悪を斬る
痛みは消えちゃいない。腕は痺れ、肺は焼けるように熱い。
力比べをすれば負ける。狐火をまともに受けても死ぬ。五尾と零尾の差が埋まったわけではない。だが、力で対抗する必要などない。
腰を落とし、深く脱力した。
葛葉の九尾として教え込まれた構え。集団戦には向かないが、敵は一人。今の状況は最良だった。
父上の前で何千回と繰り返し、僅かな乱れさえ許されなかった武術の型。それだけで竦む体はどこかへ消えた。
今ここで格好つけなければ俺はタダノアキツグにさえなれはしない。チヨが何も覚えていなかったとしても、関係はない。
『嗚呼、てめえはもう後戻りできないぜ』
「上等だ……!」
「構えたところで何が変わる!」
侍が獰猛に笑い、踏み込んだ。速い。だが、先ほどまでとは違って見えた。
力任せに振り下ろされる刀を半歩だけ外れて躱す。追うように返された斬撃へ【九重狐月】を添え、刃の軌道を僅かに逸らす。
受け止めない。競り合わない。五尾の膂力は凄まじい。ならば、その力がこちらへ届かなければいい。敵わない力に対抗するために
「ちっ!」
苛立った侍が横薙ぎに刀を振るう。
アキツグは身を沈めて潜り込み、振り抜かれる刃を背後へ流した。続けて放たれた蹴りも身体を半身にして避ける。頬を風圧が叩いたが、それだけだった。先ほどまで致命的に見えていた攻撃が、今は酷く単調に見える。
速い。強い。ただ、それだけだ。
尾の力に任せた踏み込み。膂力に任せた斬撃。相手が受け止められないことを前提にしているからこそ、剣筋はあまりにも愚直だった。
「この……零尾がァ!!」
五本の尾が膨れ上がり、周囲に狐火が浮かぶ。炎が弾丸のように殺到する。剡い業火が身を焼き尽くさんとする刹那、アキツグは踏み込んだ。
「なっ――」
狐火が背後で畳を焼き焦がす。侍は咄嗟に身構えたが。彼の斬撃は大振りすぎる。その腕が動いた時には既に間合いの内側だった。
【九重狐月】を斬り上げる。肉を裂き、骨を断つ感触が手に伝わった。鮮血が噴出して、彼の手と刀が宙を舞い、そして足元にどさりと落ちた。
「――がッ!? あ、ああああああッ!!」
絶叫する侍を前にしても、アキツグは止まらなかった。
踏み込み、返した【九重狐月】の切っ先を首筋へ突きつける。
五本の尾が怒り狂うように逆立っていた。だが、もう関係ない。
狐火を生み出そうと、どれだけ膂力に差があろうと、首を断つために必要な距離はとうに奪っている。
「動くな」
侍の身体が硬直した。零尾の刃が、五尾の命を握っていた。
「……ありえねえ。俺は五尾だぞ……」
「そうだな。俺も失望している。お前らのような奴らで都市が成り立っているのか? 強さに驕ることこそあれど、その力を弱き者に振るうことは許されない。それは都市の理想に反している」
嗚呼、父上。あなたは真実を知っていたはずです。
……これを変える力さえも持っていたはずです。――何故。
苦虫を噛み潰すようにアキツグは顔を歪めた。
「待てよ……! じゃあどうやって≪殺生石≫を確保するつもりだ!? あれは尾憑きが死ななきゃ生まれねえ! じゃあ命に価値もねえ家畜共を処理するのが一番合理的だろうが! てめえも上の街を知ってるならわかるだろう!? 下層の膿共の醜態を!」
確かに脳裏に過った。見苦しく落ちぶれた者。何もかもを諦めたような視線。ただ自分より弱き者を探し続け虐げる輩。
だが、チヨも親父もそのどれでもなかったはずだ!!
