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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
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第五十四話 ご苦労さま

四月の二十七日。夜のうちに雲が引いて、朝は、窓の桟まで日が届いていた。この家に戻って、八十六日目になる。


収集の日ではなかった。袋を提げて出る用事のない朝は、手が余る。余った手で、湯を沸かした。急須に葉を入れて、湯が少し冷めるのを待った。湯呑へ注ぐ細い音が、台所の広さにちょうどよかった。


大根が、もう尻のほうしか残っていなかった。昼を待たずに、商店街まで出ることにした。


門を出ると、空気が軽かった。上着の前を閉めずに歩いても、首のあたりが寒くない。隣の庭では、じょうろが軒下に伏せてあって、水を撒く人の気配はなかった。三つ目の鉢の葉は、先週見たときより、ほんの少し外へ広がって見えた。足は止めずに通った。


商店街までは、日の当たる側を選んで歩いた。


八百屋の店先まで来て、思わず歩幅が緩んだ。


角の家の老人が、台の前に立っていた。薄い色の上着を羽織って、手には、口を折った紙袋を一つ提げている。台の上の筍を、一本ずつ持ち上げては、根もとの色を確かめて、また戻していた。


一本を選んで店主に渡したところで、老人が、こちらに気づいた。


「おはようございます」


「ああ、皆瀬さん。おはようございます」


老人は、紙袋を持ち替えて、軒の外の空を仰いだ。


「今朝は、暖かいですな。四月も終わりに近いのに、こう暖かい朝は、そう多くはありません。この分だと、昼には、少し汗ばむでしょう」


「そうですね」


「こういう朝は、洗濯物が早く乾きます。もっとも、こういう日に限って、午後に崩れたりもしますが」


「布団を干している家が、多そうでした」


「そうでしょう。この辺りは、そういう朝を、みんな、よく心得ております」


いつもの入り方だった。天気から話に入って、天気の中ほどで、こちらの返事を待つ。門先で立ち話をした日にも、框に座布団を出してもらった日にも、この順だった。この順に、私は、もう慣れていた。


だから、今日は、その続きを待たなかった。


「あの」


老人が、こちらを見た。


「二月に、お聞きになったことがあります。今は、もうお勤めではないのか、と。お宅の門の前で、お会いしたときです」


「そうでしたかな」


覚えていないのか、覚えていて、とぼけているのか、顔からは分からなかった。どちらでもよかった。


「あのとき、うまく言えませんでした」


そこで、一度、息をついた。台の上で、筍の皮の先が、日に白く乾いていた。


「この一年、あちこちの町へ、話を聞きに行っていました。聞いたことを、書き留めて」


言い終えた。一年を、二つに区切って言った。言葉は、思っていたより、すぐに外へ出た。二月には、喉のところで止まっていたものだった。あのとき足りなかったのは、言い方ではなかった。言うと決めるまでの、時間だったのだと思う。これまでも、聞かれる前に言ったことはあった。けれど、それは夜のことだった。自分の一年のことを、自分から持ち出したのは、これが初めてだった。


老人は、紙袋の口を、もう一度折り直した。目は、値踏みの色も、驚きの色も、帯びていなかった。


「それは、ご苦労さまでした」


それだけだった。何を聞いたのか、どこへ行ったのか、書き留めたものをどうするのか、尋ねる言葉は、続かなかった。老人は、言い終えたあと、またひとつ、空を見た。


「では、お先に。立ち話を、失礼しました」


「いえ。ありがとうございます」


老人は、包んでもらった筍を紙袋に収めて、通りを戻っていった。背中が人の間に紛れるまで、私は、その場に立っていた。


何も聞くつもりのない朝の店先で、聞かれてもいないことを、私は言っていた。


胸のあたりが、妙に軽かった。荷を一つ降ろしたあとのようでもあり、まだ何も降ろしていないようでもあった。どちらなのか、分からないまま、台の上の大根に、手を伸ばした。


大根を一本、買った。店主は、葉の付け根を少し落として、袋に入れてくれた。


「今日は、暖かいですね」


「ええ。助かります」


それだけの会話だった。ひと月前なら、そのやりとりの裏に、何かを読み取ろうとする癖が出ていたかもしれない。今は、ただ答えて、釣り銭を受け取った。そのとき、指先が、わずかに汗ばんでいるのに気づいた。暖かい朝のせいだと思った。


店を出るとき、肩に当たる日が、少し熱かった。上着を、とうとう脱いで、腕に掛けた。


帰りは、まっすぐ家へ戻った。




家に帰って、大根を流しの下に寝かせた。茶の残りは、すっかり冷めていた。流しに捨てて、湯呑を洗った。


洗いながら、気づいた。


朝、口にした一年のことだった。あの短い言葉の中に、地名は、一つも入っていなかった。


手を拭いて、居間の卓に着いた。昨日の八十五日目には、手帳に書く行がなかった。収集を出して、鉢の話を聞いて、広がったネットの前で手を引いた。それだけの日だった。今日の欄は、昨日よりも、先に埋まりそうだった。手帳を開いて、裏表紙の内側に手を伸ばした。書いた紙が二枚、重なって入っている。取り出さずに、指先で縁に触れただけで、戻した。


