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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
二冊の帳面

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第六十七話 雨の週

五月の二十二日。この家に戻って、百十一日目になる。


朝のうちは薄曇りだった。降りそうで降らない空が、屋根の上にずっと同じ高さで掛かっている。窓を開けると、風はなく、空気が少し重い。洗ったシャツを外に出すかどうか、竿の前で一度迷って、結局、部屋の中に掛けた。


湯を沸かしているあいだに、手帳の裏の頁を開いた。


いちばん上は、「来月、集積所の掃除当番」。その下に、二月に自分で書いた手順の行がある。「収集の済んだあと。奥から手前へ掃く。寄せたものは袋へ。水は最後。ネットはたたんで金具へ」。さらにその下に、あの老人に聞いて足した「水は、汚れたときだけ」。角を合わせて内へたたむのは、手帳には書いていない。手が覚えた順だった。行は、どれも消していない。


その先に、「六月、集積所の掃除当番」。


六月まで、あと十日だった。最初の収集の日は、その先になる。慌てる日取りではなかった。


ただ、読み返していて、気づいた。この手順は、全部、乾いた週の手順だった。


三月の私は、雨の週に当番をしていない。四月の森田さんのたたみ方を見たのも、穏やかな朝だった。六月は、梅雨に入る。雨の週に、集積所の地面は、掃いた端から濡れる。水は、汚れたときだけ流す、とある。では、はじめから濡れているときは、どうするのか。濡れたネットは、同じようにたたんで、掛けていいのか。たたんだまま湿らせたら、角のところが傷むのではないか。


手帳に書いてあるのは、乾いた日の跡から読んだことと、乾いた日にしたことだけだった。書いていないことは、手帳が答えてくれない。


ペンを取って、裏の頁の、いちばん下の行のさらに下に、聞く順の行を足した。質問は二つだけにした。


「雨の週、水は。濡れたネットは」


書き終えて、ペン先を見た。誰に聞くかは、書かなかった。聞く先は、もう決まっていたからだ。


二月、あの人は言った。来月、分からないことがあったら、うちへ来てください、と。あの言葉を、当番のことで使う日が来たらしかった。




昼前に、家を出た。


薄曇りの空は、出るときのまま動いていなかった。路地を抜け、隣の女性の家の前を過ぎる。洗濯物は出ていなかった。角までの道は、何度も歩いて、足が覚えている。歩きながら、前の三回とは歩幅が違うと思った。門の前で何を言うかを、今日は、先に決めてあった。


角の家の門は、低かった。


その脇の表札に、目が行った。何度も前を通った表札だった。六日目に見て、三月に見て、見るたびに、そこにあるものとして見ていた。名前として覚えようとしたことは、一度もなかった。今日は、読むのでなく、思い出す側から見た。


「古谷」


二字だった。


二月に、回覧板の当番の表を指でたどった朝のことが、浮かんだ。今月の欄に、見覚えのない名前があった。読もうとしなかった名前だった。それでも、頭の字だけは、形で覚えていた。十の字の下に口が付いた字だった。


表札の二字を、もう一度見た。


当番の表の欄と、門の脇の表札が、ひとつになった。二月、あの人の家の番だった。今月は、うちの番でしてね、と言った、あの人の。


あの紙を、三か月かけて、二行、読めた。四月の森田さんの欄と、二月のこの欄。それで、足りた。


門の内から、玄関に声をかけた。


奥で、廊下を歩く足音がした。ゆっくりで、乱れがない。戸が開くと、白髪の老人は、私の顔を見て、まず空を見上げた。


「降りませんな。降りそうなのですが」


「はい」


「梅雨の前の、息つぎのような日です。あと十日もすれば、こうはいきません」


天気から入るのは、もう何度目か数えるのをやめていた。今日は、用件が私のほうにあって、しかも誰かの話の中身ではない。自分の仕事の話だった。


「二月に、分からないことがあったら来るようにと、言っていただきました。今日は、そのことで伺いました」


老人は、ほんの少し眉を上げた。


「お使いになりましたな」


笑ったのかどうかは、皺が深くて、分からなかった。戸を大きく開けて、框に座布団を出してくれる。薄い、洗いざらしの色の座布団だった。老人は、少し離れた椅子に腰を下ろした。


