第六十一話 詳細聞けず
五月の十三日。この家に戻って、百二日目になる。
曇りだった。雲は薄く、空の全体が一枚の白い紙のように見えた。風がなく、窓のカーテンは垂れたまま動かなかった。
目が覚めたとき、昨日の続きが、頭の隅にあった。続きと呼ぶには、小さすぎた。卓の上に、読みかけの頁が挟んである、というだけのことだった。
朝のうちにすることが、ひとつも立っていない。立っていないことが、気楽だった。
卓に着いて、背もたれに体を預けず、少し前へ出た。
手帳とコピーは、昨日置いたとおりの場所にあった。鉛筆の軸の尻は、コピーの縁に、昨日の角度のまま留まっていた。
昨日は、栞の代わりだった。今朝は、抜く物だった。抜くと決めたわけでもなかった。座ったら、目がそこへ向いた。それだけだった。
指で軸をつまんだ。ゆっくり引くと、頁のあいだに挟まっていた分が、紙を擦って出てきた。潰れた先に、灰色の粉が薄くついている。卓の端に、横にして置いた。鉛筆の転がる音が、短く鳴って止まった。
抜いたあとの紙は、すぐには平らに戻らなかった。挟まれていた場所だけ、わずかに浮いている。手のひらで、一度、撫でた。
それから、境の紙をめくった。字のない紙が一枚あって、もう一枚めくると、別の土地の頁の最初が目の前に出た。
この頁の見出しは、山の話ではなかった。聞き取りの相手は、町の人だった。
柊野町、と私は口の中で読んだ。去年の夏に、電車を降りて、改札を出た町だった。
驚くほど、ふつうの町だった。小さなロータリーと、コンビニの明かりと、エンジンをかけたまま客を待つタクシーを覚えている。夕方には、どこかの家から、夕餉の匂いがした。日が落ちても、アスファルトの熱が、靴の底から上がってきた。それは頁の中にはない。頁の中には、祖母の字だけが並んでいる。二十数年前の同じ町の暑さは、頁には書かれていない。書かれているのは、日付と、祖母の字だけだった。
昨日と違うのは、手の置き場だった。昨日は、読み始める前に、手のひらを表紙に載せて、息を一つ入れた。今朝は、それをしなかった。片方の手が卓に平らに載り、もう片方が、頁の端を押さえている。
一行を、端から端まで、ゆっくり辿った。
頁の中ほどでは、聞き取りの行が、三つ続いていた。会った人の顔は、頁にはなかった。けれど私の頭には、あの店先の、丸椅子の高さが、先に浮かんだ。狭い店の奥から出してもらった椅子だった。
頁は、ほんの数枚で終わりに近づいた。常世谷にあれだけ紙を使った人が、ここではずいぶん早く筆を置いている。去年の夜にも、同じことを思った。今朝は、思っただけで、そこから先へは進まなかった。
めくる手は、止まらなかった。紙の端のざらつきが、指の腹に当たっては、離れた。時間がどのくらい過ぎたのか、読んでいる間は分からなかった。
最後の頁の、終わりに近い場所で、目が止まった。
「地元住民M・T氏(女性、当時町内小学校在籍)より聞き取り」
そのすぐ下の行だった。
「M・T氏の祖母、類話の先行存在を示唆――要確認、詳細聞けず」
祖母の字だった。ほかの行と、少しも変わらない太さで、そこにあった。
要確認、の三文字は、コピーの上では、今も要確認のままだった。そのあとの、詳細聞けず、の五文字も、同じだった。行の下に、返事はない。余白は、白いまま残っている。
祖母は、聞けなかった、と書いた。本当に聞けなかったのか、聞けたのに書かずにおいたのか、その区別は、紙の上には無い。言い切っているのは、書いたところまでだった。
書いてあることだけを、書いてあるとおりに読む。祖母の字は、そう読めるように、迷いなく書かれていた。紙の上に、そのあとが静かに見えていた。
私は、手帳を取った。
表の頁から、さかのぼって繰った。百一日目、百日目、と日付が戻っていく。
途中で、いくつもの行が、目の端を通り過ぎた。四月二十九日を、暦の日付で書き出した行。森田さんの名の入った談の行。二月六日の晩のことを、何度も言い直した行。印の付いた行には、そのとき付けた印が、そのとき付けたとおりに立っていた。止まらずに、繰った。今朝、探しているのは、もっと前の頁だった。
