第五十二話 折り目
収集の日だった。この家に戻って、七十八日目になる。四月の十九日、朝のうちから風がなく、窓の外の空気が、ゆるんでいた。
袋は、寝る前に口をまとめておいた。生ごみの水を切って、紙で包んで、それから袋に入れる。この家の台所で覚えた、小さな順だった。台所の隅に立てかけたまま、朝を待っていたものだった。口を二重に結び直して、提げた。
角を曲がって、集積所へ向かった。先に出された袋が、囲いの中に、三つ、四つと並んでいる。青いネットは、金具に掛かっていた。たたまれたままだった。
袋を、並びの端に置いた。ネットを金具から外して、広げた。折り目が深くて、手をかけただけで、ほとんどひとりでに開いた。袋の上にかぶせて、端を、柵の足に引っかけた。
箒は、囲いの内側に立ててあった。柄を握るつもりはなかった。四月の当番は、別の人だった。その箒の先が、片側だけ斜めに減っているのを、目の端で見て、通り過ぎた。
戻って、やかんを火に掛けた。湯が沸く前に、収集車の音が通りの奥から近づいてきて、集積所のあたりで一度だけ長く止まった。茶を淹れたころには、もう聞こえなかった。
手帳の表を開いて、七十四日目の下の、白い面を見た。今朝、足すことは、まだ何もない。閉じて、卓の端へ寄せた。
葱と、豆腐が切れていた。昼になる前に、八百屋まで出ることにした。
集積所の前は、通り道だった。収集のあとの囲いは、いつも空いている。通り過ぎるつもりで角を曲がったところで、足が止まった。
囲いの前に、人が立っていた。
年配の女性だった。紺の前掛けをして、ブラウスの袖を、肘のあたりまで押し上げている。足もとに、青いネットが広がっていた。両手で、その端を持ち上げたところだった。
角を合わせた。それから、内へ折り込んだ。
手の動きに、迷いがなかった。折り目は、持ち上げた手の下で、もとからある線に、すとんと落ちた。私が三月にたたんだとき、線のほうが先にあって、手があとから合わせた。同じことが、いま、この人の手の中で起きていた。
金具に掛けるところまで、見ていた。ネットの重みが、塗りの剥げた場所に、そっと当たった。
「あら」
女性が、こちらに気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今月の当番の、森田です。お会いするのは、はじめてですね」
当番表に載っていた、知らない名前だった。名前と顔が、いま、つながった。私は、頭を下げた。
「皆瀬です」
「ええ、お名前は。三月のところに、あったので」
それだけ言って、女性は、前掛けで手を拭いた。
「たたみ方が、決まっていますよね、ここは」
私は、うなずいた。
「角を合わせて、内へ。どなたが始められたのかは、存じませんけど。わたしが来たとき、こうなっていたので、そのとおりに」
そう言って、金具に掛かったネットを、指で一度、整えた。
「折り目がついていますから。そこへ落とせば、いいだけなんです」
「そうですね」
女性は、柵の箒に、ちらりと目をやった。
「箒も、そうなんですよ。先が片側だけ、斜めに減っていて。持つと、手のほうが、傾くんです」
「傾きますね」
それだけ、言った。女性は、わずかに笑った。同じものを持った人にしか通じない笑い方だった、と思ったが、そうとは、言わなかった。
言えることは、ほかにもあった。三月に、そこで何をしたか。その前の人が、どうたたんでいたか。けれど、どれも、この人の手の中のたたみ方を、変える話ではなかった。この人は、来たときに、こうなっていた、と言った。そのとおりだった。私も、来たときには、こうなっていた。その前には、誰かの手があった。名前は、どこにも付いていない。
名前の付いていない手が、ここを、ずっと渡ってきたのだと思った。私の手も、その中の一つになった。それで、よかった。
「五月の欄、まだ空いてましてね」
女性が、囲いの中を見たまま、言った。
「当番の表は、板が回るうちに、誰かしら書いてくださるんですけど。今月は、まだで」
頼むような言い方では、なかった。月によって、そういうこともある、というだけの口ぶりだった。
「そうですか」
私は、そう答えた。女性は、軽くうなずいた。
「では、お先に」
女性は、囲いの前を離れて、通りの反対側へ歩いていった。紺の前掛けの紐が、角の向こうへ、先に消えた。
ネットは、金具に掛かって、風に揺れなかった。私も、通り道へ戻った。
八百屋のほうへ、歩き出した。
葱を二本と、豆腐を一丁、買った。店主は、葱を新聞紙で包んで、釣り銭と一緒に寄こした。口の中で、礼を言ったようだった。
戻りの道は、同じ角を曲がった。囲いの中は、空っぽだった。ネットは、金具に掛かったままで、折り目の線が、まっすぐ下へ通っていた。
家に帰って、葱を台所の流しに立てかけた。豆腐は、冷やしに入れた。
居間の卓に着いて、手帳を開いた。表のほうの、七十四日目の下の、白い面に、ペンを置いた。
「七十八日目午前、収集のあと、集積所にて四月の当番の森田氏に会う。森田氏より『わたしが来たとき、こうなっていたので、そのとおりに』の由――談」
その下に、もう一行、続けた。
「同人より『折り目がついていますから。そこへ落とせば、いいだけなんです』の由――談」
