第二話 消えた地名
民宿の薄い布団の中で目を覚ましたとき、窓の外はまだ乳白色の靄に沈んでいた。
布団を出て窓を開けると、山あいの冷たい空気が頬を刺した。昨日降り立った駅前商店街は、朝の光の中ではただ寂れた通りに見える。シャッターの下りた店が多く、人の姿はまだない。
夕暮れのあと、駅前で唯一灯りのついていた民宿に、飛び込みで一晩の宿を頼んだのだった。昨夜、老婦人にああして拒まれたことを、私は一晩かけて何度も思い返していた。「あんた、その名前、この辺じゃあんまり大きい声で言わない方がいいよ」――あの言葉と、レジ袋を畳む手が一瞬止まった、あの間。何かを知っていて、それを言わないと決めた人の顔。広告代理店の営業をしていた頃、契約を渋る担当者の表情で、いやというほど見た顔だった。
正面から聞いても、誰も答えてはくれない。それなら、と私は布団の中で考えた。祖母だったら、ここで意地になって食い下がったりはしなかったはずだ。ノートの一ページ目に戻ればいい。祖母のやり方は、いつだって同じだった。聞き込みで無理に押すのではなく、まず記録を当たる。証言の前に、まず紙に残ったものを。
「伝聞は伝聞のまま。事実は事実のまま」
声に出さずに呟いてみると、少しだけ、頭の中の靄が晴れた気がした。私にできるのは、派手な取材ではない。地味に、地道に、紙の山をめくることだ。
最寄りの――と言っても、一日に数本しかないバスで四十分ほど離れた――沢見市には、市立図書館があった。昨夜、民宿の主人にそれとなく尋ねて教えてもらった場所だ。「郷土資料なら、たぶんあそこの二階にあるはずだよ」とだけ言われた。それ以上のことは聞かれなかったし、私も聞かなかった。
座席の半分も埋まらないバスの中で、私は膝の上にノートのコピーを広げ、行間の余白にもう一度目を通した。窓の外を流れる田畑と、ぽつぽつと点在する集落の屋根を眺めながら、祖母もこうして、同じような景色を見ながら移動していたのだろうか、とぼんやり思った。
図書館の二階、郷土資料室は驚くほど静かだった。窓際の書架に、地域の合併史や災害記録、寺社仏閣の由緒書きの複写がびっしりと並んでいる。受付にいた年配の女性司書に、「このあたりの旧市町村の行政資料を見たいんですが」と伝えると、彼女は迷うことなく奥の書庫から段ボール箱をいくつか運んできてくれた。
目当てのものは、意外なほどあっさり見つかった。古い、謄写版刷りの台帳の複写。表紙には「郡内 字名一覧」とだけ手書きで記されている。ページをめくっていくと、その中に確かにあった。
「常世谷」
現行の住所表記からはとうに消えている三文字が、色褪せたインクで、他の集落名と並んで淡々と記載されていた。世帯数、当時の戸数らしき数字、そして「字名整理により統合」という注記。だが、統合先とされる現在の地名を手元の地図で確認しても、その一帯に「常世谷」を含んでいたはずの痕跡は見当たらない。統合というより、消去に近かった。
念のため、書庫にあった数十年前の観光地図と、備え付けの最新の住宅地図を並べて広げてみる。古い方の地図には、該当するとおぼしき谷筋の等高線とともに、小さな集落のマークがきちんと描き込まれていた。新しい地図の同じ場所には、ただ緑一色の等高線が広がっているだけだ。数十年の間に、地図の上から一つの集落だけが、まるごと塗り消されている。
私はノートを開き、祖母の字を真似るようにして書きつけた。
「旧字名台帳に『常世谷』の記載あり。統合先地名との対応、現行地図上で確認できず――要確認」
書きながら、ふと視線を感じて顔を上げた。さっきの司書が、少し離れたところから、こちらの手元をちらりと見ていた。目が合うと、彼女はすぐに視線を逸らし、書架の整理に戻った。何かおかしなことをしただろうか。もう一度台帳に目を落とすと、ふいに彼女の声がした。
「その字名、何かお調べですか」
何気ない口調を装っていたが、声の温度が、ほんの少しだけ低かった。ここでも、あの老婦人と同じ変化が起きている。
「祖母がずっと昔に調べていたみたいで。……このあたりに、郷土史に詳しい方はいらっしゃいますか」
司書は少しの間、迷うように黙っていた。それから、「郷土史の先生なら」と言いかけて、思い直したように言葉を継いだ。「――ご高齢ですけど、まだお元気だと思います。羽鳥のほうに、矢代さんという方が」
ノートのコピーには、二十年以上前の日付で、こう書かれていたページがあった。
「郷土史家・矢代氏に聞き取り。氏は当地に長く在住――談」
名前だけを頼りに、司書に教えてもらった住所を訪ねた。羽鳥まではバスの便がなく、図書館の駐輪場で借りたレンタサイクルを、慣れない坂道で何度も押して歩いた。田んぼの間の一本道を抜けると、家々の間隔がだんだんまばらになっていく。人に会うことはほとんどなかった。
ようやくたどり着いたのは、古い地区の外れ、庭木の伸び放題になった平屋だった。呼び鈴を押すと、ずいぶん待たされてから、腰の曲がった老人が戸を開けた。表札の「矢代」の文字と一致した。