「六月の当番なのですが、三月にした手順が、雨の週にも通じるのかが分かりません。二つ、あります。雨の週に、水は流すのか。それと、濡れたネットは、どうたたむのか」


聞く順は、手帳に書いたとおりだった。順を守ると、言葉が余らない。


老人は、うなずいた。それから、土間の壺の枝のほうへ目をやって、しばらく考えていた。


「水は、流しません」


「流さないのですね」


「雨の週は、雨が流してくれますから。汚れたときだけ、と申し上げましたが、雨が降れば、汚れたそばから、地面のほうで流れます。ただ、泥は残りますな。掃いたあとの泥は、袋に入れて、水には、お任せにならないで。隅に寄って、そこで固まりますので」


「掃くのは、同じ順で」


「同じです。奥から手前へ」


そこまでは、三月の手順と変わらなかった。変わったのは、水だけだった。


「ネットは」


「濡れていたら、たたまないでください」


老人は、両手を肩の幅に広げて、見えない網を張るような形をした。


「広げたまま、金具に掛けます。端を引いて、皺を伸ばして。たたむのは、乾いてからです。濡れたまま角を合わせますと、中のほうが乾きませんで、次の週には、角から傷みます。傷んだネットを、次の当番の方が、黙って直しておられることもありました」


「角を合わせて、内へたたむ、というのは」


「乾いているときの手順です。あれはあれで、間違いではありません」


間違いではない、が、ここでは使えない。手順が、二つになった。乾いた週と、濡れた週。二月の私は、一つしかないと思っていた。


聞いたことを、頭の中で一度、並べ直した。水は流さない。泥は袋に入れる。ネットは広げて掛け、乾いてからたたむ。口に出して確かめると、老人は、うなずいた。


「そのとおりです。それで結構でしょう」


「ありがとうございます」


言ってから、ほかに聞くことがないか、探した。なかった。聞くことが尽きるのは、いいことだった。


老人は、膝に両手を置いたまま、少し間を置いた。


「雨の朝は、五分早く出ることにしております」


「五分、ですか」


「急ぐと、滑りますのでな」


手順の話ではなかった。濡れた石畳を、毎週通ってきた人の、足の話だった。


「五分、早く出ます」


「よろしいでしょう」


老人は、それ以上、何も足さなかった。何を聞いてきたのか、どこへ行ってきたのかも、尋ねなかった。今日は、私の側にも、話すことはなかった。


玄関先まで見送られた。戸の脇に立つ老人の足もとは、三和土の上で、静かに揃っていた。


「お気をつけて」


頭を下げて、門を出た。


道の途中で、空を見上げた。雲の底の色が、来たときより、わずかに濃かった。十日もすれば、こうはいかない、という言葉の意味が、空の色の中に、少し見えた気がした。


家に戻って、手帳の表の頁を開いた。一行だけ、書いた。


「百十一日目昼前、角の家の男性宅にて、六月の当番の、雨の週の手順を聞く。同男性より『雨の朝は、五分早く出ることにしております』の由――談」


それから、裏の頁を開いた。聞く順の行の下に、一行を足した。


「雨の週は、水を流さない。泥は袋へ。ネットは、濡れていたら広げて掛け、乾いてからたたむ」


乾いた週の手順は、上のほうに、消さずに残っている。いちばん下に、濡れた週の分が並んだ。同じ頁の上と下に、二つの天気が居た。




翌朝、窓を開けると、空は昨日と同じ薄曇りだった。


路地の向こうで、隣の女性が、鉢に水をやっていた。三つ目の鉢の葉は、昨日までと変わって見えなかった。女性は、私に気づいて、じょうろを下ろした。


「おはようございます。降りそうですね」


「おはようございます。降りませんね、午後までは」


自分の口から出た言葉に、少し驚いた。天気を先に言い、続けて、見立てまで添えた。あの人の言い方だった。


「あら、そうですか。なら、出しちゃおうかしら、洗濯物」


「はい。今のうちが、いいと思います」


女性は、軽く手を上げて、家の中に入っていった。私も、窓の内側に干してあったシャツを外した。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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