ブシドーが物を言う街にて
◆ ◆ ◆
――最下層区域にまで落ちて知ったことがいくつもある。否、知っていたことを、身をもって実感した。
尾を持つ者と持たざる者の差。将来の九尾へ従事していた七尾の侍女達も、ここでは天そのものだろう。
そして最底辺の弱者だと思っていた少尾の奴らも、この区域では参尾は弐尾を、弐尾は壱尾を底辺だと思っていて、……尾の無い俺は誰よりも下であった。
――ここに俺の居場所はない。天の都にも地獄にも。尾がない落伍者なんて前代未聞で、壱尾未満の存在などすぐに知れ渡っていた。
道を歩けば嘲りの声と視線が向かう。
まして飯を買う銭もなく、無様に泥に頭をつく醜態は笑い者であった。
「何卒、どのような仕事でもいいんです。何か少しでも仕事をください……!」
アキツグは必死だった。ただただ無力に土下座した。壱尾如きに平伏した。
なんのために生きているかもわからないのに、それでも無様に野垂れ死ぬのは恥ずかしゅうて、より無様に生き恥を晒し続けた。
「仕事がないかって? 尾なしみたいな気持ち悪いやついたら商売あがったりだろ? なんの役に立つってんだよ!」
蹴り飛ばされる。すぐに宙で身を翻し受け身を取ると、不機嫌そうに舌打ちをして仲介屋の狸爺は背を向けていった。
「…………クソ」
アキツグは土埃を払った。身を護る武器も奪われ、襤褸を羽織る羽目になっても無意味に身だしなみを整え直す。
今なら……父上が家名を名乗るなと言ったことも理解できる。尾の数が全てなのだから。もはやクズノハアキツグなど存在し得ない。
僅かな銭さえもなく、アキツグは薄闇のなか水路へ飛び降りた。黒い海と下水の汽水でドブの魚を掴み取る。日によっては鼠。これが最底辺未満の食事だった。
屋根があり、寝泊まりしても文句を言われない場所もまた、地下の用水路であった。水辺の近くではあるが、処理水は生暖かいためか襤褸の服でもあまり寒くならない。
すり減っていくのは心だけだ。悲しくて月夜を見上げようとも、この区域には空はほとんど届かない。星は届かず、鮮やかな満月を知る由もなかった。
「月見えず、なお天を向く、首ひとつ……ふはっ。駄作だ」
『オレは好きだけどなぁぁぁ』
頭のなかで声が響く。ブシドーの声だ。≪殺生石≫を用いて力や技ごと体に魂を封じているから。きちんとブシドーが体に宿っているならばその声を聞くことができた。
……きちんと? ならなぜ尾が生えない。それにブシドーってやつはもっと規範意識が高く、こんな野暮で下品な声を発するものではないはずだ。
「お前がまともに尾を生やせるような奴ならこんな目には合わなかった」
『お? 尾のせいか? お前にとって尾が全部なのか? ならオレが悪かったな。ギャハハハ!! そりゃそうか。パパ上は九尾だもんなぁ』
「……何が言いたい」
『お前の大好きなお月様も尾無しだろ。よかったじゃねえか。お揃いで。オレのおかげだなぁ! ギャハハハ!』
――――話にならない。
アキツグはブシドーとの対話を拒むようにぎゅっと目を閉じた。ただ意識が微睡むのを待つ。時間が過ぎ去るのを待つ。
……いつまで? 俺はずっとこうなのか?
『尻尾もねえくせに尻尾を大事にするんなら、一生そうなんじゃねえか? 尻尾がないって理由で弱者になれるんなら、お前はずっとドブ川の生態系に組み込まれてぇ方がマシだぜ』
「……黙れ」
『ハハ! それがお望みなら』
静寂のなか目を瞑る。そして一日が過ぎるのをただ待ち続ける。
瑞獣夜社管轄都市の闇の中、奥底、最下層で、ただのアキツグは苦しみを飲み込んだ。
………………何時間経っただろう。この区域では太陽の光も届かなくて、昼も夜も下品なネオンライトと桃色じみた提灯が闇を照らしているから時間感覚はとうに麻痺していた。
ただあてもなく、立ち上がり、彷徨うみたいに狭い路地を歩き進む。
誰にも目を合わせないように、誰にも見つからないように息を潜め、俯いて、地の泥だけをじっと見つめて徘徊していく。
だがこうしているのは自分だけではなかった。尾無しだと嘲り、全てを略奪していった壱尾共も同じように俯いている。彼らも弐尾に頭はあがらず、弐尾も参尾に敵うことはない。
尾がすくない者は弱者であるゆえに虐げられる。ときに人間扱いさえもされず、路地の隅で野たれ死んでいる。
ならばどうして尾無しが人間扱いされるだろうか? 否、されはしない。
ならば人のような生き方に執着することこそ愚かだろう?
