第六十四話 話す側
五月の十六日。この家に戻って、百五日目になる。
朝のうち、細い雨が降っていた。屋根を叩くほどの音ではなく、軒の先に粒が溜まっては、落ちるだけの雨だった。八時を過ぎたころに、それが止んだ。窓を開けると、濡れた土の匂いが、卓のほうまで入ってきた。隣の庭の木から、雫が一つずつ落ちて、そのたびに葉が小さく揺れた。路地の石は黒く湿り、水たまりが、空の白さをそのまま映していた。
窓を細く残して、卓に着いた。左に手帳、右に祖母のノートのコピー。鉛筆は、四枚目の白と宇津良町の頁のあいだに、横にして挟んである。
雫の音を、しばらく聞いていた。それから、鉛筆を抜いた。卓の端に置くと、転がらずに止まった。
紙をそっと起こすと、宇津良町の名が、頁の頭に出た。
日付が三つに、頭文字が六つ。道の見取り図が、一枚。祖母のノートのなかで、いちばん長い頁だった。去年は、着いた晩に最初の一行だけ読んで閉じ、次の晩に終わりまで読んだ。今朝は、頭から終わりまで、急がずに読んだ。
道が終わらない。座らない。歩いていれば着く。六人とも、言い回しを違えて、そう言っている。去年、自分の足で聞いて確かめたことが、祖母の字になって、そこに並んでいた。
見取り図は、定規を使わずに引いた旧街道が一本。両側に、四角の家が並ぶ。そのうちの十一軒に、小さな丸が打ってある。凡例はない。丸は、道の両側にばらけていて、途中に一つも打たれていない区間が、二箇所ある。祖母の線は少し曲がっていて、引いた手の速さまで、紙に残っていた。
去年の私は、この丸を、明かりの点く家だと読んだ。読んで、断定はできないと手帳に書いた。今朝も、その読みは動かさなかった。動かす材料は、あれから一つも増えていない。
丸のなかに、田坂さんの家があった。
道沿いの、四角の一つだった。そこに打たれた丸を見て、田坂さんの奥さんの話を思い出した。点け忘れた晩が、一度だけあった。その晩は、帰り道がいつもよりずっと長くかかった。以来、遅い晩は起きて待つことにしている。家族にも、近所にも、言っていない。私は氏名を書かず、言わないと約束した。
丸は、その家の上に、祖母が打った日から変わらずにある。奥さんは、あの丸のことを知らないだろう。祖母が何を思って打ったのかも、知らないだろう。紙の上の丸と、あの家の夜とは、別々の場所にあって、どちらも同じ家のことだった。それだけのことだった。
最後の行まで読んで、頁を伏せた。宇津良町の記述のあとは、白い紙が三枚。その先が笹内町だった。
鉛筆を、三枚目の白と笹内町の頁のあいだへ移した。軸の尻が、縁にのった。
手帳の表に、一行だけ足した。
「百五日目朝、コピーを宇津良町の頁の終わりまで読む」
ペンに蓋をした。窓の外で、雫の落ちる間が、さっきより長くなっていた。
昼前に、買い物に出た。
雨上がりの石畳は、ところどころ色が濃く、日の当たる側だけ先に乾いていた。商店街の八百屋の店先まで来ると、角の家の老人が、台の前にいた。上着は薄い色で、口を折った紙袋を提げている。
「ああ、皆瀬さん。降ったあとの道は、歩きやすいですな。埃が立ちません」
「朝のうち、細い雨でした」
「ええ。あれは、止むと分かる降り方でした。ああいう雨のあとは、日が出るのが早い。洗濯物を出した家は、助かったでしょう」
「傘を使わずに済みました」
「それは何よりです。もっとも、夕方にまた、少し来るかもしれません。西の空が、まだ重いようです」
老人は、軒の外へ顔を向けた。私も、つられて見た。雲の底は灰色で、ところどころに薄く光が滲んでいた。
八百屋の店主が、奥から濡れた台を拭く布を持って出てきて、軽く会釈をした。老人も会釈を返した。そこで、天気の話が一区切りついた。老人は、台のそら豆を一つ持ち上げて、莢の張りを指で確かめてから、戻した。
「皆瀬さん。先だって、あちこちの町へ話を聞きに行っておられたでしょう。差し支えのない範囲で結構ですが、どのようなところでしたか」
声の調子は、雨の話と変わらなかった。
行ってきた町のことを尋ねられたのは、初めてだった。四月の店先では、ご苦労さまと言われただけだった。先日の朝に聞かれたのは、この先のことだった。
