第五十六話 ひと月先
五月の二日。朝のうちから、風が軽かった。この家に戻って、九十一日目になる。
昨日と一昨日は、手帳の表が白いままだった。収集の日でもなく、郵便受けも静かで、台所と居間を行き来しただけの二日だった。行がなくても、朝の数字は、毎朝ひとつずつ増えている。書くことのない日が続くのは、悪いことではない、と近ごろは思う。
手帳の行は、今日から、また「何日目」で書き出すことにしてある。括弧をつけたのは、あの日の一行だけだった。
窓を開けると、庭木の若葉の匂いが入ってきた。四月の終わりに比べて、緑が一段、濃くなっている。卓で茶を淹れた。湯呑みに注ぎ終えて、急須の最後の一滴が落ちきるのを待っていると、門のあたりで、蓋が動いた。郵便受けだった。
蓋が一度、かたり、と鳴った。そのあとに、重いものが底へ滑っていく音が続いた。葉書の音ではない。板の音だった。板なら、蓋の音が違う。それを、耳のほうが先に覚えていた。
茶は、湯呑みに注いだまま口をつけず、門へ出た。
サンダルの踵を踏んだまま、数歩、門まで歩いた。通りに人影はなく、隣の庭のほうから、水の音だけが細く来ていた。
郵便受けの底に、角の擦れた板が、斜めに入っていた。取り上げると、紐の結び目が、掌に当たった。結んだ人の力の入れ方が、そのまま固く残っている。この板は、いくつもの手を通ってきて、どの手も、同じ結び方をしてきたのだろう。
居間の卓で、紐をほどいた。
いちばん上は、今月の一覧だった。皆瀬の欄は、印刷の字のまま、朱の入る前だった。先の家々の朱は、濃さがばらばらで、指でなぞると、紙より少しだけ盛り上がって感じられた。薄い朱は、急いで押した朝だろうか。濃い朱は、朱肉を新しくしたばかりの家だろうか。そんなことを思いながら、順に追った。
繰ると、当番の表が出てきた。
先月の欄には、森田、とある。四月に見たとおりだった。今月の欄に目を移した。
五月の欄には、名前が入っていた。
見覚えのない名前だった。細い字で、一画ずつ、ていねいに置いてある。隣の女性の字ではない。先月の欄の字とは、運びが違った。ペンも、別のものだった。誰かが、いつの間にか、ここへ書いている。この板が回る道筋のどこかで、私の知らない人が、私の知らないうちに、ひと月ぶんの番を引き受けている。それは、四月まで私の前にあった景色と、少しも変わらなかった。
声に出して読むほどの名前ではなかった。目で、一度なぞった。なぞり終えると、その名前は、ただの字の並びになった。知らない人の名が、知らないまま、この家の卓の上にある。
手が、一度、止まった。
明日は、収集の日になる。箒を持つつもりで、手が待っていたのだと、止まってから気づいた。奥から手前へ掃く動きを、肩のほうが、もう用意していた。その行き先が、ふいに、なくなった。肩が、半端な高さで、宙に残っていた。
落胆は、しなかった。誰かが先に書いていれば、それでかまわない。そう思ったうえで、手帳の裏に書いたのは、自分だった。決めたとおりのことが起きただけだった。
その下の欄を見た。
六月の欄は、空いていた。
罫の中に、何も入っていない。まっさらな白のまま、動かなかった。先月の私は、五月の欄に、同じ白さを見ていた。その白は、もう埋まっている。六月の白だけが、まだ誰の手にも触れられていなかった。
手帳の、裏の頁を開いた。いちばん下の行を、声に出さずに、読んだ。
「板が回ってきて、空いている欄があったら、自分の字で、名前を書く」
五月でも六月でも、空いている欄があれば。その一行は、月を限っていなかった。あの日の自分は、六月まで見て書いたのだった。字は、そのとおりに残っていた。
ペンを取った。
六月の欄に、ペン先を寄せた。最初の一画を下ろす前に、一拍だけ置いた。三月八日の朝、ペンが止まったことを、手が覚えていた。点は、付かなかった。
「皆瀬」
縦に詰まった、いつもの字だった。
四月の板を開いたとき、当番の表の先のほうが、前の月より空いていることに気づいた。書き入れる人が、まだ回ってきていないだけだろうと思った。その、ひと月先の欄に、今日は、自分の手が入った。隣の人の字でも、判でもなく、私の字で。
書いた紙は、手帳の紙とは違う。手帳は、手もとに残る。この表は、書いたとたんに、手を離れて、次の家へ回っていく。押した判が、回っていくのと同じだった。
浅い引き出しから、判と朱肉を出した。判を朱肉に当てて、一覧の皆瀬の欄に押した。厚紙に朱が沈むのを待つあいだ、親指の腹に、冷たい朱肉の感触が残っていた。
朱が乾くのを、少し待った。窓の外で、鳥が短く二度鳴いた。
