第四話 巻き戻し
常世谷から実家に戻るまで、まる一日以上かかった。尾根を下り、麓の集落でもう一度礼を伝え、バスと鈍行を乗り継ぐ間、車窓の景色は行きとは逆の順序で、緑から灰色へ、灰色から見慣れた街並みへと変わっていった。
実家の鍵を開けると、しんとした空気が先に出迎えた。誰もいない家に帰るということに、私はまだ慣れていない。
郵便受けには、数日分のチラシと請求書が溜まっていた。玄関先の鉢植えは、出発前に多めに水をやっておいたおかげか、かろうじて枯れずに済んでいた。それだけのことに、なぜか少しほっとした。
線香の匂いは、前に来たときより、いくらか薄くなっている気がした。時間が経てば、匂いも記憶も、少しずつ薄まっていくものなのかもしれない。
二階の書斎に上がり、祖母の机の前に立つ。埃を払う手つきに、もう迷いはなかった。机の隅には、旅に出る前と同じ場所に、古いカセットレコーダーと、ラベルの剥がれたテープの束が置かれていた。数えてみると、テープは全部で七本あった。どれも同じメーカーの、同じ型のケースに収まっている。長い年月のせいでプラスチックのケースはうっすらと黄ばみ、どれがどれだか、見た目だけでは区別がつかなかった。
椅子に腰を下ろし、電源を入れてみる。小さく唸るような音がして、それきりだった。再生ボタンを押しても、テープが回る気配がない。裏返してみると、ゴムベルトらしき部品が、指で触れただけでべたつくほど傷んでいた。
動かない機械を前に、私はしばらく黙って座っていた。だが、迷いはすぐに消えた。尾根の上で決めたことを、実行に移すだけだ。
地元の駅前商店街で、古い電器店を探した。
大きな家電量販店なら、駅前にいくつもあった。だが、あの年代物を診てくれるとは思えなかった。前を通るたび気になっていた、シャッターの半分閉まった小さな店を、私は初めて訪ねた。
店先には、古いラジオや、ブラウン管のテレビが並んでいた。店の奥からは、はんだごての焦げたような匂いがかすかに漂っている。壁の棚には、用途のわからない基板や部品が、種類ごとに整理されて並んでいた。声をかけると、奥から出てきたのは、白髪頭を短く刈った、七十代半ばくらいの店主だった。
レコーダーを差し出すと、店主はそれを一目見るなり、小さく声を漏らした。
「これは、懐かしいな」
「直りますか」
「ベルトさえあれば直せる。ただ、今どき部品はもう出回っていない。うちの引き出しに合うのがあるかどうかだが」
店主はそう言うと、老眼鏡を額に押し上げ、興味深そうにレコーダーを眺めた。
「随分、大事にされてたみたいだな。これ、誰のだい」
「祖母のです。少し前に亡くなりました」
店主は、それ以上は詮索しなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
店主は奥の引き出しを探り、似たような幅のゴムベルトを一本見つけ出すと、慣れた手つきで古いカバーを開けていった。
その間、私はテープの束を鞄から取り出し、一本ずつ確かめた。ラベルは、どれも同じように剥がれている。だが一本だけ、側面に鉛筆で書かれたらしい数字の跡が、かろうじて残っていた。滲んで読み取れるのは、下二桁だけだ。
ノートのコピーを開き、常世谷の記録が始まったページの日付と、その数字を照らし合わせる。一致すると言い切れるほどの根拠はなかった。それでも、近い時期であることだけは確かだった。残りの六本にも、それらしき跡がないか確かめてみたが、判読できるものはなかった。今日のところは、この一本に賭けるしかない。
作業の手を止めないまま、店主がテープの束にちらりと目をやった。
「中身、聴くのかい」
「はい。祖母が遺したものなので」
「古いテープは、案外もろいんだ。一回回しただけで伸びたり、切れたりすることもある。聴くなら、一本ずつ、覚悟して聴きなさい」
夕方近くになって、店主が顔を上げた。
「一応、回るようにはした。保証はできないが」
礼を言って店を出るとき、背中に声がかかった。
「――誰の声か知らないが、大事に聴きなさいよ」
その一言に、胸の奥が少し重くなった。
家に戻ったのは、日が落ちてからだった。書斎の明かりをつけ、机の上にレコーダーを置く。数本あるテープの中から、あの数字の跡が残る一本を選び、そっと差し込んだ。
再生ボタンに指をかけたまま、しばらく動けなかった。この中に、本当に祖母の声が入っているのかもしれない。亡くなってから、その声を聴くのは初めてだった。それに、取材をしているときの祖母の声を、私は一度も聞いたことがなかった。
指に力を込め、ボタンを押した。
かすかなノイズが、スピーカーから流れ出した。テープの走る音に混じって、衣擦れのような音、それから小さな咳払いが聞こえた。
「――六月、いや、七月か」
言い直すような、短い間があった。
「常世谷、祠の前にて。皆瀬静」
低く、落ち着いた声だった。耳には馴染んでいるはずのその声が、今、確かにこの部屋の空気を震わせている。だが、そこで話しているのは、私の知らない祖母だった。実際の声は、想像していたよりずっと若く、そして疲れているように聞こえた。
「祠は、思ったより小さい。屋根はすでに落ちて、石の本体だけが、傾いたまま苔に覆われている」
