第五十話 綴りの下
四月も半ばに入った朝だった。この家に戻って、七十三日目になる。
昨日、隣の門の前を通ると、三つ目の鉢に、葉が二枚出ていた。二枚とも、まだ畳んだ指のような形をしている。何の葉なのかは、分からなかった。十二日前は、土が盛られているだけだった。
四月の板は、あの朝、隣へ回っていったきり、戻ってきていない。町を一回りするには、ひと月かかるものらしかった。今月、板のことでする用事は、もう残っていない。集積所の前も、昨日、通った。ネットが、知らない手でたたまれていた。角の合わせ方も、内へ折り込む順も、私がしたのと同じだった。誰が先にそうしたのかは、見ただけでは、分からなかった。
皿を洗い終えて、居間の机に着いた。手帳を、表のほうから開いた。書くことがあったわけではなかった。最後の行は、六十一日目のままで、その下に、十二日ぶんの白が続いている。足さなかったのではなく、足すことが起きなかっただけだった。
白い頁から、一枚ずつ戻った。
六十一日目。手で書いた紙が二枚、板に並んだ日の行だった。三十六日目の行には、署名「皆瀬」と書き写して、自筆、と括弧を付けてある。そこまで書いてある。三十日目の行は、対応は未確認、で止まったままだった。
二月の頁は、紙の端が、わずかに波を打っていた。雨の日の湿りが、まだ抜けていないらしい。その前の頁に、「家から、十二分。」の見出しがあった。見出しを過ぎると、二行が並んだ頁が出てきた。
「――保留。」
その下に、
「提出済み」
二行は、同じ朝の字だった。インクの濃さも、ほとんど変わらない。上の一語は、前の日に申請書へ書いたものを、そのまま写した。下の一語は、まだ封もしていない紙について、先に書いた。順番を間違えたのは、わざとだった。書いたあとで、本当になった。投函した日の昼には、もう嘘ではなかった。
八行目に、一語だけ書いた日のことは、よく覚えている。決めた、と書ける行が一つもなかった。決めていないことを、決めていない、とそのまま書いた。あの日の八行目に書けたのは、あの一語しかなかった。間違ってはいなかった。
その紙は、いま、手もとにない。去年の書類の表紙に名前の刷ってある事務所の、どこかの綴りに、綴じられているはずだった。私の字のまま、書いた日の言葉のまま、あちらにある。応接室の机には、角の揃ったファイルが、何冊か積んであった。あの中のどれかの、どこかの頁に、七行と、八行目が、挟まっている。私が見ることのない場所で、私の字が、閉じられたまま、置かれていた。
三月の白い紙のことを思い出した。ようです、の一語を載せたまま町を回って、月をまたいでも、四月の板に残っていた。誰も手を入れなかったらしい。入れる決まりがない、と老人は言った。足すことはできます、引くことはできません。
申請書の八行目も、同じだった。引くことはできない。引こうと思ったことも、なかった。出した日には、あれが正しかった。正しかった行は、引くものではない。
保留、というのは、手もとに置いておくものに使う言葉だ。私は、保留のまま、手放した。手放したあとの保留は、あちらの綴りの中で、私の手を離れたまま、続いている。
あの紙は、保留とだけ書いてある。読む人には、保留のままなのか、保留をやめたのか、紙からは分からない。つなぐ線は、紙の上にない。
応接室で、弁護士は、出さないという選択も、選択です、と言った。出さなければ、条項のとおりになる、とも。出したあとのことは、何も言わなかった。私も、一度も尋ねていない。尋ねる必要を、感じなかった。出したら、そこで終わりだと、どこかで思っていた。
あれから二か月余りのあいだに、決めたことが、いくつか増えた。済んだ用事の行を、線で消さないと決めた。板に出す一行を、自分の字で書いて、名前を添えた。八行目に保留と書いた日の私は、どちらも、まだしていなかった。
足せることは、増えていた。二月の私が持っていなかったものが、いくつか、手の中にあった。
足す、という手つきは、手帳の中では、岐阜からしてきた。祖母の一行の下に、聴取済み、と重ねた。手の離れた紙に足す形は、板で、はじめて見た。重ねたものを読むかどうかは、読む人が決める。
もし足すなら、八行目の下に、何を、と考えかけて、やめた。今日の問いは、何を、ではなかった。足せるのかどうか、だった。順を、間違えない。
けれども、足せるかどうかは、分からなかった。出したものに、あとから、紙を一枚。それが、あの事務所で許されることなのか。板の決まりは老人が教えてくれたが、あちらの決まりは、誰も教えてくれていない。
分からないことは、足せない。足せるのは、分かったことだけだ。そう思ったのは、十二日前だった。今日の分からないことは、尋ねれば分かることだった。
手帳を閉じた。去年の書類の表紙を、台所の束から抜いてきた。紙の端は、角が少し丸くなっていた。何度も開いたわけではない。置いておいた場所で、ひとりでに、そうなったのだった。番号は、刷ってあった。
時計が九時を回って、十分待った。それから、受話器の前に立った。
受話器に手を伸ばす前に、一度、声に出してみた。家の中に、自分の声だけが、小さく響いた。出す番号も、言う言葉も、手の中にあるのに、押すまでは、まだ私の中のものだった。
尋ねるのは、手続きだけにする。そう決めて、番号の下に、指で線を引いた。中身を尋ねれば、あの八行目に点を付けてもらいに行くことになる。付けてもらうために、かける電話ではなかった。
