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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
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第五十五話 今ごろ

四月の二十九日。この家に戻って、八十八日目になる。


目が覚めたとき、頭にあったのは、日付のほうだった。何日目か、より先に、四月二十九日、と思った。


戻った日を一として、毎朝、数字を一つずつ足してきた。昨日は八十七日目で、手帳に書く行がなかった。今朝は、その数字が、あとから出てきた。先に来たのは、暦の日付だった。


この日は、私が足しはじめるより前から、暦の上にあった。


布団の中で、少しのあいだ、天井を見ていた。外は、もう明るかった。起きる理由は、ほかに見当たらなかったので、起きる理由のないまま、起きた。


台所へ下りて、やかんを火に掛けた。鳴るまでのあいだに、戸棚を開けた。


湯呑みが二つ、並んでいる。祖母のものと、私のもの。


今朝は、祖母のほうを先に出した。流しで湯を通して、洗剤をつけた指で縁をなぞった。すすいで、布巾で拭いた。底の輪のところに、水が残りやすい。布巾の角を入れて、そこも拭いた。


使うためではなかった。使わない湯呑みでも、戸棚の中では埃が積もる。理由は、それでよかった。その先は、考えなかった。考えはじめれば、洗う手が止まる気がした。


拭き終えて、光のほうへ傾けて、水の跡が残っていないのを確かめた。元の場所へ戻した。戸棚の中の並びは、開ける前と同じに見えた。


茶は、自分の湯呑みで淹れた。急須に注ぐ湯は、一人ぶんだけだった。卓に着いて、窓の外を見た。晴れていた。日は高くなく、庭木の影が、まだ長かった。


二口目を飲んだところで、湯気が顔に当たった。窓の桟に、小さな虫が止まっている。動かないまま、日を浴びていた。昨日より、暖かい朝だった。上着は、いらなさそうだった。


飲み終わらないうちに、隣のほうで、水の音がした。


じょうろの口から落ちる、細い音だった。袋を出す日ではない。外に用は、何もなかった。ただ、音のほうへ、足が向いた。


サンダルをつっかけて、門を出た。通りは、まだ人が少なかった。路面の端に、夜露の跡が、細く乾き残っている。


隣の門の前に、女性がしゃがんでいた。じょうろを持っている。数十歩を歩いて、鉢の並びの手前で、足を止めた。


エプロンに、薄手の上着を重ねている。三つ目の鉢の葉は、一昨日見たときより、また少し広がっていた。何の葉かは、尋ねなかった。


「おはようございます」


「おはようございます、皆瀬さん」


女性は、鉢に目を落としたまま答えた。じょうろを傾ける手が、土の縁をゆっくりと回っていく。水が土に吸われていく音が、しばらく続いた。鉢の底から、色の濃い水が、ひと筋だけ滲み出た。私は、それが止まるのを見ていた。


「去年の、今ごろでしたね。おばあさまは」


尋ねる口ぶりではなかった。探る色も、声のどこにもなかった。この人は、去年のあいだ、皆瀬の家の順番を、代わりに続けてくれていた。亡くなったことも、季節も、知っている。日付までは、知らなかったのだと思う。


「はい。今日です」


そう答えた。


女性の手が、止まった。


「そうでしたか。今日」


それだけ言って、じょうろを足もとに置いた。立ち上がって、エプロンの前で手を拭いた。それから、私の家のほうへ、体を向けた。玄関の、軒のあたりだった。


少し、頭を下げた。


女性が顔を上げるまでのあいだ、私は、隣の門柱のそばに立っていた。足もとの土が、撒いた水で、色を変えていた。


日付を言ったあとで、私のほうから続けて言えることは、もう残っていなかった。続けなかった。どこで、どのように、とは言わなかった。女性も、尋ねなかった。頭を上げて、じょうろを持ち直し、残りの鉢に水をやりはじめた。


天気の話は、出なかった。女性は、空を見なかった。見ていたのは、残りの鉢のほうだった。


私は、会釈をして、その場を離れた。


家の門まで戻りながら、考えた。


この町が持っていたのは、「今ごろ」だった。去年の、この季節。花の咲く前の、葉の増える頃。私が持っていたのは、四月二十九日という日付だった。どちらも、間違いではなかった。


女性の言葉を、直す必要はなかった。私は、今ごろ、の上に、今日、を一つ添えただけだった。添えたものは、そのまま聞き届けられた。




二階へ上がった。上から三段目は、今朝も鳴った。


書斎の戸を開けると、部屋の空気は、動いていなかった。線香の匂いは、もう、どこにもしなかった。


机の前に、座った。


一番上の浅い段に、ノートの原本があることは、知っている。引き出しには、手を掛けなかった。今日は、読みに上がったのではなかった。


カーテンを、端だけ寄せた。窓を、手のひらの幅ほど、開けた。外の空気が、机の端まで来て、止まった。


去年の今日のことを、思い出した。


知らせを受けたとき、私は、会社にいた。夜だった。フロアの電気は半分落ちていて、画面の光だけが、手もとにあった。どこか知らない町の良さを、写真と定型の言葉で並べて、企画書の一枚に収めようとしていた。


