第五十一話 四月十五日
四月の十五日、朝だった。この家に戻って、七十四日目になる。
隣の庭から、じょうろの口が石に当たる音がした。三つ目の鉢の葉は、一昨日より少し開いたかもしれなかった。確かめに行く用事は、なかった。
居間の机には、昨日のまま、便箋が置いてある。右の下に、「皆瀬」とだけ書いてあった。上は、白い。手帳は、その隣で閉じてある。去年の書類の表紙も、台所の束から抜いたまま、重ねてあった。
湯呑みを持って、机に着いた。何を書くかより先に、どの形で書くかを、決めておくことにした。
事務所は、形式は問わない、と言った。名前と日付があれば、足りるらしかった。手紙の形でも、メモのような一行でも、通るのだと思う。
弁護士の言葉も、思い出した。応接室で、申請書の話をしたとき、中身は問わない、と言った。行き先と日付と、自分が決めたことだけでいい、とも言った。
考えて、申請書と同じ形にすることにした。県と町の名、おおよその月、決めたこと。一行に、一つ。
理由は、一つだった。この紙は、綴りの中で、八行目の下に重なる。七つの行と八行目を先に読んだ人が、そのまま続けて読む。同じ形をしていれば、続きだと分かる。形が違えば、そこで一度、読み方を変えなければならない。変えさせるのは、こちらの都合だった。
九行目、と呼ぶのは、違う気がした。あれは、八行で一枚の紙だ。こちらは、別の一枚だ。同じ形をした、別の紙。それでいい。
申請書では、名前の欄が、上にあった。この便箋では、右の下に、先に書いてある。順番の逆な紙は、上から埋まっていくというより、下から支えられていくように見えた。支えが先にあるのは、悪いことではなかった。
署名だけの便箋は、脇へよけた。清書の前に、することがある。引き出しから、もう一枚、抜いた。
まず、一度、長く書いた。
「二月一日に、この家へ戻りました。二月六日の夜、あの家の前に、一晩だけ立ちました。ほかの夜は、行っていません。そのことを、自分の字で一行にして、名前を添えて、町の板に出しました。角の家のご老人は、口で伝えてくださいました。隣の方は、日付を口にしてくださいました。集積所の掃除当番は、引き受けて、三月のあいだ、収集の日ごとに、箒を持ちました。済んだ用事の行は、手帳の中で、線で消さないことにしました。水は、汚れたときだけ。当番の日は、収集が済んでから行って、最後にネットをたたみます」
紙の半分が、埋まった。書いたことは、どれも本当だった。本当のことを、順に並べただけだった。
申請書の決まりで、削っていく。
最初に、老人を外した。口で伝えてくれたことは、老人の判断で、老人の言葉だ。この紙に載せれば、あの人の判断を、私が横から運ぶことになる。次に、隣の人を外した。日付を口にしてくれた、その声ごと、私の紙には入らない。
人の言葉は、入れない。手帳は、たいていが人の言葉だ。それで、手帳なのだった。談を付けた行が、この紙には一つも要らない。談を付けずに済む行だけが、残る。
次に、手帳のものを外した。済んだ行を消さないこと。ネットをたたむ順。二つとも、本当に決めたことだった。けれど、どれも、手帳の中で、私が私のために置いた決めごとだった。渡すために決めたのではない。手帳の行は、手帳に置いておく。出す紙に、並べるものではなかった。
残すものを決めるのは、削るより、時間がかかった。残して惜しくないものは、すぐに落ちる。残して惜しいものを、どこで外すかで、手が止まった。当番の中の、水の一行が、最後まで残った。外した。
削るたびに、落としたものを、頭の中で言ってみた。老人の口調も、日付を口にしてくれた声も、水の一行も、一つずつ、私が知っている。知っているものを、置いていくだけだった。
残ったのは、二つだった。
町の板に、夜に見ていたのは一晩だけだと、自分の字で、名前を添えて出したこと。掃除の当番を、引き受けたこと。
どちらも、最後に引き受けたのは、私だった。
便箋を、もとの一枚に戻した。署名の上、白い面の頭から、書いていく。
最初の一行目に、まず、都の名を書いた。
「東京都・」
そのあとに、この町の名前を書いた。手帳には、一度も書いたことのない名前だった。
八行目には、東京、とは書かなかった。町ではない。私の家のある場所だ。実績の欄に並べていい土地ではない、と思った。あの日の私は、家のあるところを、地名として扱うことができなかった。それに、あの日の私には、決めた、と書けることが、まだ一つもなかった。
今日は、そのどちらも、もう当てはまらなかった。町の名が、手の中で、ほかの七つと、同じ重さで並んだ。要るから書いたのではなかった。書いてよくなったから、書いた。この町の板に、私の字が載った。当番表に、私の名が入っていた。町のほうが、先に、私をその中に入れていた。入れられた場所なら、並べていい。
説明は、それだけにした。
町の名の横に、三月、と書いた。板に出す一行を書いたのも、箒を持ったのも、三月だった。その続きに、決めたことを書いた。
「夜に見ていたのは一晩だけだと、自分の字で、名前を添えて、板に出した。掃除の当番を、引き受けた」
書き終えて、七つの行を、頭の中で上から並べた。尋ねなかった、書かなかった、行わなかった。ほとんどの行が、しなかったことで、終わっている。した、で終わる行は、笹内町の一つだけだった。あれは、決めそこねたあとで、決め直した行だ。今日の行は、はじめから、した、で終わる。出した。引き受けた。
