第六十二話 また来ます
五月の十四日。この家に戻って、百三日目になる。
朝から、風のない晴れだった。窓の外の路地には、もう日が入っていた。
卓に着く前に、窓を細く開けた。朝の冷えた土の匂いが、短く入ってきた。
流しで手を洗った。水が冷たく、指の先が、目を覚ました。朝にすることは、昨日と同じで、まだ何も立っていなかった。立っていない朝が、続くようになっていた。それを、悪いことだとは、もう思わなかった。
手帳もコピーも、昨日の位置から動いていなかった。鉛筆は、柊野町の頁のうしろ、字のない紙の手前に、挟まったままだった。軸の尻だけが、紙の縁から出ていた。
今朝も、抜いた。つまんで引くと、紙を擦る小さな音がして、軸が出てきた。卓の端に横にして置いた。転がりかけて、止まった。
字のない紙を、一枚めくった。その次の頁に、島の名が出た。見出しの行に、沖縄県・波名島、とあった。
その下は、日付が一つだった。そのあとに、数行が続いている。それで、頁は終わりだった。
去年、島の宿の部屋で読んだときと、頁の形は、少しも変わっていない。紙の白さも、行の間隔も、同じだった。変わったのは、読む側だった。この数行の後ろに、書かれなかった日々があることを、私は今は知っている。
畑のこと。天気のこと。台風の年のこと。祖母が耳にして、筆にしなかった分だった。それは頁のどこにも見えないのに、行と行のあいだの白いところに、うっすら沈んでいるように見えた。
一行ずつ、ゆっくり読んだ。短い行ばかりだった。読み終えるのに、さほどかからなかった。
読み終えても、手は、頁の上に置いたままだった。
目の前の紙は、数行きりのはずだった。その紙の上に、別のものが、ゆっくり立ち上がってきた。
堤防の風下だった。舫われた船が、波に合わせて上下していた。風が鳴り、タイヤが鳴り、和夫さんが箱を置く音が、そこに混じっていた。ハルさんが、横に立っていた。
「酔ったら、外に出なさい。中におるより、ましさ」と、あの人は言った。
それから、鞄を持ち直した。
「また来ます」
私の声だった。思いのほか、普通の声だった。
手が、頁の上で、止まった。
この一年、私は「また来ます」を言わずにきた。そう思っていた。人に会って話を聞いて、礼を言って、別れる。その終わりに、次の約束を置いてこなかった、と。何度か、そのことを、自分でも確かめた覚えがある。
違っていた。
一度だけ、言っていた。波名島の港で、船を待つあいだに。誰に頼まれたのでもなく、次に来る理由もなかったのに、口のほうが先に動いた。言ってしまってから、自分で少し驚いたことまで、思い出した。
ハルさんは、目を細めて、そう、と言った。それから、可笑しそうに笑って、あんた、静さんより急ぐねえ、と言った。
その意味を、あのとき私は尋ねなかった。尋ねようとして、やめた。船の上で、急ぐというのは泊まる日の長さのことだろうと、自分なりに解いて、それきりにしていた。解いたつもりのまま、ハルさんの笑った顔だけが、はっきり残っていた。
そのあと、腕のあたりを、二度叩かれた。軽い手だった。それで、あの場は終わったのだった。
手帳には、その手のことも、書いていない。
どうして、忘れていたのだろう。
忘れた、というのとは違う気がした。思い出そうとすれば、こんなに近くにあった。ただ、探しに行ったことがなかった。
手帳を、手前に引き寄せた。角が丸く減った表紙が、掌に馴染んだ。
三日目の頁を、探した。波名島の船の中で書いた頁だった。台風で午後の便が欠航の見込みになった、と書いた行がある。その下に、聴取は行わない、と決めた行が、もう一行。
二つの行を、何度も読んだ。
「また来ます」は、どこにも入っていなかった。
書かなかったのだった。口に出した言葉なのに、紙に残さなかった。あの日の私には、書くほどのことには、見えなかったのだろう。次の土地のことで、頭がいっぱいだった。
書いておけば、あとで読み返せる。そう信じて、私はこの手帳を使ってきた。その裏側に、書かなかったものは読み返せない、という当たり前のことがあった。
書かなかったことは、覚えていないことと、同じ顔をする。紙の上に無いものは、無かったことのように、そこに座る。そうして一年、私は、言わなかった人のつもりで、歩いていた。