事務所へ出した紙の一年は、違った。二月の初めに、申請書の欄へ七行を書いたところから始まって、四月に、一度長く書いて削った一枚を重ねた紙だった。七行にも、追加の一枚にも、地名があった。月があった。決めたことがあった。人の言葉は、一つも入れなかった。聞いた話の中身は、あの紙のどこにもない。入れないと決めて、入れなかった。それは、今でも、間違いではないと思っている。


どちらも、嘘ではなかった。紙の一年は、地名と月と、決めたことでできている。口の一年は、行ったこと、聞いたこと、書き留めたことでできている。同じ一年を、別の側から指で押さえたのだと思った。


今朝、地名を出さなかったのは、隠したからではなかった。出せば、その町で聞いた誰かの話が、後ろからついてくる。店先の立ち話に載せられる重さの話は、ひとつもなかった。だから、自分が歩いた、という一点だけを、言った。口に出せたのは、そこまでだった。そこまでで、足りていた。


ただ、居場所が違った。


紙の一年は、事務所の綴りの中にある。受領いたしました、と葉書には書いてあった。綴じてあります、とも。読みました、とは、書いていなかった。四行のどこにも、その語はなかった。私は、それを責める気はなかった。届けた紙が、届いたとおりに扱われた。それだけの話だ。


口の一年は、今朝、目の前の人の耳に入った。耳に入って、返事が来た。ご苦労さまでした、と。


返事のある言葉と、ない言葉の違いを、はじめて、自分の口で知ったように思った。紙には、紙の役目がある。決まりのとおりに受け取られることが、役目だった。口には、口の役目がある。目の前の誰かの耳に、ほどよい重さで落ちることだった。どちらが上でも、下でもなかった。


三か月ほど、と言われたのは、二月の初めだった。


その言葉を思い出して、思い出したところで、止めた。数えても、紙の中の何かが動くわけではない。それ以上は、考えなかった。


もう一つ、引っかかっていた。


老人は、「ご苦労さまでした」と言った。過去の形だった。


一年は、終わったのか。


終わった一年に向けて言う言葉だった、と気づいた。老人に、そんな含みがあったのかどうかは、分からない。長く生きた人の挨拶は、たいてい、ああいう形に落ち着く。それだけのことかもしれなかった。


けれど、私のほうは、どうだろう。


この一年が、終わったのかどうか。聞かれれば、今も、言えないだろうと思った。終わったと言えば、これからの暮らしを、ひとつ切り落とすことになる。続いていると言えば、まだ、手の中にないものを、あると言うことになる。どちらも、今日の私には、言えなかった。


言えないことは、言わない。それが、この手帳でやってきたことだった。


老人の言葉を、訂正はしなかった。あの場で、続いています、と足すことも、考えなかった。言えないものを、言えないまま、そのままにしておく。老人は、過去の形で言った。私は、受け取った。それで足りていた。


ペンを取った。


表のほうの、八十一日目の行の下の、白い面を開いた。そこに、書いた。


「八十六日目朝、商店街の八百屋の店先にて、角の家の男性に、この一年、各地へ話を聞きに行き、聞いたことを書き留めていた旨を、聞かれる前に述べる――当方談。本日時点」


その下に、一行、続けた。


「同日、同男性より『それは、ご苦労さまでした』の由――談」


二行を、読み返した。


五度目の当方談だった。これまでの四つは、覚えていた犬小屋のこと、六日目の夜のこと、その夜のほかは行っていないこと、夜は一晩きりだったことだった。後ろの三つは、口に出した言葉にかかっていた。今日のも、口に出した言葉だった。ただ、夜のことでも、どこかの町の話でもなかった。二月に、口の中で途切れた言葉の続きを、自分の口で、言い切った。


行の終わりには、「本日時点」と付いている。この印は、もう、書くたびに手が覚えている。意識して付けているというより、行の終わりに、置く場所が空いているような感じだった。付けたのは、今日の私だった。明日の私が、同じことを言うかどうかは、明日にならないと分からない。それでよかった。


「ご苦労さまでした」の下に、足すことは、何もなかった。評価も、解釈も、書かなかった。老人の声の抑揚は、手帳には写らない。写らないものは、写らないまま、あの店先に置いてきた。


ペンの蓋を、かちり、と嵌めた。


立ち上がって、居間の窓の掛け金を外した。指一本ぶんだけ、窓を開ける。朝の暖かさが、少し形を変えて、部屋の中へ入ってきた。卓の上の手帳の頁の端が、わずかに揺れた。


揺れたのは、それだけだった。風は、書いたばかりの二行の上を、ひと撫でして、通り過ぎていった。窓は、そのままにして、台所へ戻った。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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