第五十三話 受領
四月の二十二日。朝から、空は薄く曇っていた。この家に戻って、八十一日目になる。
窓の外は、雨にならない曇りで、隣の庭の木の葉が、昨日より少しだけ濃く見えた。湯を沸かして、茶を淹れた。急須の蓋を押さえた指が、まだ熱を拾わないうちに、門のほうで郵便受けの蓋が鳴った。
板ではなかった。板なら、紐の重みで、蓋の音が違う。かたり、と軽く一度きりだった。
門まで出て、手を入れた。
葉書が一枚、入っていた。
表を向けると、宛名は私の名で、字は印刷だった。差出人の欄に、事務所の名が刷ってあった。去年の書類の表紙にあるのと、同じ並びの名だった。見覚えのある名が、見覚えのない形で、郵便受けの底に来ていた。
電話をしていない。尋ねてもいない。受話器の前に立たないと決めたのは、三日前だった。決めたとおりにして、三日経った。その決めたことの外側から、紙が一枚、先に来た。
玄関で靴も脱がないまま、裏を返した。日の入らないたたきで、活字の黒が、薄く立って見えた。
活字で、四行だった。
「四月十五日付の書面一通を、四月十六日に受領いたしました。先にお預かりしております書類と同じ綴りに、綴じてあります。右、ご連絡まで」
その下に、日付と、事務所の名が、もう一度あった。
日付は、四月十八日だった。
それだけだった。
居間へ上がって、卓に葉書を置いた。茶は、少し濃くなっていた。
もう一度、読んだ。一行ずつ、指で押さえるようにして読んだ。受領した、と言っている。綴じた、とも言っている。どちらも、あったことだった。四月十六日に、あの事務所の机に、私の便箋が着いた。たぶん、誰かの手が封を切って、三つに折った紙を開いて、綴りに通した。私の見えない場所のことが、見えない場所のまま、ここに書かれていた。
読んだ、とは、書いていなかった。
受領と、読むことは、同じでない。綴じることと、読むことも、同じでない。葉書は、そのどちらにも触れずに終わっていた。触れないのは、書き忘れたのでなく、そういう葉書だからだろう。決まりのある場所が、決まりの形で返してきた。尋ねる前に、尋ねた場合の答えの、いちばん外側だけが来た。
それ以上は、どこにも書かれていなかった。それ以上を読み取るための余白も、葉書には、残っていなかった。
余白のなさは、冷たくは感じなかった。葉書というものが、そもそもそういう紙だった。裏の半分は宛名で、残りの半分に、書ける量だけが、書いてある。必要なものだけが、先に着いた、という感じだった。私が握り直しに行かなかった一枚を、向こうが、受け取った手の側から、そっと数えて寄こした。
葉書の日付を、もう一度見た。十八日。着いたのは、二十二日。私の知らない四日が、郵便の中にあった。この葉書もまた、書かれた日のままで、いま、ここに着いている。いまの私に着いた、というより、四月十八日の言葉が、四日かけて歩いてきた、と思ったほうが近かった。
それで、いいのだった。四日の遅れを、恨む筋は、どこにもなかった。
安心したのかと、自分に尋ねてみた。半分は、そうだった。半分は、そうでなかった。受け取られたことに、胸の奥が、わずかにゆるんだ。けれど、ゆるんだ分だけ、綴りの中のことが、また見えなくなった。受領と綴じるのあいだに、何があるのか。そこへ入っていく手は、私には、無い。手が無いことを、今日は、そのまま眺めておくことにした。
手帳を開く前に、少し考えた。
これまで、人の口から聞いたことには、談を付けてきた。聞いた私が、あとで間違えないためだった。口から出たことは、出した人のものだ。私が書き写せば、それは私の手に移る。移ったことを忘れないために、談という札を付けておく。
今度は、口ではなかった。紙だった。しかも、私の出した紙についての、向こうの紙だった。
談を付けるか。
付けない、とすぐに決まった。六十一日目に、回覧板の紙を書いたときと同じ理由だった。紙に書いてあったことと、紙がそこにあったこと。書けるのは、それだけだ。この葉書は、誰かが喋ったものではない。印刷された文字を、私が読んだ。読んだのは私で、書いたのは向こうで、その間に口はなかった。
付けないと決めて、もう一つ、決めることがあった。「読んだ」と書いていない、そのことを、どう書くか。
書かない、と決めた。書いていないことは、書かない。あったことだけを、あったとおりに置く。ないことに札を付けたら、それはもう、ないことではなくなる。葉書は四行で終わっている。四行を、そのまま写せば、足りないものも、余るものもない。
表のほうの、七十八日目の下の、白い面を開いた。ペンを置いた。
「八十一日目朝、事務所より葉書一枚。文面『四月十五日付の書面一通を、四月十六日に受領いたしました。先にお預かりしております書類と同じ綴りに、綴じてあります。右、ご連絡まで』。差出の日付は四月十八日」
読み返した。談の無い行だった。談の無い行は、今までにも、何行かあった。新しい書き方は、何も生えていない。生やすほどのことでもなかった。読み返しても、行の終わりに足したいものは、見つからなかった。
遠くの紙のことを、手の届く行に、既にある形で収めた。収まるものは収まる形のままにしておく。それが、この手帳のやり方だと思った。
