第五話 見送り
テープを箱に戻してから、十日ほどが経っていた。残りの六本には、まだ手をつけていない。祖母の声をもう一度聞く心の準備は、正直、まだできていなかった。
その間、私は実家に残った祖母の荷物を、少しずつ片付けていた。取材ノートと呼べるものはあの一冊だけだったが、他にも、古い名刺入れや、行く先々で集めたらしい観光パンフレットの束が、引き出しの奥から次々に出てきた。東京の仕事を辞めてからというもの、次の予定に追われない日々が、こんなに間延びして感じられるとは思わなかった。派手な進展のない、静かな十日間だった。
その日の郵便物の中に、見慣れない筆跡の封書が交じっていた。差出人の欄には「矢代」とだけ、几帳面な字で書かれている。
心臓が、小さく音を立てた。羽鳥の、あの座敷を思い出す。
東京にいた頃の癖で、初対面の相手には必ず連絡先を渡していた。矢代さんの家を辞するとき、私も、実家の住所と電話番号を書いたメモを、律儀に置いてきていたのだった。まさか、それを使われるとは思っていなかった。
二階の書斎に上がり、祖母の机で封を切る。中から出てきたのは、罫線の入った、飾り気のない便箋だった。万年筆で書かれた文字は、羽鳥のあの座敷で聞いた掠れ声からは想像もつかないほど、一字一字に気を配った跡がある。
「皆瀬灯里様 突然のお手紙、失礼いたします。以前うかがった折にいただいた、ご住所を頼りに、書かせていただきました。
先だって、麓の方から便りがありました。あなたが尾根を越え、あの墓の前まで行き、無事に戻ってこられたとのことでした。それを聞いて、正直、胸を突かれる思いがいたしました。静さんの跡を、ここまで諦めずに辿られる方がいるとは、思っておりませんでした。
歳を取ると、面と向かってはうまく言えないことが増えます。余計な遠慮ばかりが先に立って、結局、言葉を呑み込んでしまう。ですが、あなたはもう、あの場所まで行って、無事に戻ってこられた方です。今さら私が黙っていたところで、もう誰かを守れるわけではないのだろう、と思うようになりました。
もしお時間がありましたら、一度、お電話をいただけないでしょうか。手紙よりも先に、声でお伝えしたいことがあります。
矢代」
便箋を畳みながら、しばらく動けなかった。矢代さんの、あの物静かな話しぶりが、行間から聞こえてくるようだった。
手紙の隅には、電話番号が、几帳面な字で添えられていた。
電話をかけたのは、その日の夜だった。呼び出し音が四回ほど続いたあと、回線の向こうで、聞き覚えのある声がした。
「――矢代です」
「皆瀬です。お手紙、ありがとうございました」
少しの間があって、電話の向こうで、小さく息をつくような気配がした。手紙の丁寧な文字とは違う、あの座敷で聞いたのと同じ、掠れた声だった。
「ちゃんと届いたか。……無事で、何よりじゃ」
「はい。おかげさまで。あの、お電話でお伝えしたいことというのは」
矢代さんは、すぐには答えなかった。
「実はな。ずっと言わんでおこう思うとったことがある。じゃが、あんたがちゃんと戻ってきた、いうんなら、もう黙っとる意味もなかろう思うてな」
「隠していたことが、あったんですか」
「隠しとった、いうか……あんたが、駅前の店でも、図書館でも、麓でも、同じような目に遭うたと聞いとる」
老婦人が一瞬で愛想を消したこと。司書の声の温度が下がったこと。麓の老女の、あの忠告。三つの記憶が、順番に頭をよぎった。
「はい。三人とも、何かを知っていて、それを言わない顔をしていました」
「あの人らは、あんたに意地悪しとったわけじゃない。むしろ、逆じゃ」
「逆、というと」
「この土地には、昔から、ある記憶がある。常世谷のことを深う詮索した者や、あそこの墓を数えた者に、良くないことが続いた、いう記憶じゃ」
「良くないこと、というのは、具体的には」
「はっきりとはせん。病がちになった、いう話もあれば、家のもんに不幸が続いた、いう話もある。じゃが、どれも人づてでな、確かめようがない。ただ、そういう話が、何十年も途切れず、伝わってきた、いうことだけは確かじゃ」
迷信かもしれない。因果関係なんて、どこにもないのかもしれない。それでも、その話は、確かにこの土地に、根を張っていた。
「じゃから、この土地の者は、自分らも触れんし、よそから来た者にも、なるたけ近づけんようにする。それが、いつの間にか、ここの作法になった」
「店のばあさんが、名前を大きい声で言うなと言うたんも」
「あんたに、何かあったら困る、思うたからじゃ。図書館のあの人も、同じじゃ。うちの身内が、昔、似たようなことを聞かれたことがある。あの人も、たぶん似たようなことを思うたんじゃろう。それでも、あんたにはわしの名前を教えた。よっぽど、思うところがあったんじゃろうな」
「麓のばあさんは」
「行くのは止めん、じゃが墓は数えるな、言うたじゃろう。あれは、止めるんじゃない。せめてそれだけは守ってくれ、いう、あの人にできる精一杯の頼みじゃった」
息を呑んだ。不気味だとばかり思っていた三人の態度の一つひとつに、こんなに人間くさい理由があったとは、考えたこともなかった。
「その、『墓を数えるな』というのも、同じ話に繋がっているんですか」
「ああ。あそこの墓は、数えるたびに数が合わん。それを、何遍も何遍も数え直した者は――そのうち、自分が、その足りん一人の方に、回ってしまう。土地では、そう言われとる」
