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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち


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第三話 尾根の向こう

朝、民宿を出るとき、主人に山歩きをすると告げると、少し驚いた顔をされた。それから、何も聞かずに、竹の水筒に湯冷ましを詰めて持たせてくれた。聞かない、という優しさもあるのだと、東京にいた頃は知らなかった。


呼んでもらった車に乗り、私は矢代さんの家がある羽鳥を通り過ぎ、さらに山ひとつぶんの道を揺られた。車窓を流れる景色は、沢見市に向かったときよりもずっと緑が濃く、人家の数が目に見えて減っていった。カーナビの地図は、この先の道を細い線でしか描いていない。運転手も、詳しい場所までは知らないようだった。舗装はいつの間にか途切れ、砂利道になった。運転手は道の先を顎で示し、「この先は、車じゃ無理だな」とだけ言って、集落の手前で私を降ろした。


家は五、六軒ほどだったと思う。棚田の畦道に、腰の曲がった老女がひとり、しゃがみこんで草を取っていた。声をかけると、老女は顔も上げずにこう言った。


「矢代さんから、電話もろうとってな。あんたが来るて聞いとった」


驚いたのはこちらだった。まだ、名乗ってもいなかった。


老女はようやく手を止め、私の顔を、値踏みするようにゆっくり見上げた。それから、確かめるように言った。


「あんたが、静さんの孫さんじゃな」


肯定も否定もする前に、話はもう先へ進んでいた。老女は腰を伸ばしながら立ち上がり、「まあ、座りない」と、縁側を指さした。


常世谷のことは、矢代さんから聞いた話とだいたい同じだった、と老女は繰り返した。谷の人々は炭を焼いて生計を立てていたという。祠は、山の神を祀ったものだったらしい。そこまでは、目新しい話ではなかった。ただ、ひとつだけ、矢代老人が語らなかったことを、老女は口にした。


「静さんが最後に来たとき、うちの人が見とるんじゃ。あの祠の前で、小さい機械持って、なんかしゃべりながらいじっとった、言うとった」


「機械、ですか」


「録音の機械じゃろう。今はもう珍しくもないんじゃろうけど、あの時分、こんな山ん中で見るのは初めてだった、言うとった」


「祠に向かって、なんぞ喋っとった、とも言うとった。何を言うとったかまでは、うちの人にもわからんかったそうだが」


うちの人、というのがどんな人物なのか、私は尋ねなかった。今はもういないのかもしれない、という気がしたからだ。


祖母の机に置かれたままの、あの古いカセットレコーダーが、頭の中で像を結んだ。ラベルの剥がれたテープの束。あれと同じものが、二十年以上前、まさにこれから私が向かう祠の前で回っていたのかもしれない。


道筋を教えてもらったあと、老女は最後にこう付け加えた。


「行くのは止めん。じゃが、あそこの墓は数えるもんでない、と、うちの婆様がよう言うとった。理由は知らん。ただ、静さんにも同じことを言うた覚えがある」


「同じこと、ですか」


「うん。静さんは、ふうん、いう顔しとったよ……あんたも、たぶん似たような顔しとる」


老女はそう言って、目元だけでかすかに笑った。揶揄とは少し違う、底のほうに沈んだ色を、私はその笑いに見た気がした。


日が高いうちに戻れ、とだけ言われて、私は集落を離れた。少し歩いたところでノートを取り出し、聞いたことを書きつける。


「麓の老女、常世谷の生業は炭焼き、祠は山神を祀るものと語る――談。祖母、最後の来訪時に録音機を使用していた形跡あり(目撃証言)。土地に『墓を数えるな』との言い伝えあり、祖母にも同様の忠告があった模様――談」


自分の字が、いつもより硬いことに気づいた。



矢代さんの言った通り、道はほとんど残っていなかった。最初は畦道の延長のような、踏み固められた土の道だったのが、竹藪に入る頃には、道とも呼べない獣道になっていた。


ところどころに、石を組んだ段が残っていた。よく見ると、ただの自然の岩ではなく、人の手で積まれたものだとわかる。かつて、ここを日常的に登り降りする人間がいたということだ。今はその石段の隙間から、太い木の根が突き上げ、段そのものを内側から壊しつつあった。


崩れた鳥居の跡もあった。柱が一本、斜めに傾いだまま立っているだけで、貫も笠木もどこにも見当たらない。それがかえって、ここに確かに何かがあったことを、静かに物語っていた。


鳥居の根元には、丸い石が並べられていた跡があった。半分ほどは崩れて斜面に転がっていたが、残ったものを目で追うと、几帳面な間隔で置かれていたことがわかる。何のための区切りだったのかは、わからないままだった。


登るにつれて、道幅が妙に広くなる区間があった。人ひとりがようやく通れる獣道の中で、そこだけ不自然に開けている。炭俵を積んだ荷車が通れるように、かつて整備された道だったのかもしれない。だとしても、これほどの道幅がいるほどの村だったのだろうか。考えても答えは出ず、私はそのことだけノートの端に書きとめて、また歩き出した。


