第五十八話 本日時点
五月の十日だった。この家に戻って、九十九日目の朝になる。
夜のうちに、雨が通ったらしかった。軒の先から、ときどき一滴、遅れて落ちる音がして、隣の庭の木の葉が、いつもより黒く見えた。
九十六日目から九十八日目までの三日は、手帳の表に、書く行がないまま過ぎた。空白が、三日ぶん長くなった。空いていることに、もう理由を探さなくなっていた。書かれない日にも、洗い物は溜まり、廊下には埃が積もる。それを一つずつ片づけるうちに、日は暮れた。手帳に書かれない暮らしのほうが、この三日は、ずっと長かった。
収集の日だった。
前の晩に水を切った袋を、口の結び目を確かめてから、提げた。
門を出ると、石畳が濡れていた。踏むと、靴の底が、わずかに鳴った。隣の門の前では、鉢が三つ並んでいて、三つ目の葉に付いた水の玉が、空の明るさを映して光っていた。人の姿はなかった。歩く速さは変えずに通った。
遠くで、雨戸を繰る音がした。
角を曲がると、集積所だった。
囲いの中には、袋がもう四つ、五つ寄っていた。青いネットは、金具に、四つに畳まれて掛かっている。五月の当番は、私の番ではなかった。箒は、柵に立てかけられたままだった。柄には、手を伸ばさなかった。
袋を、端に置いた。金具からネットを取って、袋の上にかぶせる。広げるまでもなく、折り目のほうが先にほどけた。端は、柵の足に掛けた。四月のうちに、手が覚えた順だった。袋の山の肌が、青い網目の下に、うっすらと透けて見えた。
箒は、先が片側だけ、斜めに削れている。その減り方は、五月になっても、同じだった。六月には、あの柄が、私の手の中に来る。それだけは、決まっていた。
そこまで済ませたところで、後ろから、足音が来た。濡れた道を踏む靴が、急がない間隔で、近づいてくる。振り向く前に、誰の足か、分かった気がした。
角の家の老人だった。薄い色の上着の襟を立てて、片手に、口を固く結んだ袋を提げている。
「おはようございます」
「ああ、皆瀬さん。おはようございます。早いですな」
老人は、袋を持ったまま近づいて、ネットの端を指で持ち上げた。自分の袋を、私の袋の隣へ置く。ネットを戻すと、柵の足に掛けた端が外れていないかどうかを、目で確かめた。外れていなかった。
「今朝は、湿っておりますな。明け方に、一降りあったのでしょう。道が、まだ乾いておりません」
「ええ。軒から、まだ落ちていました」
「そうでしょう。もっとも、この湿りは、昼まで持ちません。西の雲が、薄くなっております」
老人は、袋を置いた手を、上着の裾で軽く拭いてから、屋根の向こうを仰いだ。つられて、私も見た。雲の端が、一か所だけ、白く抜けている。
「昼には、晴れますな。濡れたものを干すなら、午後がよろしいでしょう」
「そうします」
「五月は、気まぐれでいけません。朝に降って、昼に晴れる日は、かえって、夕方に冷えるものです」
「上着を、出しておきます」
老人は、うなずいた。空から目を戻して、天気の話と同じ調子のまま、続けた。
「ときに、皆瀬さん」
「はい」
「また、どちらかへ、お出かけになりますか」
柵の足に掛けた端を、直すふりをしていた指が、止まっていた。
声の高さは、さっきまでの湿り気の話と、変わらなかった。声を落とす気配も、身を乗り出す気配もない。近所の人が、隣へ出向く人に掛ける口ぶりだった。
四月の店先で、この一年は各地へ話を聞きに行っていた、と言ったのは、私のほうだった。あのとき、老人は何も尋ねなかった。尋ねなかった人が、今朝は、尋ねている。過去の形で受け取った人が、先の形で。どこへ、とも、いつ、とも続かなかった。「お出かけ」の一語に、荷の重さは入っていなかった。
答えを探した。口の中で、二つ三つ、言い方を並べてみた。どれも、出せば、今日のうちに形を持ってしまうものだった。見つかったのは、どちらの言い方でもなかった。
「まだ、決めていません」
口に出すと、答えは、思ったよりも、軽く外へ出た。言ってみて、嘘ではない、と思った。ほかに言えることがなかった。どちらの側にも、まだ置いていない。置いていないものを、置いていない、と言った。それだけだった。
「そうですか」
老人は、それだけ言った。うなずきもせず、首を傾げもしなかった。尋ねたことと、答えを聞いたことが、同じ高さに並んでいた。