『って、言い訳を重ねてお前はつらくねえのかぁ? オレは楽しいからいいが』
「…………。つらくないわけないだろう。だが何ができる? 誰もが尻尾だけを見てるんだ。尾のない俺はどこを見られればいい?」
『てめえが人のケツばっか見てんだろう?』
周囲の人々だけではない。身に宿した魂までもが嘲りを向けてくる。
アキツグは深く黙り込んで、道端に転がる死体から使えそうなものを拝借していった。金目のものはほとんどなく、ポケットにあったライターだけを拝借していく。
日の光も届かない場所ではあるが、うつ伏せのまま置いておくのも憚られて、遺体を仰向けにすると、嗚呼、すでに両目と内臓も誰かが持って行ったらしい。
「……俺は、肉体にすら何の価値もなかったらしい」
『おかげでボコボコに殴られて身ぐるみ剝がされるだけで済むならよかったじゃねえか。尻尾が一本でもありゃ目も心臓も金玉も抜かれてるぜ。きっとな』
「どこがいいんだよ…………」
死人の服を着て、ドブ川の魚と鼠か残飯を漁って、不良品みたいな魂がギャーギャーとわめき立ててくる良さなんざ、理解の範疇にはない。
現状はただ生き延びているだけだ。死んでいるのと大差ない。
ただ時間が過ぎていくのを徘徊するか座り込むかして過ごして、そして恥知らずにも鳴る腹の虫に合わせて、再び歩き続けるだけ。
同じ場所で魚や鼠を捕っていると奴らも学習するから、定期的にゴミを漁る必要があった。アキツグは気配を殺して小さな暖簾を掲げた飯屋の前を横切る。豆腐と根菜を濃く煮詰めた醤油の匂い。味噌の香り。きっと大半がこの階層ではまがい物のはずだが、どれも鼻を刺すほど腹を鳴らす。
無論、客として入れる場所ではない。店の裏口へ回った。
『お前……いつも同じ店の残飯だな』
「よく気づいたな。いろいろ試したがここが一番美味い。どれも食べたことがないものだったし、最初は残飯漁りなんて気持ち悪いとは思ったが慣れればドブ川の魚よりよっぽど味もする」
客の食べ残しや、形が崩れて売り物にならなくなった豆腐、煮崩れた大根、千切れた蒟蒻、魚の骨。人間が食べようと思えば食べられるものばかりだ。
アキツグは周囲を見回し、誰もいないことを確かめると桶へ手を伸ばし、死んだ目で頬張っていった。
「おい」
低い男の声が背中に響く。
アキツグは大きく肩を跳ねさせると、反射的に駈け出し、その場から逃げだした。ゴミを食っているところなど誰にも見られたくなかった。
尾がない時点で正体などバレバレであっても、顔を見られたくはなかった。
殴る蹴るだけならどうでもいいが、耐え切れぬ。抱えきれぬ恥辱が沸き上がって、体を突き動かす。
狭い路地を二つ、三つと曲がり、樽を飛び越え、塀を蹴って屋根へ飛び移ろうとしたところで足が滑る。
腹が減り過ぎていた。体はひどく弱っていた。思ったような動きなんぞできず、着地を誤りそのまま泥へ転がる。……無様に。
「……逃げ足だけは立派だな」
男は息一つ乱していない。尾憑きと尾無しではこうも身体能力に差がつくものか、この程度の距離を追ったくらいでは疲れもしないらしい。
アキツグは泥に伏せたまま睨み返した。
「…………」
「腹、減ってんだな」
それだけだった。憐れむでもなく、見下すでもなく、ただ目の前の事実を口にしただけだった。
その声音に、アキツグは困惑するように顔を歪めた。
尾以外を見られたのは最下層へ落ちてから初めてだった。
否、……クズノハアキツグであったときから尾以外の自分を見られたことなど、――あったのかさえわからない。
「……立てるか?」
「放っておいてくれ。尾無しに価値などない。……俺は都市にいても何の役にも立てないし、存在意味なんてない」
「ハッ……」
心の底からの言葉を一蹴される。子供の我儘を聞くみたいに、男は面倒臭そうに手を引っぱってくる。
「放っておいたら、またうちの残飯を漁りに来るんだろ。いいから来い。それともそれらしい理由がほしいか? 俺の店の味を気に入ってそうなのがいいな、それに――――ああ、そうだな。尾無しが店の裏うろうろしてちゃ評判悪いだろ?」
もっともらしい理由を”考えて”説得しようとしてくる。
アキツグはしばし呆然としていたが。唇を強く噛みしめて、ぎゅっと強く視線に力を込めて俯いた。
「…………かたじけない」




