第五十九話 読み返す
五月の十一日。この家に戻って、百日目になる。
雨の上がった翌日で、空は高く、雲の縁まで乾いて見えた。窓を開けても、冷えは入ってこなかった。
台所で、湯だけを沸かした。白湯を湯呑みに半分注いで、立ったまま、ゆっくり飲んだ。昨日の朝までの湿りは、もう、見当たらない。流しの縁に落ちた光が、水の粒の形をしていた。
洗い物のない朝だった。手帳に書く行も、まだ立っていなかった。その空いた手を、どこへ回すか。考えるうちに、廊下の先が目に入った。
玄関の脇、コート掛けの横の釘に、鞄が掛かっている。冬のあいだ、よく肩に掛けた鞄だった。三月の半ばから、使う日が減り、四月には、ほとんど釘に掛かったままになった。持って出る用事が、なかった。
厚手のコートは、四月のうちに袋へ入れて、しまってある。鞄だけが、冬の形のまま残っていた。肩に掛ける紐は、肩の当たる一か所だけが、色が濃い。
今日は、あれを空けよう、と思った。理由は、天気のほかになかった。晴れた五月の朝に、冬の中身を詰めた鞄が玄関に掛かっていると、家のほうが、ひと季節遅れて見える。衣替えの、残りの一つだった。
茶は淹れずに、鞄を取った。居間へ運んで、卓の上に新聞紙を二枚広げた。
留め具を外して、ファスナーを端まで引いた。口が、大きく開いた。冬の匂いが、少しだけ上がった。布と、革と、使い込んだ紙の匂いだった。
底まで空けるのは、いつ以来だろうか。思い出せなかった。
空けるといっても、特別なことは何もない。引き出しを一段ずつ抜くのと、同じ手つきだった。物の順番を、頭の中でなぞりながら、出していった。
まず、手を入れて、出せるものから出した。
小さな缶入りののど飴が、一つ。蓋を振ると、乾いた音が、二度鳴った。中身は、半分も残っていない。使い捨てのカイロは、袋のまま二つ出てきた。表の字が、擦れて薄い。もう温かくならない、と指で分かった。
ハンカチ。折り目の癖が、四つ折りのまま付いている。ペンが一本、鉛筆が一本。鉛筆の先は、丸く、黒く潰れていた。
それらを、新聞紙の上に、順に並べた。並べると、冬のあいだ、鞄の中の暮らしがどのくらいだったのか、卓の上に小さく収まった。思っていたより、少ない物で足りていた。手帳と財布は、毎朝ここから出し入れしていた。底のほうには、手を入れていなかった。
外側のポケットには、小銭が少し入っていた。いつ入れたのか、覚えていない。卓の端に、重ねずに、横へ並べた。鈍い音が、続けて二度鳴った。
鞄の底には、細かい埃と、糸くずが溜まっていた。逆さにして、新聞紙の上で、軽く振った。灰色の粉が、ぱらぱらと落ちた。
内側の仕切りの布が、片側だけ、膨らんでいた。
指を入れた。紙の端が当たった。
引き出すと、角の丸い、厚みのある束が出てきた。表紙の紙は、何度も触れられて、布のようにたわんでいる。折り目のところは、白く擦れていた。
祖母のノートの、コピーだった。
二月の朝、卓の上に出したのは、覚えている。そのあと、鞄へ戻したのだろう。戻した場面は、思い出せなかった。思い出せないほど、手が自然に動いたのだと思う。以来、三か月と少し、この仕切りの中で、鞄が揺れるたびに、一緒に揺れていた。
手のひらに載せると、思ったよりも軽かった。二階の引き出しにある原本は、これとは別の重さをしている。こちらは、持ち歩くための紙だった。
一年のあいだ、いちばん多く開いた紙のはずだった。けれど、このコピーを、はじめから終わりまで通して読んだ覚えは、なかった。開いたのは、いつも、そのとき要る頁だった。探して、見つけて、閉じる。その繰り返しで、紙は丸くなった。
通して読むという使い方を、この紙に、したことがない。そう気づいて、手のひらの上の軽さが、少し違って感じられた。
卓の上は、新聞紙と、小さな物の列と、この一冊で、いっぱいになった。
少しのあいだ、動かずに、それを見た。
のど飴の缶と、カイロと、ハンカチを、まとめて脇へ寄せた。ペンと鉛筆は、新聞紙の脇へ寄せた。使えるものと、使えないものとは、そのとき自然に分かれた。カイロの袋だけは、捨てるぶんとして、新聞紙の隅に除けた。
鞄の外側は、固く絞った布で、ひと拭きした。肩紐の濃い色のところは、布を当てても、色は動かなかった。艶だけが、少し戻った。留め具の裏に、乾いた泥の粒が一つ、挟まっている。爪の先で、はじいて落とした。
新聞紙の上には、コピーだけが残った。
どこへ置くかを、考えた。
鞄の口は、まだ開いたまま、卓の脇に立っていた。そちらは見ないようにして、紙だけを見た。