老人の目は、もうネットの下の袋に戻っていた。六つ、七つの袋を端から順に見て、自分の袋がちょうど間に収まっているのを、確かめているようだった。
遠くで、車の音がした。収集の車かどうかは、まだ分からなかった。
「雲が、切れてきましたな」
見上げると、西の白いところが、さっきより広がっていた。
「では、お先に」
「はい。ありがとうございました」
老人は、来た道を戻っていった。
ネットの下で、袋が、風を受けて、かさりと鳴った。柵の先から、水の玉が一つ、落ちた。囲いの中は、しんとしていた。
私も、囲いを離れた。
歩きながら、問いを二度、口の中で転がした。また、どちらかへ、お出かけになりますか。答えは、二度とも、同じだった。同じだと確かめただけだった。
帰り道の半ばで、後ろのほうに、収集車が止まった。振り返らなくても、荷台の脇に立った作業の人が、ネットの端を持ち上げ、袋を一つずつ荷台へ上げていくのは、分かった。外されたネットは、地面に広がったまま、風に少し浮いているだろう。
たたむのは、今日の私の役目ではない。そのまま、歩いた。
戻ると、まず手を洗った。卓で、手帳を開いた。
表の頁は、九十五日目の長い一行の下で、空いている。九十六日目から九十八日目は、そのままにしてある。九十九日目の行は、その下に置くことにした。
談の行から、書いた。人の言ったことは、言ったとおりに写す。それが先で、自分のことは、そのあとだった。順は、この三か月で、手に付いていた。
「九十九日目朝、集積所にて、角の家の男性より『また、どちらかへ、お出かけになりますか』の由――談」
老人の「そうですか」は、行に入れなかった。天気の話も、入れなかった。
次の行に移った。今度は、私が言ったことだった。
「同日、同所にて、まだ決めていない旨を答える――当方談。本日時点」
書いたところで、ペンが、行の終わりの四字の上で、止まった。書き慣れた四字のはずだった。
七度目の当方談だった。
この印を、私は、これまで、起きたことに付けてきた。犬小屋の記憶にも、夜の話にも、同じ四字が付いている。覚えていること。言ったこと。行った夜のこと。付けた先は、たいてい、もう済んだことだった。今日の行は、少し違った。答えたのは今日でも、答えの中身は、まだ決まっていないことのほうにあった。
「まだ決めていません」は、今日のところは、という答えだった。明日の朝に、同じとは限らない。そのことを、印のほうが、私より先に、言っていた。
二行を、上から読み返した。老人の問いと、私の答えが、同じ字の大きさで並んでいた。どちらが重いということも、なかった。
気づいたことは、それきりだった。先は、追わなかった。ペンの蓋を、嵌めた。
裏の頁を開いた。
最後の行には、「六月、集積所の掃除当番」が、書いたときのまま立っていた。
書いてから、八日が過ぎていた。インクは紙になじんで、字の縁が、もう光らない。
その下に、足せる行は、なかった。日取りの付いた用事は、まだ、六月の当番ひとつだけだった。
その一行が、嘘になる日は、今のところ、見えなかった。足りない、とは思わなかった。ひとつ立っていれば、六月の朝のことは、それで足りる。そのほかの朝が、どうなるのかは、今日は見ないことにした。
手帳を閉じた。
それから、雑巾を絞って、庭へ出た。昨夜の雨で、物干しの竿が、端から端まで濡れている。片側から、ゆっくり拭いていった。水の筋が、雑巾の通ったあとだけ、乾いた木の色になる。
拭き終えて、雑巾を、竿の端に掛けた。絞り水の跡が、足もとの土に、丸く二つ残った。
昼を過ぎて、雲が切れた。空の高いところまで、青が見えた。庭の土の濡れ跡が、端から薄くなっていった。
朝のうちに洗っておいたシャツを、肩の縫い目をそろえてから、袖から竿に通した。洗濯ばさみを二つ、襟の左右に留める。風は弱く、裾だけが、ゆっくり揺れた。
シャツの影が、土の上に短く落ちた。袖の中に入っていた空気が、押し出されて、細い筋になって抜けた。濡れていた朝の色は、もう、見えなかった。
もう一枚、タオルを干した。竿は、二枚ぶんの重みで、わずかにたわんだ。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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