それが、二十九日のうちだったのか。日付が変わってからだったのか。


隣の席の人が、先に帰っていたのは、覚えている。椅子の背に掛けたままの上着が、一着だけ、残っていたことも。時計は、見た覚えが、ない。


思い出そうとして、やめた。思い出せないものを、思い出したことにして書くのは、違う。覚えていないことは、覚えていない、と書く。それが、この家に戻ってから、手帳の上で通してきた書き方だった。


去年の今日について、私が確かだと言えるのは、自分がどこにいたか、だけだった。


祖母の一日のほうは、知っていることが少ない。帰る途中の駅で倒れたと聞いている。どの駅かは、知らない。


知っている分の外側は、私には空白のままだった。広さも、形も、測れないまま、そこにあった。その空白に、何かを置くことは、しなかった。


机の天板に、掌を置いてみた。木が、ひんやりしていた。去年の今ごろ、この天板の上には、まだ祖母の置いたものが、置いたままの順で並んでいたはずだった。いま、この上にあるのは、窓から入る光と、私の手だけだった。


窓の外で、鳥が一度だけ鳴いた。庭木の枝が、わずかに動いた。机の上の木目に、窓の形の光が落ちている。その光は、ゆっくりと、位置を変えていた。動いているのが分かるほど、長く眺めていたのだと、あとから気づいた。


しばらく、そうしていた。


立ち上がるとき、椅子が小さく軋んだ。窓を閉めて、カーテンを元へ戻した。書斎を出た。




居間へ下りて、卓の上に手帳を開いた。


表の頁の、八十六日目の二行の下。白い面が、まだそのまま残っている。ペンを持って、行の頭に置いた。


そこで、手が止まった。


この手帳の行は、このところ、いつも「何日目」で始めてきた。八十八日目、と書き出せば、いつもの行になる。書き出す前から、字の形が手に浮かぶほど、慣れた頭だった。


けれど、今日は、そうしたくなかった。


「何日目」は、私が、この家に戻った日から数えた日だ。二月一日を一として、私の暮らしの中でだけ通じる呼び方だった。今日は、その呼び方が始まる前から、暦の上にある日だった。


暦の日付で呼んだのは、二月六日の晩が、最初だった。あのとき、同じ晩のはずなのに、日付で書くと、私の手を離れたところにある日のように見えた。今朝は、逆だった。日付で書かなければ、今日のほうが、私の手の中に収まってしまう。


行の頭を、決めた。


八十八日目、の字を、頭の中で一度、外してみた。外すと、行の前に、余白ができた。その余白に入るのは、月と日だけだった。


ペンを動かした。


「四月二十九日(八十八日目)朝、門の前にて、隣家の女性より『去年の、今ごろでしたね。おばあさまは』の由――談」


読み返した。日付が先で、何日目かは、括弧の中に入った。こう書くのは、今日の行だけにする。明日の行は、また、何日目から始まる。私の返事は、行に入れなかった。あの人の言葉だけを、あの人の言葉のまま、置いておきたかった。


もう一行、続けた。


「去年の同じ日、知らせを受けたとき、会社にいた。夜だった。日付が変わる前か後かは、覚えていない――当方談。本日時点」


書き終えても、ペンは、しばらく行の終わりを離れなかった。


六度目の当方談だった。


最初の一つは、犬小屋のことだった。覚えていることに付けた印だった。そのあとの四度は、口から出した言葉に付けてきた。今日の一行は、最初の使い方に、戻っていた。


覚えていること。そのなかの、覚えていないところ。同じ一つの印の下に、並んでいた。


覚えていない、という一語は、手帳に書くと、不思議と頼りなく見えない。書かなければ、そこには空白だけが残る。空白に、日付が変わる前だったか後だったか、と書き添えた。それで、空白は、空白の形のまま、頁の上に置かれた。


「談」の一行と、「当方談」の一行が、上下に並んだ。隣の女性が言ったことと、私が覚えていること。同じ日に、二つの口があって、二つの印が付いた。どちらかが先、ということは、なかった。


感想は、書き足さなかった。女性の頭の下げ方も、行には入れなかった。あれは、見た私が意味をつければ、私の読みになってしまう。門の前に、残してきた。


ペンに蓋をして、卓の上に置いた。


手帳を閉じて、卓の端へ寄せた。


台所へ行って、自分の湯呑みを洗った。伏せて、水を切る。


戸棚を開けた。


祖母の湯呑みが、朝に戻したままの場所に、あった。向きも、変わっていない。縁に、窓からの光が、細く乗っていた。


手は、伸ばさなかった。


戸を、音を立てないように、閉めた。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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