「手前に、崩れた鳥居の跡がある。柱が一本、傾いだまま残っているだけだ。この谷の生業は、炭焼きだったらしい――地元の言い伝えでは、そう聞いている」
一拍置いて、静は言葉を継いだ。
「もう何年も、人の手が入っていない。それでも、道の形だけは、まだかろうじて残っている」
淡々とした報告口調だった。ノートの字と寸分違わない几帳面さで、静は今見ているものを、そのまま言葉にしていく。祠の様子は、尾根を越えて見てきたものと、ほとんど同じだった。祖母も、私と同じように、この光景を言葉にしていたのだ。
「裏手に、石が並んでいる。墓標か、供養塔のようなものだ。数を数えてみる」
一つ、二つ、三つ、四つ――静の声が、単調に数を刻んでいく。
五つ、六つ、七つ――そこまで数えて、静は一度言葉を止めた。紙をめくるような音のあと、律儀にまた最初から数え始めた。よほど几帳面な性分でもなければ、数えるものを二度、三度とやり直したりはしないだろう。
その数え直しの途中、声の合間に、ごく小さな音が紛れているのに、私は気づいた。風のようでもあり、誰かがひとつ遅れて同じ数字をなぞっているようでもあった。空耳かもしれない。判然としない。
背筋に、冷たいものが伝った。祖母が二十年以上前に感じたかもしれないものを、今、同じ音として聞いている。そう思うと、部屋の温度が急に下がった気がした。
数える声が、不意に止まった。
「――今のは」
短い間があった。
「気のせいだろう。風だ、たぶん」
そう言うと、静はすぐに数え直しにかかった。声のわずかな硬さに、几帳面さの奥に隠れた戸惑いが滲んでいるのを、私は聞き取った気がした。
数え終えるまでに、何度か言い直しがあった。
「八――いや、九か。もう一度数える」
もう一度数え直しても、また違う数になった。多いのか、少ないのか、静の声にも、判断のつきかねている響きがあった。
やり直した末に、静はしばらく黙り込んだ。テープには、衣擦れの音と、遠くの風の音だけが残っていた。
やがて、それまでよりずっと低い声で、独り言のように、静はこう言った。
「数えても、数えても、一人足りない」
ノートの余白にあった、あの震えた一行。もしかしたら、あの言葉は、ここで生まれたのかもしれない。何年も経ってから、思い出したように書き足すほど、この瞬間の何かが、祖母の中に長く残り続けたのだとしたら。
私は椅子の背もたれに体を預けた。取材者としての祖母しか、これまで知らなかった。断定を避け、伝聞と事実をきっちり分けることに、誰よりも厳格だった人。その同じ声が今、迷い、戸惑いながら、それでも記録を続けようとしている。
少しの間のあと、静の声は、いつもの平静な調子に戻った。
「土地の者曰く、この墓は数えるものではない、とのことだった――談。理由については、聞けなかった」
そこで、ふっとノイズが途切れた。テープの継ぎ目か、一度録音を止めた跡らしかった。
再びノイズが戻ったとき、背景の音が変わっていることに気づいた。さっきまでの、かすかな風の音は消えている。屋内で、もっと近い位置から喋っているような響きだった。今度は少し掠れた声で、静が続けた。
「今日はここまでにしよう」
紙をめくるような音が、かすかに入っていた。
「次は――」
声が歪んだ。回転数が落ちるような、間延びした音になり、次の瞬間、ぷつりと途切れた。
テープが、そこで終わっていた。巻き戻しても、続きは出てこなかった。
矢代さんが、確かに言っていた。祖母は常世谷に通うのをやめたあと、風の噂で、県外の別の土地の話を追い始めたのだと。あの「次は」の続きは、きっとそこにつながっていたのだろう。
レコーダーの前で、私はしばらく動けなかった。部屋には、さっきまでの声が嘘のようで、静けさだけが戻っていた。
祖母は、答えを持っていたわけではなかった。二十年以上前のあの場所で、今の私とまったく同じように、数の合わない謎の前に立ち尽くしていただけだ。
けれど、それでよかったのだと思う。答えではなく、同じ場所で同じように立ち止まった人がいたという事実だけが、今はひどく心強かった。
広告の仕事をしていた頃、私は「共感」という言葉を、企画書の中で何十回も使ってきた。けれど今、机の上のレコーダーを見つめながら感じているものは、あの薄っぺらい言葉とは、まるで質が違っていた。
放心する代わりに、私はノートを開いた。祖母のやり方を真似て、聞こえたことをそのまま書きつける。
「祖母の録音(推定二十年以上前、常世谷祠前にて)確認。墓標の数、祖母も数え違いを経験していた形跡あり。土地の言い伝え『墓を数えるべからず』、祖母自身の録音内でも言及あり――談。録音末尾、次の取材地に触れていた様子だが、テープの劣化により聞き取れず」
書き終えて、テープを箱に戻す。次にどれを聴くかは、まだ決めていない。残りのテープは、しばらくこのまま眠らせておくつもりだった。
ノートのコピーを閉じ、鞄にしまう。祖母の旅は、常世谷で終わっていなかった。ならば、続きを追うのは、私の仕事だ。
机の明かりを消す前に、もう一度だけ、古いレコーダーに手を触れた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)