背筋のあたりに、冷たいものが伝った。祠の裏手で、自分が指で数え直していたときの、あの感触を思い出す。
「回ってしまう、というのは」
「わしにも、うまくは説明できん。ただの言い伝えじゃ。理屈じゃない」
そこで、矢代さんは一拍置いた。
「じゃが、な。何で数が合わんのか――その理由そのものは、誰も知らん。静さんも、わしも、昔の婆様たちも、誰一人。分からんから、触れんことにしたんじゃ」
受話器を握ったまま、私はしばらく言葉を探した。祖母もまた、こうして、答えの出ない場所の前で、同じ作法にそっと押し返されていたのだ。数えても、数えても、一人足りない――あの震えた一行は、謎の答えではなく、答えを持たない者たちが、それでも持ちこたえるために引いた、境界線だったのかもしれない。
「静さんには、とうとう、これを言えんかった」
そう言ったきり、矢代さんは黙り込んだ。
「あの人も、ここまで来て、行き詰まって、それで、県外へ行ってしまった。わしも、その頃は、まだ土地の作法を破る度胸がなかった。今になって思えば、悔やんどる」
「矢代さんのせいでは、ないと思います」
「優しい人じゃな、あんたも。……静さんに、よう似とる」
「あんたには、同じ思いをさせとうない。行くところまで、ちゃんと行きない。ここから先、わしらにできるのは――見送るくらいのもんじゃ」
見送る。その言葉が、電話越しにやけに静かに響いた。
「ありがとうございます。……行ってきます」
「うん。達者でな」
電話を切ったあとも、しばらく受話器を握ったままだった。掌の中で、プラスチックの感触だけが、妙に生々しかった。
机の引き出しから、祖母のノートの原本を取り出した。旅先にはいつも、コピーだけを持ち歩いていた。持ち出す勇気がなくて、必要な部分だけスキャンして携えてきた、あの原本を、今夜は最後のページまで開いてみるつもりだった。
常世谷にまつわる記述は、コピーで読んだときよりずっと長く続いていた。祠の見取り図、聞き取りの断片、日付だけが記された空白のページ。同じ地名が、季節をまたいで何度も現れる。行間にまで及ぶ細かな書き込みは、原本でしか読めないものだった。祖母は本当に、何年もこの谷に通い詰めていたのだ。
そのページが、ある日を境に、ふっと途切れた。
何も書かれていないページが、数枚続く。まるで、しばらく筆が止まっていたかのように。
そして、また文字が始まる。インクの色も筆跡も変わらない。けれど、地名だけが違っていた。
「岐阜県・柊野町。近郊住宅地。町内小学校に流布する噂について、取材予定」
心臓が、小さく跳ねた。矢代さんの証言――祖母は常世谷に通うのをやめたあと、県外の別の土地の噂を追い始めた――が、ここに繋がっていた。テープの最後、途切れる直前の「次は――」という一言は、きっとこの記述に続くはずだったのだ。
ページをめくると、マスクをした若い女性が、下校中の子どもたちの前に現れる――そんな噂について、祖母が聞き取りを始めた様子がうかがえた。詳しい中身は、まだ読んでいない。今夜、読むのはここまでにしようと決めていた。
もっと読み進めたい気持ちを、私は抑えた。今はまだ、その先を追う準備ができていない。一つずつだ。祖母が、そうしてきたように。
ノートを閉じ、自分の手帳を開く。祖母のノートに直接書き込むのは、なんとなく気が引けた。いつからか私は、自分の手帳を別に持つようになっていた。祖母の言葉を、もう一度思い出す。伝聞は伝聞のまま。事実は事実のまま。私は、電話で聞いたことを、その通りに書きつけた。
「矢代氏より聴取。土地の者が常世谷の名を避け、詮索する者を遠ざけてきたのは、関わった者に『良くないこと』が続くという言い伝えに基づく、土地の作法であった由――談。悪意ではなく、来訪者を案じての行為だったとのこと。『墓を数えるべからず』も同根で、数え続けた者はいずれ自分がその一人に回る、との由――談。ただし、数の不一致そのものの理由は、矢代氏を含め土地の誰も知らないとのこと。核心部分は依然不明――要確認」
書き終えて、ページの端に、もう一行だけ書き足した。
「祖母のノート原本、常世谷の記録の後に、岐阜県・柊野町の記述を発見。次はそこへ向かう」
手帳を閉じる。三人の女性の顔が、順番に浮かんでは消えた。老婦人の、一瞬だけ愛想を消した顔。司書の、少し低くなった声。麓の老女の、目元だけで笑ったあの表情。誰も、私を拒んでいたわけではなかった。あの人たちは、それぞれのやり方で、精一杯、私を見送ろうとしていただけだった。
荷物をまとめながら、そんなことを思う。答えのすべてを受け取ったわけではない。数の合わない理由は、今もまだ、誰も知らないままだ。それでも今回は、手ぶらで青森を離れるのとは、何かが違う気がした。
窓の外はすでに暗くなっていたが、不思議と、心細さはなかった。誰かに追い出されたのではなく、誰かに送り出されたのだ。そう思えるようになっただけで、次の一歩が、前よりずっと軽くなっている気がした。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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