「いいや。お前は何も見ちゃいない。お前が見ていたのは尻尾の数だけだ。お前は醜態を見ていたんじゃない。ただ自分より弱いやつを人間としてみなしていなかっただけだろう」
「綺麗事を……! なら≪殺生石≫はどうする!? 尾の儀式をやめろってのか!? この都市そのものを否定するつもりか!」
「そうだな。今の都市は間違っている」
都市はこうして多くの≪殺生石≫を循環させているのだろう。だが、そのために守るべき者を殺すのならば、敵は都市自身ではないか。
いまの都市を肯定し、行き着いた先が太陽も届かぬ地獄と、積み重なる死体と、薬に溺れた者達と、何も思い出せずに泣き続けるチヨならば。
仕方がないと頷くことだけはできなかった。
父上の教えに反するから? 否、否、否!! 俺が許せないからだ。
【九重狐月】を握る手に力が籠もる。
「尾が少ない者が家畜というならば、お前らはそれを襲うケダモノだ」
「てめえ……」
【九重狐月】を振り抜いた。
鮮血が飛び散る。言葉を失った首が畳へ落ち、遅れて五尾の身体が崩れ落ちた。静寂のなか、刀身から血が滴っていく。
人を殺した。明確な意思を持って、自分で殺すと決めて斬った。
後悔はなかった。ただ、父上から教わった都市の理想が、今までとはまるで違う意味で胸に残っていた。
――――強き力は弱き者を守るためにある。
刃を向ける先は、今は都市の外ですらない。
アキツグは黙したまま六尾の男に近づいていく。肥え太った体は、六尾の身体能力があろうとも愚鈍そのものであった。
「ま、待て! わしの命を助けるならばお前が天楼に戻れるように――」
【九重狐月】を振り抜いた。
言葉の途中で首が飛ぶ。六本の尾を持つ肥え太った身体が、ズシンと、重い音を鳴らした。
「……」
六尾の男が死んだことを確かめることもなく、アキツグは【九重狐月】を下ろした。
「チヨ。豆福に帰ろう」
刀を握ったまま振り返る。部屋の隅で三本の尾を身体へ巻きつけ、チヨは小さく震えていた。焦点の定まらない瞳から涙だけがぼろぼろと零れ、こちらを見ることさえできていない。
「怖い……父上……。父上はどこにおられるのですか……? あなたは誰なのですか。……人殺し、人殺し…………」
胸の奥を抉られるようだった。近づこうとして、足を止める。人殺し――。無垢な彼女の口から告げられる変えようのない事実が深く突き刺さる。血濡れた手で、彼女を抱きしめるべきではない。
「……大丈夫だ。もう誰も、チヨを傷つけない。……覚えていなくてもいい。ここから出よう」
近づくこともできずにただ膝をついた。視線を合わせ声をかけたが、彼女の瞳は真っ黒に塗りつぶされているようだった。……返事もない。
「その娘を診させてください」
背後から声が響く。振り返ると、狐面を被った七尾の男が参尾のために膝をついていた。仮面の奥から覗く目元は穏やかで、腰には無数の暗器がつるされていたが、血の臭いが満ちたこの場でも、佇まいはひどく静かだった。
「あんたは……」
「私は医者です。白蓮仁と言います」
そう言うと彼は、チヨから煙管を取り上げた。
「返して……それ、ないと……怖い、から……」
「駄目ですよ。あなたにこれは必要のないものです」
「返して……ください……」
懇願にも取り合わず、煙管の中身を畳へ落とす。指先で僅かに崩し、臭いを確かめると、今度はチヨの瞼を持ち上げた。真っ黒な瞳を覗き込んで、そして断言する。
「薬の症状ならまだ初期段階です。彼女なら、治すことはできるでしょう」
「っ……本当ですか!?」
「ですが薬効を抜くということは――――」
「話は後だよ。下は片付いた。でも、これだけ派手に暴れたんだ。じきに狐影暗獣が来る。長居はできないから、撤退する。撤退ね」
白蓮の言葉を遮り、壱尾の女が部屋へ入ってきた。刀身についた血を払いながら周囲を一瞥し、短く息を吐いた。
「……そうですね。ここではできることも限られています。あなたも同行してください」
「もちろんだ。それにチヨ以外のことでも、俺も話したいことがある」
アキツグは決然とした様子で言い切って、彼らと共に闇の奥へと向かった。