そう正してしまうと、胸のあたりが、少しだけ軽くなった。一年間、ないことにしていた荷物が、実は鞄の底にずっと入っていた。そんな気分だった。
言わなかった人のつもりでいた私は、ここで、いなくなった。代わりに、言った人の私が、卓の前に座っていた。
もうひとつ、浮かんだことがあった。
汐待町で聞いた話だった。祖母も、帰るときに、「また来ます」と言い残していったのだという。同じ一言を、祖母も、私も、口にしていた。急ぐ私と、急がなかった静さん。ハルさんの言葉が、そこで初めて、別の重さを持った気がした。けれど、その重さの先までは、追わなかった。
窓の外で、洗濯物を取り込む音がした。
立って、台所へ行った。湯を沸かすほどの気分ではなかった。コップに水を汲んで、半分だけ飲んだ。流しの縁に、朝の光が、細く当たっている。
あの港で、タイヤの鳴る音を聞いていた。潮と、荷の箱の匂いがしていた。デッキでは、髪が顔に張りついた。思い出すものが、次々に出てきた。
コップを置いて、卓に戻った。
コピーの頁に、目を戻した。波名島の数行は、数行のままだった。
あの島へ、もう一度行ってみたい。
そう思った。
思ってから、その言葉を、頭の中で、もう一度なぞった。行く、とは言っていない。行かなければならない、とも違う。約束を守りに、と言えば、大げさになる。あの一言は、約束と呼ぶには、軽すぎた。
言った一言の、続きがあるなら。その続きを、自分の足で、確かめてみたい。それだけだった。
誰に話すつもりもなかった。誰かに何かを尋ねに、というのでもなかった。理由も、今は、それ以上いらなかった。
切符のことも、船の便のことも、頭には浮かばなかった。浮かべないようにしたのではなかった。ただ、そこまで、気持ちが届いていなかった。港の景色が、先に見えただけだった。
それで、足りる朝だった。
足りない、と思う日は、これまでにもあった。もっと確かな理由が欲しい、と。今朝は、そうは思わなかった。理由のないまま、気持ちだけが、ひとつ方を向いた。向いた先は、一年前に、一度立った場所だった。
ペンを取った。蓋を外した。
手帳の表の頁を、開いた。前の日の行から続けて書いた。
「百三日目朝、コピーを波名島の頁まで読む」
次の行に、移った。
「去年、波名島の港にて、ハル氏に『また来ます』と述べる――当方談。本日時点」
当方談は、これで八度目になった。
これまで、この印を付けてきた先は、言ったことか、頭に残っていることだった。今朝の行は、その両方に当たった。口に出したのに、手帳には載せなかったことを、一年たって、やっと置いた。本日時点の四字が、いつもより、まっすぐ置けた。
本日時点、と書き添えたのは、癖のようなものだった。明日になれば、私がまた何かを思い出すかもしれない。この四字は、そのための余白だった。
ペン先を、紙から離した。
「行ってみたい」は、書かなかった。
裏の頁を開いて、そこにも書かないことにした。そこに並ぶのは、日取りのあるものか、せめて、やるつもりのあるものだった。行ってみたいは、まだ、そのどちらでもない。そこに置くと、用事のような顔をしてしまう。まだ、その顔にはさせたくなかった。気持ちは、字にせず、胸のあたりに置いておけばよかった。
ペンに、蓋をした。
コピーに目を戻した。波名島の数行の先に、白い紙が何枚か続いている。去年、船の中で繰ったときと、同じ眺めだった。何日ぶんの空白なのか、やはり紙からは分からなかった。その次の頁には、椋坂町の名がある。
鉛筆を、波名島の頁の終わりに挟み直した。白い紙を上から重ねると、芯の黒い先は紙のあいだに隠れ、軸だけが、縁にのった。
鉛筆の位置は、昨日より、紙何枚かぶん、遠いところになった。頁を重ねた厚みが、指の腹に、昨日とは違う重さで伝わった。それだけのことが、手の中に残った。進んだと言えるほどの距離でもなかった。ただ、位置が違っていた。
手帳は、開いたまま、卓に置いておいた。インクの乾く間だけ、そうしておく。
窓から、高くなった日が、斜めに入ってきた。開いた頁の上で、書いたばかりの「去年」の二字が、白く光っていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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