二つの文は、一行に収まった。短くなったことを、不足だとは思わなかった。
名前の隣に、日付を書いた。
「四月十五日」
七十四日目、とは、書かなかった。町の紙に通るのは、四月十五日のほうだった。自分の暦は、手帳の中に置いておく。
ペンを置いた。
八行目のことを、考えた。
あの一語は、紙の上に、そのまま残る。この紙は、それを消さない。直さない。保留をやめた、とは、書かなかった。書いてしまえば、八行目の一語を、私が自分の手で、過去から書き換えることになる。あれは、あの日に、あの日の私が書いた。それを、今日の私が、訂正するのではない。
読む人は、七つの行と、八行目と、今日の行を、順に読む。保留のままなのか、やめたのか、ほかの何かなのかを、そこから受け取る。私は、どちらとも書かなかった。決めるのは、読む人と、紙の順番だった。それは、手放したあとの仕事だ。
一度だけ、頭から読み返した。あの朝は、読み返さなかった。今日は、読み返した。止まる場所は、見つからなかった。字の大きさは、七つの行のときと同じで、揃っていなかった。「東京都」の三字だけが、少し大きい。力の入った分だった。直さなかった。
封筒は、引き出しの奥に、長形の白いものが一枚残っていた。便箋を三つに折って、入れた。二月に渡された宛先の紙は、去年の書類の表紙のあいだに挟んであった。表に、それを見ながら、宛先を写した。二月には、ただ写すだけの字だった。今日は、行き先の名として、読めた。事務所の名も、番地も、前回と同じだった。字を写すあいだ、手は止まらなかった。判と朱肉は、使わなかった。要るとは、言われていない。
糊を、指で伸ばして、封をした。封じ目に、指の腹を、しばらく当てた。乾くまでの、短い間だった。紙一枚ぶんの、薄い厚みだった。
手帳は、まだ開かなかった。書くのは、出したあとだ。そう決めて、封筒を鞄に入れた。ファスナーの音が、居間に一度だけ響いた。
鍵を掛けて、取っ手を一度だけ引いた。動かなかった。門を出ると、外の空気が、もう柔らかかった。申請書を出しに歩いた朝の、息の白さは、もうどこにもなかった。
駅へ向かう道を、歩いた。十二分、と決まっている道だ。あの朝も、この向きに歩いた。見えるものの順は、変わらない。変わったのは、見えるものの色だった。
空は、薄い青で、雲が高かった。風は、ほとんどなかった。コートは、いらなかった。
道ばたの桜は、花が終わって、葉が出ていた。細い枝の先に、薄い緑が、ばらばらに付いている。風が来ると、足もとに、花びらの残りが、一枚か二枚、転がった。
小学校の門は、閉まっていた。校庭のほうから、笛の音と、揃わない声が聞こえた。体操の時間らしかった。門の脇の掲示板に、四月の行事の紙が、画鋲で止めてある。端が風にめくれて、また戻った。
自転車が、後ろから追い越していった。荷台に、葱の束が括ってあった。ベルは、鳴らなかった。
赤いポストは、道の途中にあった。あの朝と、同じ場所に立っていた。塗りが、少し、日に焼けているように見えた。
鞄から、封筒を出した。一通だけだった。手の中で、軽かった。宛名の上を、指の腹で、一度だけなでた。曲がってはいなかった。
投函口に、角を差し込んだ。手を離した。
紙の落ちる音は、しなかった。薄いものは、音を立てずに、奥へ入る。戻すことは、できない。戻したいとは、思わなかった。手を引いたあとの指先に、封筒の角の硬さだけが、少し残っていた。
しばらく、ポストの前に立った。体は、揺れなかった。前に立ったときのような、体の奥のざわめきは、なかった。決めたことが、ひとりでに手を離れていった、という感じだった。
来た道を、戻った。桜の葉は、帰りも、風に揺れていた。
隣の門の前で、三つ目の鉢を見た。何の葉なのかは、まだ知らない。それでも、一昨日より、少し、上を向いていた。
居間の机に、手帳が置いてある。表のほうから開いて、七十三日目の二行を探した。電話で聞いた手続きの、談の二行だった。その下に、続けた。
「七十四日目午前、事務所宛てに追加分一枚を投函。宛先は前回と同じ。名前と日付あり」
書き終えて、読み返した。人の言葉は、入っていなかった。談は、付けなかった。付ける相手が、いない。私が、私のしたことを書いただけだった。
あの日は、出すより先に、提出済み、と書いた。順番を、わざと間違えた。今日は、出したあとに書いた。順は、間違えなかった。
何を書いたかは、手帳には写さなかった。写せば、手帳の中に、もう一枚、同じ紙ができる。あの紙は、一枚でいい。
削る前の一枚は、机の端に、残っていた。半分だけ埋まった、罫の細い便箋だった。老人のことも、隣の人のことも、水のことも、その中に、そのまま入っている。捨てる気は、なかった。落としたものが何かを、私が知っているという、その印だった。
二つに折って、手帳の裏表紙の内側に挟んだ。先に入っていたもう一枚の上に、重なった。
手帳を、閉じた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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