スマホの電波は、集落を出てすぐに圏外になっていた。鳥の声はしばらく続いていたが、あるところから、いつのまにか聞こえなくなっていることに気づいた。いつ止んだのか、思い出せない。気温も、心なしか下がった気がした。日差しの角度のせいかもしれないし、標高のせいかもしれない。理由はいくらでもつけられたが、どれもしっくりこなかった。


これは肝試しではない。祖母が二十年以上前、同じ足取りでここを登ったはずだ。そう自分に言い聞かせながら、私は濡れた岩に足を取られないよう、一歩ずつ確かめて登った。息が上がり、額の汗が目にしみた。冒険をしている感覚は、少しもなかった。ただ、誰かの跡を、遅れて辿っているという感覚だけがあった。


尾根に出たのは、正午をだいぶ過ぎた頃だった。



尾根の向こう側は、思ったより急な斜面だった。木々の間から、谷底に何かが見え隠れしている。灰色の石の塊が、規則正しい間隔で並んでいるのが、木の間越しにわかった。


慎重に斜面を下ると、それは家々の土台だった。柱も壁もとうに失われ、四角く組まれた礎石だけが、笹に埋もれるようにして残っている。数えると、九つ。旧台帳にあった常世谷の戸数と、ちょうど同じ数だった。それだけは、記録通りだ。ほんの少し、安堵に似た感情が湧いた。


石垣に沿って奥へ進むと、段々になった土地が広がっていた。かつての棚田だ。水を張っていたはずの区画は、今はススキと灌木に覆われ、緩やかな段差だけが、かつての人の手を物語っている。畦道の跡を踏みながら、私はスマホのカメラで、目についた礎石や石垣を一枚ずつ撮っていった。電波はなくても、記録だけはできる。祖母がノートにペンで残したことを、私はこうして違う形でなぞっている。


ノートのコピーを開くと、祖母の字で、簡単な見取り図が描かれたページがあった。「祠、谷の奥手」とだけ書かれた矢印が、粗末な地図の隅を指している。私はその図を頼りに、棚田の縁を回り込んだ。


祠は、思ったよりずっと小さかった。屋根はとうに落ち、石の祠本体だけが、傾いたまま苔に覆われている。だが、その位置と、背後の岩の形は、ノートの図と寸分違わなかった。祖母は確かに、私が今立っているこの場所に立っていた。


祠の裏手に回ると、小さな石が並んでいるのが見えた。墓標か、供養塔のようなものだ。彫りのはっきりしたものもあれば、ただの丸い自然石を積んだだけのものもある。倒れて土に半ば埋もれているものも交じっていた。


祖母のやり方を真似て、私は指で数えた。指先に触れた苔は、思ったより冷たく湿っていた。一つ、二つ、三つ……九つまで数え、そのあとで、苔に隠れるようにしてもう一つ、小さな石があるのに気づいた。十。


数え直した。今度は、倒れた石の下にもう一つ埋もれているのが見えて、また違う数になった。三度目に数え直すと、今度は逆に、最初に数えた一つが別の石の陰に隠れて見つからず、また数が変わった。


多いのか、少ないのか。何度数えても、同じ答えにならない。家の土台の数――九――と、目の前の墓標の数だけが、どうしても一致しなかった。


頭の中で、あの一行が鳴った。


「数えても、数えても、一人足りない」


指先で祠の土台をなぞると、風化してほとんど読み取れない筋が、石の側面に刻まれているのに気づいた。文字なのか、ただの傷なのか、正の字を書き連ねたような跡なのか、判然としない。


ノートのコピーをめくり直すと、見取り図の脇に、小さな書き込みがあるのに気づいた。本文の几帳面な字とは違う、あの――一ページ目の余白と同じ、少し震えた筆跡だった。


「土地の者曰く、ここの墓、数えるべからず――談」


麓の老女が口にしたのと、同じ忠告だった。二十年以上前、祖母もまったく同じ言葉を、まったく同じ場所で聞いていたのだ。


祖母がここでどんな顔をしていたのか、想像しようとしたが、うまくいかなかった。ただ、震えた字だけが、その場に誰かがいた証拠として残っている。


日が傾き始めているのに気づいて、私は腰を上げた。長居はしない方がいいと、老女にも念を押されている。


ノートを開き、見たままを書きつけた。


「常世谷跡、家屋礎石は九(旧台帳の戸数と一致)。祠裏手の石碑・墓標、数え方により八とも十とも取れ、判然とせず――要確認。土地の言い伝え『墓を数えるべからず』、祖母の記録にも同一の書き込みあり――談」


書き終えて、鞄を背負い直した。ふと、実家の机に置いたままの、あの古いカセットレコーダーのことを思い出す。


もし祖母が、この祠の前で本当に何かを録音していたのなら。ラベルの剥がれたあのテープのどれかに、この場所の空気ごと閉じ込められているのかもしれない。


再生する手段は、今もまだ、私にはない。けれど、帰ったら、まずあの機械をどうにかしよう。実家を出て以来、そう思ったのは初めてだった。動くかどうかもわからない古い機械のために、電気屋を探すか、直せる人を探すか。考えることが増えただけなのに、なぜか足取りは軽くなった気がした。


尾根を戻る足取りは、来たときよりも速かった。振り返ると、傾いた祠は、もう木々の陰に隠れて見えなかった。

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