六月が、ある期限の向こう側にある月だということには、書いてから気づいた。気づいても、線は引かなかった。
書いた字の濃さを、もう一度だけ見た。書いた直後は光っていたインクが、紙に入って、落ち着いている。直しはきかない。直す気も、起きなかった。
紙を元の順に重ねて、紐を結び直した。結び目は、解く前と同じ高さに収めた。
板を小脇に、家を出た。
門を出ると、風が軽く肩を押した。結び目は、歩くたびに、脇腹で小さく跳ねた。隣の門までは、数十歩ある。
隣の門の前に、女性がいた。エプロンの前を片手で押さえて、鉢の縁にしゃがんでいる。足もとの石畳は、水を撒いたあとで、まだ黒く濡れていた。三つ目の鉢の葉は、三日前より、いくらか厚みが出て見えた。
「おはようございます」
「おはようございます。板が、回ってきました」
女性は、立ち上がって、手の土を払ってから、両手で受け取った。まず一覧を見て、皆瀬の欄の朱を確かめた。それから紙を繰った。当番の表で、指が止まった。
今月の欄から、下へ。六月の欄まで来て、そこで、しばらく動かなかった。
「あら。六月」
「はい」
女性は顔を上げた。私の顔を見て、それから、板に目を戻した。皆瀬の二字を、一度だけなぞるように見た。
「それなら、五月は、ゆっくりできますね」
軽い声だった。嬉しがる色も、気遣う色も、そこには入っていなかった。特別な言葉ではなかった。当番の表の、ひと月ぶんの欄と同じ高さで、置かれた言葉だった。
「そうします」
そう答えた。ほかに言うことは、なかった。
女性は、小さくうなずいた。鉢の葉の上で、水の玉が一つ、転がって落ちた。
女性は、板を腕に載せ直した。
「次へは、午後に回しますね」
「お願いします」
それで終わりだった。女性は鉢のほうへ体を戻して、板を片腕に抱えたまま、じょうろの口を、三つ目の鉢へ傾けた。水が土に落ちる音が、小さく続いた。
私は、会釈をして、門の前を離れた。
通りの先で、誰かが戸を開ける音がした。どこの家かは、分からなかった。
帰りの道は、行きより、足が軽かった。板を持っていないぶん、脇腹が空いている。手を離れた板は、女性の腕の中で、午後を待っている。そのあと、次の家へ、また次の家へ、私の知らない道を通って回っていく。ひと月先の欄の「皆瀬」も、一緒に運ばれていく。
門の前で、一度だけ振り返った。隣の門は、鉢の緑に隠れて、女性の背中しか見えなかった。
家に戻って、居間の卓で手帳を開いた。
表の、八十八日目の二行の下に、ペンを置いた。そのあいだの二日は、白いままにしてある。白いのは、何も起きなかった、ということの形だった。それでかまわない。
「九十一日目朝、回覧板、当番の表。五月の欄に、知らない名前(細い字、ペン書き)。六月の欄は空欄だった。当方、六月の欄に自筆で『皆瀬』と書き入れ、一覧の皆瀬の欄に判を押して、隣家へ回した」
紙の上の事実と、自分の手でしたことだけだった。談は、付けない。誰が書いたのかは、紙が言っていない。言っていないことは、行にしない。
その下に、続けた。
「同日、隣家の女性、六月の欄を見る(当方、門の前にて確認)。同女性より『あら。六月』『それなら、五月は、ゆっくりできますね』の由――談」
読み返した。あの人の言い方は、評価ではなかった。聞こえたとおりに、置いた。私が何と答えたかは、行にしなかった。入れなくても、あの場の軽さは、行の中に残っている。
手帳を返して、裏の頁を開いた。
いちばん上の「来月、集積所の掃除当番」は、済んだ行のまま、残っている。その下の行にも、線は引いていない。いちばん下の、あの一行も同じだった。済んだ行は、消さないと、先に決めてある。
その下に、新しい一行を書いた。
「六月、集積所の掃除当番」
書いてから、並べて見た。皆瀬の二字は、この町で、いくつもの形を取ってきた。刷られた字、隣の人の字、判、自分の署名。当番の表の罫の中に、自分の字で入ったのは、今日が初めてだった。いちばん上の行は「来月」と書いてある。書いた日から数えた月だ。いちばん下の今日の行は「六月」と書いてある。暦の月だ。
行は、どちらも、短いままでいい。長くなるのは、あとからで足りる。これ以上、書くことはなかった。
ペンに蓋をした。
明日は、収集の日だった。袋を出す手は、箒の分だけ軽い。軽いぶんの手を、どこへ置けばいいかは、まだ分からない。
卓の端で、朝に注いだ茶が、湯呑みの中で冷めていた。
色は、濃くなっていた。飲んだ。苦かった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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