第六十六話 要再訪
五月の十八日。この家に戻って、百七日目になる。
昨日の晴れは、夜のうちに崩れたらしい。朝、目を開けると、天井の色が一段くすんでいた。雲が低く、空の端まで一枚に覆っている。雨になるほどの厚さではなかった。ただ、日は差さなかった。
窓を開けると、風が入ってきた。昨日の暖かい風とは違い、少し湿って、冷たさを含んでいる。路地の向こうで、誰かの干した布が、強く煽られて鳴った。窓枠が小さく軋み、卓のコピーの端が、持ち上がりかけた。だから、開けたのは指の幅ほどにして、すぐ閉めた。
流しで手を洗い、湯を沸かした。湯が沸くまでのあいだ、流しの前で、風の音を聞いていた。それから、卓に着いた。左に手帳、右に祖母のノートのコピー。置き方は、ここ何日か、毎朝同じだった。
鉛筆は、笹内町の頁のあとの二枚目の白と、汐待町の頁のあいだに、横にして挟んである。昨日の私が、そうした。白の後ろにあるので、白はめくらずに済む。
鉛筆を抜いて、卓の端に置いた。今朝は転がらなかった。風が窓を叩く音のなかで、鉛筆はおとなしく、そこにあった。
紙を、そっと起こした。
頁の頭に、町の名が出た。
「新潟県・汐待町。海沿いの旧道。海から上がってくるものについて、取材予定」
見出しの行は、一月に、あの町の宿の部屋で読んだときのままだった。
その下に、日付が一つ。
そのあとに、数行が続く。
「旧道、通行可。海側に崩落の危険あり。地元の勧めにより単独では入らず」
「聞き取り、二件。いずれも『上がっている』の語を使用。それが何であるかは、両名とも言及せず」
祖母の字は、ほかの頁と同じ大きさで並んでいる。急いだ跡も、ためらった跡もない。誰と入ったのかは、頁には書かれていない。二件の聞き取りが、誰の口から出たのかも、書かれていない。頁に書かれていないことを、頁の上で私は埋めない。今朝も、そのままにしておく。
単独では入らず、の一行には、少しだけ覚えがあった。一月の私も、あの道には一人では入らなかった。地元の人の巡回に、同行させてもらった。祖母と同じ道を、祖母と同じように、誰かのうしろについて歩いた。
そして、一番下の行。
「本件、継続の可能性あり。要再訪」
読む前から、そこに何があるかは分かっていた。分かっていて、目は、その行で止まった。
再、の字を見ている。もう一度、という意味の字だ。要、は、要る、の字。もう一度が要る、と祖母は、自分に向けて書いた。誰かに宛てた言葉ではなかった。頁を閉じれば、誰の目にも触れない場所に、自分だけに読める形で置いた一行だった。
要再訪。
祖母の頁に、この言葉が出てくるのは、この頁だけだ。常世谷にも、波名島にも、ほかのどの町にも、ない。この町にだけ、祖母は、もう一度来るつもりで、そう書いた。
祖母は、帰りぎわに「また来ます」と言った。あの町で、人に向かって言った。そして頁の上には、要再訪と書いた。
そして、来なかった。
ここまでは、一月のうちに知ったことだった。今朝、確かめ直しているだけで、新しいことは何もない。
要、の字で始まる言葉なら、私の手帳にも一つある。新潟の頁の、巡回の日取りの行に付けた要確認だ。
来る側の言葉は、言った人の口を離れたあとも、相手のなかに残る。残ったものは、言った人が来ない日が続くほど、重くなる。祖母の一言が、あの町でどんなふうに残っていたのかを、私は一月に、少しだけ見た。見たものを、今朝は、それ以上たどらなかった。
手帳を開いて、新潟の頁までさかのぼった。
並んだ自分の字の向こうに、あの町を発つ朝の私がいた。
私は、あの朝、「また来ます」と言いかけた。言いかけて、そこで、言葉が止まった。
もう一度、その朝の自分に、順を追って聞いてみる。止めたとき、私は何を覚えていたか。祖母が言って、来なかったことを覚えていた。それと、もう一つ。この旅の途中で、南の島の堤防の上で、私自身が一度、その言葉を口にしたことも。
