扉の隙間から険しい視線が覗き込んだ。
「待ってください。確かにお背中を流すつもりはありませんでしたが、そのように逃げられるのも釈然としません。そのように、自分が誰よりも不幸だと思われている目も気に入りません。チヨの一発が大したことがないような言動も気に入りません」
……お淑やかで純粋な子なのかと思い込んでしまったが。思いのほか彼女にはプライドがあって、思っていた以上に幾つもの尾を踏んでいたらしい。