読み返した。談だけが、二行、並んでいた。私の言葉は、一つも、入っていない。それでいいと思った。
五月のことは、表には書かなかった。空いているのは、板の上の欄で、私の頁の話ではなかった。引き受けるかどうかは、聞かれたことではなく、私が考えることだった。
手帳を、裏返した。
後ろの頁の、いちばん上は、「来月、集積所の掃除当番」だった。済んだ行のまま、消してはいない。その下に、続けて書いた行も、そのまま並んでいる。どれにも、線はない。
三月の当番は、私が、引き受けた。誰かに、頼まれたのではない。隣の人が、表に私の名を書き入れて、それを私が、受けた。名前は、あのとき、私の字ではなかった。
今度は、違うやり方が、ある。
五月の欄は、まだ空いている。板が私のところへ来るのは、たぶん月が替わってからで、五月の最初の収集の日は、そのすぐあとだ。そのとき、五月でも六月でも、空いている欄があれば、そこに、書ける。書く手は、私のものだ。誰かに書き入れてもらうのではなく、自分の字で、名前を。
引き受けるかどうかを、考えた。急ぐことは、なかった。三月に箒を持った朝の、手の傾きを、思い出した。箒の減り方に、手のほうが合わせて、傾いた。嫌では、なかった。朝のうちに、手が決まった形に落ちる。町の暮らしの中の、一つの順番だった。その順番の中に、自分の名前が入ることを、少し前の私なら、重いと感じたかもしれない。今は、軽くも重くもなかった。ただ、並んでいた。
私は、引き受けることにした。
決めたのは、私だった。老人にも、隣の人にも、森田さんにも、聞かなかった。聞けば、答えは返ってきたのかもしれない。けれど、これは、聞く話では、なかった。
後ろの頁の、いちばん下に、一行、書いた。
「板が回ってきて、空いている欄があったら、自分の字で、名前を書く」
ペンを置いて、しばらく、見ていた。今日、書けるのは、ここまでだった。板は、まだ、隣の先にある。私のところへ来るのは、月をまたいでからになるのだろう。そのころには、誰かが先に書いているかもしれない。それなら、それでかまわない。それまで、この一行は、手帳の中に、置いてある。
置いておくことに、不安は、なかった。引き受けると決めたからといって、今日からできることが、増えるわけではない。板が来るまでは、私の暮らしは、いつもの朝と、いつもの収集の日のままだった。順番は、まだ来ていない。来たときに、書けばいい。
手帳を閉じてから、事務所のことを思い出した。
四日前に投函した一枚は、もう、着いているはずだった。着いて、開かれて、前の書類と同じ綴りに、綴じられたころだ。八行目の下に、重なって収まっている。私には、見えない場所のことだった。
電話をして、届きましたか、と尋ねることは、できる。受話器の前に立って、ほんの一分もかからずに、答えは返ってくる。いまからでも、あの声は、また出るだろう。手続きのことなら、決まりが、そのとおりに答える。
けれど、尋ねないことにした。
理由は、短かった。出した日に、投函口で、手を離した。確かめるのは、手を離したものを、もう一度、握り直すことだった。離したものは、離したままに、置いておくことにした。
それから、もう一つのことを考えた。
当番を、もう一度、引き受ける。そのことを、三枚目として、足しに行くか。
足さない、とすぐに分かった。出す紙と、手帳の行は、別のものだった。手帳に書いた行は、手帳の中のものだった。あの一枚は、事務所が、決まりのとおりに受け取る紙だ。そこに、私の暮らしの先を、足し続けることはできない。足し続けるものでも、なかった。
追加の一枚には、「掃除の当番を、引き受けた」と書いた。書いたのは、三月のことだった。あの紙は、あの日の私が持っていたものを、そのまま運んでいる。四月の私は、当番ではない。今日の私は、もう一度、引き受けると決めた。紙のほうは、三月で、止まっている。
紙は、書いた日で止まり、暮らしは、先へ進む。
その間の距離を、一度だけ、見た。短くは、なかった。けれど、広げようとも、縮めようとも、思わなかった。紙は、紙のまま、綴りの中にある。私は、こちらで、手帳の続きを書く。
立ち上がって、台所へ行った。葱を洗って、刻んだ。豆腐を切った。昼を、簡単に済ませた。
午後の遅くに、門の外へ出た。夕方の風に、当たりたかった。家の中より、外の道のほうに、風が溜まっているように思えた。
隣の門の前を、通った。三つ目の鉢が、目に入った。
葉は、四枚に増えていた。最初の二枚は、畳んだ指のようだったのに、いまは、手のひらを広げたような形をしている。縁が、細かく波打っていた。四月の初めには、土だけの鉢だった。水をやる手は、今日は、見えなかった。見えないところでされた仕事が、葉の形になって、門の前に出ていた。
隣の庭に、人影は、なかった。じょうろだけが、縁側の石の上に、置いてあった。
何の葉なのかは、花が咲けば、分かるかもしれない。分からないままでも、困ることは、なかった。
葉の縁の波を、一枚ずつ数えかけて、やめた。家へ戻った。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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