二階の、原本の入った引き出しへ、戻すのが、いちばん収まりがよかった。同じものが、同じ段にそろう。ただ、そこへ戻せば、しまうことになる。そうしたい気持ちが、あるかどうかを、自分で確かめた。なかった。
鞄の仕切りへ戻すのは、論外だった。あそこに入れれば、また持って出ることになる。出る予定は、なかった。
では、床の上か、棚か、と見回した。決まらないまま、視線が、卓の端で止まった。
手帳が、そこに置いてあった。昨日からずっと、同じ場所にある。表紙を伏せて、角を卓の縁にそろえてある。
コピーを、その隣に置いた。
手帳の右に、コピーの左の縁が、指一本ぶんの間を空けて、並んだ。背の高さは、手帳のほうが少し低い。紙の色は、コピーのほうが、うっすらと黄ばんでいる。並べて初めて、二つが別の時間を過ごしてきた紙だと分かった。
悪くない場所だった。仕舞いこむでも、持ち出すでもない。卓は、朝食を取る場所で、手紙を開く場所で、手帳を書く場所だった。いちばん普通の用事の、すぐ隣に置いた。
近くに置けば、目に入る。目に入れば、気にかかる。それを承知で、そこに置いた。見ないふりをする置き場所は、今日は選ばなかった。
指の腹で、表紙の端に触れた。ほんの少しだけ、めくった。一枚目の紙の、縁が見えた。紙の目が、毛羽立っている。
そこで、手を止めた。
今日は、読み始めない。そう決めたのは、紙に触ったあとだった。開けば、読んでしまう。読めば、何かしら思ってしまう。思ったことを、今日の私がどう受け止めるか、見当がつかなかった。わけの分からないまま開く日は、今日ではない。
表紙を、元に戻した。
それでも、置いただけで終わらせる気には、ならなかった。
表紙の角が、卓の縁にそろっているのを、いったん崩した。手帳を取って、裏の頁を繰った。
いちばん下は、「六月、集積所の掃除当番」のままだった。書いてから、九日が経っている。字の縁は、すっかり紙になじんでいた。
その下に、ペンの先を置いた。
行き先でも、日取りでもない行を、書きたかった。そういう用事が、一つ、見えていた。
「ノートのコピーを、はじめから読み返す」
書いて、読んだ。
日付は、入れなかった。入れる日が、まだ来ていない。けれど、その一行は、紙に立った。下の行は、上の行と同じ濃さだった。当番も、読み返すことも、手帳の上では、同じ高さの用事だった。
決めるより先に、自分が何を持っているのかを、見る。順としては、それでよかった。まだ決めていないことは、そのまま残った。ただ、決めるために手を動かす用事が、一つだけ、立った。
それ以上は、足さなかった。
裏の頁には、白い余りが、まだたっぷり残っている。その白は、急いで埋める気にならなかった。ページの下半分が、静かに、明るかった。
表の頁に戻った。九十九日目の二行の、すぐ下に、短く書いた。
「百日目朝、鞄を空ける」
談は付けなかった。
ペンに、蓋をした。
表の行も、裏の行も、上から下へ、もう一度だけ目で辿った。どれも、私の字だった。急がず、力まず、同じ速さで並んでいる。
新聞紙を、中身ごと畳むと、紙の中で、細かい埃が動く音がした。庭へ出て、土の上で、一度だけ払った。灰色の粉が、風に流れた。
サンダルを履いたまま、庭の端で、しばらく立った。日差しは、もう首の後ろに、温かかった。雨で締まった土の上で、足もとの影が、サンダルのまわりに丸く寄っていた。
居間に戻って、鞄の内側にも、布を何度か往復させた。仕切りの内側も、拭いた。口を、大きく開けたまま、窓の下の床に置いた。仕切りの布が、内側でだらりと垂れている。縫い目に、細い糸くずが一本、残っていた。
指で、つまんだ。
肩に、あの紐の感じが、ふと戻った。冬の夕方、鞄が片側へ傾くたびに、掛け直した手の癖だった。空の鞄は、置くと、ずいぶん小さかった。
塀の向こうから、隣の女性の声がした。
「お掃除ですか」
窓の外へ、声を返した。
「ええ。冬の鞄を、空けていました」
「そうでしたか。今日は、よく乾きますよ」
それきり、物音は遠ざかった。隣のほうで、戸が一度だけ鳴って、止まった。
卓の端には、小さな物の列が残っていた。手帳と、コピーは、指一本ぶんの間を空けて並んでいた。並んだ二つの角を比べると、コピーのほうが、よく丸かった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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