覚えていた。覚えていたから、言わなかった。
あの朝の私は、「言ったことがある」ことを、ちゃんと手元に持っていた。持っていたから、重さも分かっていた。言えば、相手が待つ側になる。それを知っていたから、飲み込んだ。
それなのに。
この家に戻って、一週間もたたないうちに、私は、いつのまにかその一言を、「言わなかった」側に入れてしまっていた。波名島の港の堤防のことも、言わずにきた人間の顔をして、数えていた。
先日、手帳で見つけ直したのは、失くしていたものではなかった。一月の朝には、まだ手元にあったものだ。それが、帰ってきた家の静けさのなかで、早いうちに、気づかないまま、手の届かないところへ寄っていった。書かなかったから、遠くなった。順を並べると、そういうことだった。
並べ終えて、少し息をついた。肩に入っていた力が、そこで初めて抜けたのが分かった。誰かに責められたわけではない。ただ、時期の順を、自分の手で正しい位置に戻しただけだった。
並べ直したところに、次のことが見えてきた。
あの朝、私が「また来ます」の代わりに、したことだ。
手帳の後ろを一枚破って、住所と、電話番号と、名前を書いた。
今朝の手で、手帳の後ろを探った。破いたところに、細い紙の耳が、まだ残っていた。あの朝から、手帳はその一枚ぶん、薄いままだった。
あの朝、「これを」と差し出すと、あの町で会った人は、それを受け取った。そして、私はこう言った。
「私のほうは、いなくなりませんから」
思い返すと、短い言葉だった。
また来ます、は、出ていく人が、戻ることを約束する言葉。約束は、相手の中に残って、待つことを生む。
私は、あの町では、それを言わなかった。代わりに、いなくなりません、と言った。去る人の言葉ではなく、居続ける側の言葉を、置いてきた。
同じ町で、同じように人と別れて、祖母と私の言葉は、まるで違う向きをしていた。
どちらが良かったのかは、決められない。祖母の言葉が足りなかったとも、私の言葉が正しかったとも、思わない。ただ、二つを並べると、私が去る側にいながら、居る側の言葉を選んだのだということが、今朝は、はっきり見えた。
百七日、私は、この家にいる。数えようとして数えたのではない。手帳の表に、日数を頭に付けた行を書いてきたから、数のほうが勝手に積もっていた。その数を、誰かに数えて見せたことはない。
それが、あの朝の言葉の続きになっているのかどうか。
それは、私が決めることではない気がした。決めないまま、そこに置いておく。置いておくことは、今は、できる。
湯呑みは、いつのまにか冷めていた。それには口をつけず、両手を卓について、頁をもう一度だけ上から下まで目でなぞった。見出し、日付、二つの行、そして一番下の一行。短い頁だった。短いのに、読み終わるまでに、今朝はずいぶん時間がかかった。
汐待町の頁の終わりに、鉛筆を横にして挟んだ。紙の縁から、軸の尻が少しだけ出ている。
頁は、そこまでにした。
窓の外で、風がまた強くなった。風は路地の奥から来て、家の前で、いったん向きを変えていく。雲の底が、ゆっくり西へ動いている。
私は立ち上がって、朝に閉めた窓を、今度は大きく開けにいった。冷たい風が、顔にまともに当たった。髪が頬に張りついて、湿った匂いがした。海の匂いではなかった。それでも、風に混じった冷たさは、一月の町の朝を、ほんの少しだけ思い出させた。
目を細めて、そのまま少しのあいだ、立っていた。それから、窓枠に手をかけたまま、路地の先を見た。閉めるのは、もう少しあとにしようと思った。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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