言い方は、手帳を閉じる前に、余白へ先に書いてあった。直す、とは書かなかった。直す、と言えば、直すべきものがある、と言うことになる。訂正、も同じだった。八行目は、間違っていない。足す、のほうが、事実に近かった。
この家の電話から、呼ばれてではなく、自分から番号を押すのは、これで何度目になるのか、数えなかった。呼び出しの三度のあいだに、切ろうか、と一度だけ思った。思っただけで、手は動かなかった。三度目で、つながった。
「はい」
事務所の名を名乗る声が、そう言った。
「皆瀬と申します。二月に、書類をお送りした件で、お尋ねしたいことがあります」
「皆瀬様。少々お待ちください」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。待たされたのは、短いあいだだった。
「お待たせしました。お預かりしている件ですね。お預かりしたのは、二月の初めでしたでしょうか」
「はい」
「承知しました。どういったご用件でしょうか」
用意してきた言い方を、そのまま出した。
「出したものに、あとから一枚、足すことはできますか」
「追加で、書類をお送りいただく、ということでしょうか」
「はい。できるかどうかだけを、お尋ねしたいんです」
「できます」
間は、なかった。聞かれ慣れたことを、答えている声だった。
「期限内にお届けいただいたものは、先にお預かりした書類と同じ綴りに綴じます。先のものは、そのまま残ります。差し替えや訂正という扱いは、いたしません。あとから届いたものが、その下に重なる形になります」
「宛先は」
「前回と同じです」
「書式は」
「お名前と日付が入っていれば、形式は問いません」
質問したのは、それだけだった。電話の向こうも、それ以上、何も聞かなかった。何を足すのか、とは、尋ねられなかった。尋ねられなかったことを、冷たいとは思わなかった。この手続きは、最初から、そういう形をしていた。
「ほかに、ご不明な点はございますか」
「いえ。ありがとうございました」
「失礼いたします」
受話器を置いた。手を、そのまま膝に置いた。壁の時計が、九時十五分を少し過ぎていた。二分ほどの電話だった。電話に出た人の名は、聞かなかった。名のない声にも、談は付けられる。付けるのは、声が、確かにそこにあったときだ。
板の上の便箋は、隣の女性の手で、開かれた。あちらの綴りの八行目は、もう誰かに開かれたのかどうかも、私には分からない。開かれたかもしれないし、まだかもしれない。分からないまま、この電話は、足せるということだけを、私に渡した。
手が、少し冷えていた。頼んだわけでも、断られたわけでもなかった。ただ、決まりが、決まりのとおりに答えた。人は、答えないことを選べる。決まりは、尋ねれば、答える。
先のものは、そのまま残る。八行目の一語は、これからも、八行目にある。その下に、別の紙が来るだけだ。引かずに、重ねる。板と同じ形だった。
重なったものは、下の紙を読んだ人が、そのあとで読む。読む順番は、紙のほうが持っている。足す私にできるのは、どの紙を、どの順に置くか、というところまでだった。読まれ方は、あちらの仕事だ。それで、足りていた。
居間に戻って、手帳を開いた。六十一日目の最後の行の下に、続けた。
「七十三日目午前、事務所に電話。電話に出た人より『期限内にお届けいただいたものは、先にお預かりした書類と同じ綴りに綴じます。先のものは、そのまま残ります。差し替えや訂正という扱いは、いたしません』の由――談」
「同人より『お名前と日付が入っていれば、形式は問いません』の由――談」
書き終えて、読み返した。手続きのことだけが、並んでいた。中身については、一字も、誰からも、聞いていない。私も、渡していない。紙一枚ぶんの席が、綴りの中に、あるだけだった。
六十一日目の最後の行の下の白は、十二日ぶんから、二行ぶん、減った。減ったのは、今日、起きたことのぶんだけだった。
裏の頁は、開かなかった。今日、足す行は、まだなかった。窓の外で、じょうろの水を空け直す音がした。隣の庭だった。顔は、見えなかった。
机の浅い引き出しを引いた。判と朱肉の隣に、買い置きの便箋が束のまま入っている。罫の細い、白いものだった。一番上の一枚を、抜いた。
机の上に置いて、手で、紙の端をならした。四月の光が、白い面を、いつもより白く見せていた。何を書くのかは、決まっていなかった。どれだけ書くのかも、決まっていなかった。裏表紙の内側に、長いほうの下書きが残っている。今日は、取り出さなかった。あれが、こちらにも要るのかどうかさえ、まだ分からなかった。書き出しの一行目は、白いままだった。
上が白いままの便箋は、三月の居間で最初に書いた下書きの一枚目と、すこし似ていた。違うのは、あれは、書いてから短くした紙で、これは、書く前の紙だということだった。短くするものも、まだ、何もない。
ペンを取って、紙の右の下の隅に、先に名前を書いた。
「皆瀬」
順番が逆なのは、分かっていた。一度、同じことをした。あのときは、出す前に、提出済み、と書いた。今日は、本文の前に、名前がある。
最初の一画に、点は付かなかった。止まらずに、書けた。
窓の光が、白い紙の上を、端のほうから、ゆっくり動いていた。
ペンの蓋を、閉めた。便箋は、引き出しに戻さず、手帳の隣に置いたままにした。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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