差出の日付を、受領の日付と並べて書いたのは、日付が二つあるからだった。十六日に着いて、十八日に書かれた。二十二日に私の手に来たことは、行の頭の「八十一日目」が、もう言っている。
下書きのほうは、動かさなかった。手帳の裏表紙の内側には、二月六日の下書きと、四月十五日の削る前の一枚が、重なって入っている。葉書は、そこへは挟まなかった。あそこは、私が書いた紙の場所だった。事務所から来た紙は、事務所の紙のところへ。
台所の束から、去年の書類の表紙を抜いた。二月の宛先の紙は、その表紙のあいだに、折り目のとおりに挟まっていた。その隣へ、葉書を差し入れた。向こうが寄こした紙が二枚、同じ表紙の内側で、並んだ。一枚は、行き先を教える紙で、もう一枚は、着いたと教える紙だった。どちらも、私に何かを求めてはいない。
表紙を閉じて、束に戻した。
四月の二十六日。八十五日目の、収集の日だった。
袋の口を二重に結んで、提げて出た。昨夜のうちに、水を切っておいた。この順は、手が先に覚えて、頭があとから追いついた順だった。朝のうちの空気が、先週より暖かかった。門を出たところで、隣の戸の開く音がした。
隣の女性も、袋を提げて出てきた。
「あら、お出かけですね」
「収集の日ですので」
歩く向きが、同じだった。並んで歩くほどの距離ではなく、半歩ぶん、女性のほうが先になった。
「今日は、お天気が持ちそうですね」
「ええ」
道の端の水たまりが、乾いていた。丸い跡だけが、土の色を変えて残っている。女性は、その跡をよけて歩いていた。私は、またいだ。足もとの土が、靴の底に、わずかに柔らかかった。
角まで、それ以上は、話さなかった。話さない道のりが、この人とは、いやな間にならない。先月までは、そうとは知らなかった。
曲がる手前で、女性が、袋を持ち替えた。
「板、まだ回ってきませんね」
私のほうを見ずに、言った。
「月が替われば、また動くとは思うんですけど」
「そうですか」
板が、いまどこにあるのかは、私は知らなかった。知らないことを、知らないままで、聞いた。三月の私なら、どこで止まっているのかを、尋ねたかもしれない。尋ねて、答えを手帳に写して、それで安心したのかもしれない。今朝は、尋ねる用事が見当たらなかった。女性の言い方は、確かめてほしい、という口ぶりではなかった。
集積所には、先に出された袋が、半分ほど並んでいた。ネットは、まだ金具の上で、四つに畳まれたまま、折り目のとおりに垂れている。
女性が先に袋を置いた。私も、その隣に置いた。
ネットに手をかけた。金具から外すと、折り目が自分でほどけて、袋の上に広がった。端を、柵の足に引っかける。それで、収集を待つ形になった。女性は、私の手もとを見ていたが、何も言わなかった。
「あの鉢ね」
女性が、囲いを離れながら、言った。
「芽が出るかどうか、五分五分だったんですよ。種を拾って、まいただけだったので」
三つ目の鉢のことだと、すぐに分かった。
「出ましたね」
「出ました」
女性は、少し得意そうに笑った。何の芽なのかは、言わなかった。私は、尋ねなかった。花が咲けば分かる、と言われたわけではない。ただ、そのほうがいい気がした。
「楽しみにしています」
そう言ったあとで、気づいた。楽しみにしている、という言葉が、私の口から、ごく自然に出ていた。何を、いつまで、とは考えなかった。ただ、言えた。
女性は、小さく頷いて、自分の家のほうへ戻っていった。エプロンの紐の結び目が、背中で小さく揺れていた。
私は、集積所の前に残った。収集車の音は、まだ通りの奥にあった。待つあいだ、袋の並びを眺めた。私の袋は、結び目を上にして、端のほうで、まっすぐ立っていた。
車が来た。いったん止まり、ほどなく動き出した。袋が運ばれて、囲いの中が、空になった。
ネットは、地面に広がっていた。
しゃがみかけた手が、角を探していた。探して、止まった。四月の当番は、私ではない。広がったネットは、その人が来るまで、広がったままでいい。
葉書のことが、ふと頭をよぎった。受領、綴じる、と書かれた紙は、今も束の中で、書かれた言葉のまま眠っている。ここに広がったネットも、誰かの手が来るまで、広がった形のままで待つ。待つものは、待つ形のままで、世の中にいくつもあった。
手を引いて、立った。手のほうは、まだ、覚えている形のまま、指を軽く曲げていた。それを、上着のポケットに入れた。
家へ戻る道は、行きより短く感じた。角を曲がって、隣の門の前を通った。鉢は、目の端に入れただけで、足は止めなかった。
自分の門の前で、郵便受けの蓋を開けてみた。空だった。何も来ていない日の底が、薄暗く見えた。昨日も、おとといも、そうだった。これが、いつもの日だった。
蓋を、手で押さえた。そのまま、少しのあいだ、立っていた。それから、静かに離した。かたり、と鳴ったのは、手を離した蓋だった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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