そら豆の台から目を上げて、言える形を探した。町の名は出さないことにした。
「山のほうの、古い街道の町がありました」
「ほう」
「その町の人は、夜、家までの道が終わらなくなる話を、笑い話にしていました。帰り道が、いつまでたっても着かない、と。途中で座ってはいけないそうです」
「座ってはいけない」
「はい。座るとどうなるのかは、誰も知りませんでした。座った人がいないそうです。それでも、みんな朝には、家に帰っているそうです」
話しながら、言葉を選んでいるのが、自分でも分かった。選ぶといっても、迷うのとは違った。引き出しを開けて、入れてよいものだけを手に取っていく、という感じに近かった。どの言葉も、あの町の誰もが知っていて、茶飲み話にしている部分だった。道の話は、町の人が自分から話してくれた。そこまでは、持ってきてよかった。
そのさきに、もう一つ、手の届くところにあるものがあった。持ってきてはいけないほうだった。約束した分は、口の手前で止まっていた。止めるのに、力はいらなかった。
「夜も、年寄りが起きている家が、あるそうです」
「なるほど」
それ以上は、言わなかった。言えることが尽きたのではなく、ここから先は言わないと、自分で線を引いたのだった。
老人は、紙袋の口を折り直しながら、ゆっくりうなずいた。
「朝には帰れるのなら、結構なことですな」
「はい。町の人は、そう言っていました」
老人は、そこで言葉を切った。町の名も、誰に聞いたのかも、尋ねなかった。
「長話を失礼しました。そら豆は、莢の張ったものを、今日のうちに」
「はい。いただきます」
老人は、自分の分を店主に頼むと、紙袋を提げて、商店街の奥へ歩いていった。後ろ姿が、人の間に入って、見えなくなった。
そら豆を、一袋もらった。莢は冷たく、湿っていた。店主が、紙の袋の口を、二度折って渡してくれた。
帰り道は、日の当たる側を選んだ。雲の切れ目から、光が石畳に落ちていた。
歩きながら、いま自分がしたことを、考えた。店先で出した自分の声は、思っていたより落ち着いていた。商店街の角で、老人の歩いていった奥を、一度だけ振り返った。そら豆の袋が、歩くたびに膝の横で、かさかさと鳴った。軒から落ちる雫は、もうなくなっていて、石畳の濃い色も、少しずつ薄くなっていた。
私は、よその土地で聞いた話を、自分の住む町の人に話した。去年、祖母が椋坂町でしたのと、同じ側に立っていた。聞く側から、話す側へ回っていた。
それを、良いとも悪いとも決めなかった。祖母がどんな気持ちで話していたのかにも、踏み込まなかった。決めるには、材料が足りなかった。ただ、これまでは何も考えずにやっていたことを、考えながらやることになる、と去年の私は思った。今日は、考えながらやれた。どこまでを話すか、自分で選んで、選んだとおりに話せた。それだけは、確かだった。
もう一つ、気づいたことがあった。
昨日は、頼んだ側だった。頼んだことの行方は、私の手の届かないところにあった。
今日の約束は、逆だった。守っているのは、私だった。守っているかどうかは、守っている側にしか見えない。田坂さんの奥さんは、私が今日、言わなかったことを知らない。これからも、知らないままだろう。
知られないことは、欠けたことではなかった。
商店街の端で、雲の切れ目が広がった。日が差すと、濡れた屋根の瓦が、いっせいに白く光った。見上げて、少しのあいだ立ち止まり、それからまた歩いた。
門をくぐって、玄関の戸を閉めた。台所へ行き、袋を流しの脇に置いた。流しの上の窓から、隣の庭の木が見えた。葉の先が、日に白く乾いていた。
手帳には、今日はこれ以上、何も足さないことにした。店先のことは、もう少し、口の中に置いておきたかった。
そら豆の莢を一つ、割ってみた。白い綿のような内張りのなかに、指で触れるとひやりとする、淡い緑の豆が三つ、並んで入っていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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