有罪な出会い方
まさか、暖簾を潜らせてくれるとは思わなかった。せめて裏口から入らされると思ったのに。
店に入ると、煮詰めた醤油と味噌の匂いが漂っていた。表の路地にこびりついていた下水と腐臭が嘘のように薄れていく。
店は狭く、煤けた梁の下に使い込まれた木の卓がいくつか並び、壁際には客同士が肩を寄せて長椅子に座っていた。
「おいおい。そいつ尾無しだろ? そんなもん拾ってどうするんだ?」
一尾の浪人共が野次を投げつける。アキツグは咄嗟に顔を俯けたが、店主は鼻で笑い、テーブルを強くたたいた。
「はは。バカだなてめえら。尾無しならお前らより安く雇えるだろ? その分いい食材に、いい椅子も買えるようになるってんだ。お前らはむしろ感謝すべきだよなぁ!」
「おう確かに。尾無しとバカは使いようだな」
「違えねえ!」
どっと笑い声が起こった。嘲笑だが、誰も立ち上がって追い出そうとはしない。石も飛んでこない。ただ酒を呷り、すぐに自分達の話へ戻っていくか、ぼんやりと壁かけテレビの内容を眺めるだけだった。
瑞獣夜社の紋を隅に浮かべたニュース番組が、上層で執り行われた祭事や外郭の討伐成果を淡々と伝えている。
父上の姿もそこにあった。酷く懐かしささえあった。……二度と顔を拝めることはないと思っていたせいか、釘付けにされるみたいに見上げていた。
「突っ立ってんな。邪魔だ」
「……あ、ああ」
促されるまま後を追う。すぐに目を逸らした。もう自分とはかかわりのない世界だ。
従業員用と紙の貼られた扉の奥は彼の家屋だった。わずかな電球が照らすのみで薄暗い。そして狭い。
「ああ、やっぱお前クソ汚いな。こんな場所で見てもはっきりわかるぜ。これじゃあとても人前にゃ出せねえし、うろつかれても困る。お湯ぐらい使っていいからさっさと風呂でも入ってこい」
廊下の奥を指差すと、客の呼ぶ声に応じてさっさと店へ戻っていった。
取り残されたアキツグはしばし呆然としていたが、言われた方へ歩き出していく。
床板は踏むたび軋み、狭い頭上には水道管と束ねただけの電線が這っていたから、かがんで進まなきゃいけなかった。
手伝いにする壁には湿気で浮いた染みが広がっていて、鉄板や別の木材で雑に塞がれている。
途中には開け放された居間があった。擦り切れた畳に小さな卓袱台、壁際の箪笥、その傍らには場違いなほど古びた神棚が据えられていた。
『ギャハハ! ここの奴らまともな社税も払えねえからこんな陳腐な祠で尾の儀をしてるんだなぁ。なのにてめえより尻尾が多い。くくく……! 傑作じゃねえか』
さらに奥へ進むにつれて店の喧騒は遠のき、代わりに配管を流れる水音が近くなる。床も板張りから冷たいコンクリート材へ変わった。
壁沿いを走る給湯管からは僅かに蒸気が漏れ、継ぎ接ぎだらけの給湯器が低く唸っている。周囲は錆とカビばかりだ。
一番奥まで向かうと古い扉の前に服が乱雑に入れられた籠が置かれていて、隙間から白い湯気が細く漏れていた。
「ここか……!」
周囲はお世辞にも綺麗とは言えない。まして最上層の露天風呂などとはくらべものにならないぐらい酷いものだったが、感情を抑えきれずに声が上擦った。
何も文句など出なかった。むしろこぼれる湯気にさえ歓喜して、ぎゅっと熱を帯びる目頭を拭うしかない。
アキツグは何の疑いもなく手を掛けた。そして勢いよく戸を開けて――――鉢合わせる。
戸の向こうには白い湯気に包まれた少女がいた。
「……っ!?!?」
視界に映ったのは一糸纏わぬ白い背だ。肩甲骨の凹凸、そして艶やかな曲線は参つの尻尾にまで伸びている。
黒々とした三本の尾は臀部を隠すように大きく広がっていた。
長い黒髪は湯を吸って淑やかに濡れていて、頭頂部から生える狐耳がぴょこぴょこと揺れて、こちらに振り返ってくる。
「父上……!! チヨの服!! 籠に入れているではありま――はへ……?」
切り揃えられた前髪の隙間から、気怠げな瞳がこちらを見ている。
困惑するようにジトリと見つめて、そしてだんだんと瞳孔は細くなって、ぽかんと開いていた口は動揺と共に大きく開いていく。
目が合った。真っ黒な瞳は、やがて恥ずかしさと涙と混乱に大きく揺れて、――時が止まる。
少女も、アキツグの手も戸に掛かったまま止まった。
配管を流れる水音だけがやけに鮮明に耳に残る。視界の光景全てが脳裏に刻まれていく。
状況を理解するまでに、互いに少し時間がかかった。
「ひゃ――――!」
「申し訳ございません!!」
少女が叫ぶより前に、アキツグは頭を床にたたきつけた。
「俺のような……者が、恩人様のご家族を辱めるなど…………! 許されざる……。まして賤族の如き尾無しがッ!! 到底、到底許されません……!」
そうだ。許されるものか。
期待を裏切ってこの街に落とされておきながら、ゴミを漁っているだけの孤児の如き俺を拾ってくださった恩人の!
お嬢様の裸を見たなどと。――許されない。
否、否、そもそも恩人であろうがなかろうが関係ない。
婚約もしていない女性の裸を――――。
バン!!
さらに激しく頭を床へたたきつけた。血が滲んでいく。
嗚呼、父上、俺は何のために生きてきたのでしょう。
父上にご迷惑をおかけし、皆の期待を裏切り、殴られ、蹴られ、通りすがる者を不快にさせただけでなく…………。
「ひゃ!?!?」
少女は恥ずかしさよりも驚愕と困惑が勝って、さらに素っ頓狂な声を漏らした。咄嗟に着もので体を抑え隠すなか、何も理解できないままアキツグをじっと見ていた。
「……お許しください。俺はもう……死んだほうがマシだ」
刀を手に取ろうとするが――、ああ、そうだ。身ぐるみを剝がされていた。代わりに近くに落ちていた錆びた工具を握りしめて、ためらいなく腹部に押し付けようとして――。
「ひゃああ!!!? 何してるんですか貴方は!!」
まだ裸の少女から頬に鋭い平手打ちを受けて、尾の膂力差を前に数メートルほど無様に転がり吹き飛んでいく。