いちばん古い東京の行を過ぎると、この家に戻る前の頁へ入る。字の詰まり方が、そこから少し変わる。旅の頁だった。
手帳の角は、あちこちで丸く減っている。去年から、この冬まで、鞄の底で揺られた分だった。
柊野町の頁は、手帳の頭に近いところにあった。
ペンの跡が、頁ごとに違っていた。急ぎの日は字が傾き、夜に書いた日は、行の終わりが下がっている。その中に、一頁だけ、落ち着いた字の頁があった。
祖母の行を、書き取った頁だった。
その一つ前の頁には、私の字で、町の人から聞いたことが並んでいる。聞いた話の行は、談で終わっていた。祖母の頁と、同じ形だった。あの夏の私は、祖母の記法を、まだ真似ているつもりでいた。真似ているうちに、それが自分の書き方になっていた。
コピーを左に、手帳を右に、卓の真ん中で入れ替えて並べた。手帳のほうが、背が低い。開いた頁の上の端を、指で揃えた。
左の頁に、問いがある。
右の頁には、同じ一行が、私の字で写してある。そのすぐ下に、一行だけ、短い字が足されていた。
「聴取済み」
左の紙では、行は、まだ開いていた。右の紙では、同じ行の下に、返事がついていた。ひとつずつ眺めているあいだは、それぞれが、ただの紙だった。
二つを並べて、視線を左から右へ動かすと、同じ一行が、二度、目に入った。一度目は、問いのまま。二度目は、返事のついた形で。
同じ行が、二つの紙の上で、別の姿をしている。祖母の紙の上では、まだ開いている。私の紙の上では、閉じている。どちらかが間違い、ということではなかった。どちらも、その紙の上では、そのとおりだった。
去年の私は、返事を書いたとき、あっけないほど短い、と思った。その行が、祖母の紙の上では今も開いていることを、並べて見たのは、今朝が初めてだった。
あの町で、人に会った。川沿いの縁側で、答えを聞いた。ひと晩、聞けなかったことが、次の朝に聞けた。それは、私の足で行って、私の耳で聞いたことだった。返事の四文字は、その日の私の手が書いた。祖母の紙の上には、その日の私は、どこにもいない。
ペンを手に取った。
蓋を外すと、小さな音が鳴った。コピーの余白に、ペン先を寄せた。祖母の行の、すぐ下だった。そこに書き足せば、左の紙も、右の紙と同じ形になるはずだった。
一行のことだった。インクは、すぐに乾く。誰にも見られない、卓の上のことでもあった。
ペン先は、紙の手前で止めた。
書かなかった。
祖母の紙は、祖母の置いたとおりに置く。私の返事は、私の紙に置く。それでいい、と思った。長い理屈は、要らなかった。
ペンを持ち上げて、蓋を戻した。音は、ひとつだけだった。
左の紙が、いつまでも要確認のままであることは、良くも悪くもなかった。祖母が立てた札は、立てたままで、今もそこに立っている。その札の隣に、私の札が、別の紙の上にある。並べたときだけ、二枚が見える。
コピーに、目を戻した。
柊野町の頁は、その一行で終わっていた。その先には、字のない紙が一枚、挟まっている。さらにめくれば、また別の土地の頁になる。
残りの厚みを、指で確かめた。昨日より、減っていた。
そこから先を、いつ読むかは、決めなかった。決めようとも、しなかった。今朝の分は、ここまでだった。
卓の端から、鉛筆を取った。先が潰れて、黒い。
字のない紙の手前に、鉛筆を横にして置き、そっと紙を重ねた。軸の尻が、字のない紙の縁から、わずかに出た。
ペンの蓋を、もう一度外した。手帳の表の頁へ戻って、前の日の行の、すぐ下に書いた。
「百二日目朝、コピーを柊野町の頁の終わりまで読む」
印は、どれも付けなかった。読んだ場所を、書いただけだった。
裏の頁を開いた。
最後に書いた、読み返す、の行は、まだ済んでいない行のまま、そこにあった。手を触れずにおいた。
ペンに蓋をした。表の頁に戻して、手帳を閉じた。
二冊を、昨日までの位置に戻した。手帳が左、コピーが右。指一本ぶんの間を空けて、背の低いほうを、手前にそろえた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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