「常世谷のことをお聞きしたくて」と告げた瞬間、老人の目に浮かんだのは、拒絶ではなく、むしろ困惑だった。何十年ぶりかに、忘れたはずの言葉を聞いたような顔。追い返されるかと身構えたが、私は続けて、祖母の名を口にした。
「祖母が、二十年以上前にこちらへお邪魔したと思います。皆瀬静という記者で――」
老人の表情が、初めてはっきりと動いた。
「……静さんの、孫さんかね」
それから矢代老人は、私を家の中へ招き入れた。
座敷の壁には、色褪せた白黒写真と、手描きの古い地図が何枚も画鋲で留められていた。地元の祭りの記録らしいものや、今はもうないという分校の写真――この人は長年、土地の記憶をこうして壁に貼り付けて、留めてきたのだろう。その中に、他よりひときわ古びた一枚があった。等高線を手で書き写したような、素朴な地図だった。
座敷に通されると、彼はしばらく黙って湯呑みにお茶を注いでいたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
「静さんは、熱心な人だった。あの時分、こんな古い字名のことを聞きに来る人間なんて、他にゃおらんかった」
常世谷は、確かにあった村だという。彼が子供の頃、祖父母の世代が「あの谷の連中は」と話すのを聞いた記憶があると言った。だが、ある時期を境に、村の人間がいなくなった。理由ははっきりしない。流行り病だったとも、山が崩れたとも、揉め事があったとも、土地の年寄りたちはそれぞれ違うことを言う。ただ、共通していたのは、その後の扱いだった。
「村があったこと自体を、なかったことにしよう、いう空気があった。誰が言い出したのかもわからん。字名の整理いうんも、たぶんその流れじゃ。地図から消せば、聞かれることもなくなる。そういう理屈だったんじゃろう」
矢代老人は、湯呑みの縁を指でなぞりながら続けた。
「わしが子供の頃には、もう常世谷の話をする年寄りは少なかった。それでも、うっかり口にした者がおると、その場の空気がすっと冷えるのは覚えとる。あんたも、たぶん似たようなものを見てきたんじゃなかろうか」
図星を突かれて、私は黙って頷いた。駅前の老婦人の顔と、さっきの司書が視線を逸らした一瞬が、順番に頭をよぎった。
「常世谷で、何があったんですか」
私が尋ねると、矢代老人は湯呑みを両手で包んだまま、ゆっくり首を振った。
「そこから先は、わしも知らん。誰に聞いても、そこで話は止まる。静さんも、そこで行き詰まっとった」
「祖母も、同じところで」
「ああ。あの人は諦めが悪かったから、何遍もここへ来た。せやけど、ある時からぴたりと来んようになってな。風の噂で、県外の別の土地の話を追い始めたと聞いた」
老人はそこで、少し遠い目をした。
「一つだけ、静さんが最後にここへ来たとき、妙なことを言うとったのを覚えとる」
私は思わず、身を乗り出した。
「常世谷の、昔の戸数やら家族構成やらを、あちこちの記録で突き合わせとったんじゃが……どうしても、数が合わん、言うとった」
心臓が、一つ跳ねた。
「数が、合わない?」
「うん。台帳の数と、聞き取りの数と、寺の過去帳の数と……どれを見ても、一人ずつ、足りん人間が出てくる、言うてな。静さんは、最後まで首を傾げとったよ。『数えても、数えても』言うて」
それ以上、老人はその話を広げなかった。おそらく、意味を知らないのだろう。ただ祖母が繰り返したという言葉の断片だけが、そこに置かれていた。ノートの余白にあった、あの震えた一行と、同じ響きだった。
「常世谷があった場所は、今でも行けますか」
私が尋ねると、矢代老人は、窓の外――西の山並みの方角を指さした。
「あの尾根の向こう側じゃ。道はもうろくに残っとらんが、麓まで行けば、まだ憶えとる者がおるかもしれん」
そう言ってから、老人は少し声を落とした。
「じゃが、行くなら、聞き方には気をつけなさい。あんたの婆さんも、それで何かをつかみかけとったんじゃろうと思う。……わしにはそう見えた」
矢代の家を辞したのは、日が傾きかけた頃だった。西の空に連なる山並みは、逆光の中で黒く沈んで見えた。あの稜線の向こうに、地図から消された村がある。
バッグの中からノートを取り出し、余白に書き足した。
「常世谷、旧住民の消失時期・原因は諸説あり、断定不可――談。祖母、人数の不一致を追っていた形跡あり(詳細不明)」
書きながら、自分の字が、少しだけ祖母の字に似てきている気がした。
民宿に戻ったら、明日の支度をしなければならない。矢代さんの話では、尾根越えの道はほとんど残っていないという。地元の人間でも滅多に通らない道を、地図とノートだけを頼りに歩くことになる。少し心細くはあったけれど、退屈な企画書を書いていた東京の夜よりは、よほど自分の足で立っている気がした。
「数えても、数えても、一人足りない」
頭の中で、また同じ一行が繰り返される。今はまだ、その意味はわからない。けれど、祖母が二十年前に行き詰まった場所から、私は半歩だけ先に進んだ。
尾根の向こうへ――明日、あの山を越える。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)




