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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち


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第一話 余白の一行

祖母の書斎には、線香の匂いがまだかすかに残っていた。


葬儀からひと月。私、皆瀬灯里は、誰もいなくなった実家の二階で、祖母――皆瀬静の机に向かっていた。窓の外は夕方の光で、埃の粒がゆっくり舞っているのが見える。片付けなければいけない遺品は山のようにあったけれど、私があらためて手を伸ばしたのは、本棚の奥、鍵のかかった引き出しの中にあった一冊のノートだった。存在にはもう気づいていた。ただ、それを開く踏ん切りが、今日までつかなかっただけだ。


古い、革の表紙のフィールドノート。何十年も使い込まれて、角が丸くなっている。開くと、几帳面な万年筆の字がびっしりと並んでいた。日付、地名、聞き取りをした相手のイニシャル、そして時々挟まれた新聞の切り抜き。ページの間からは、色褪せたバス乗車券や、神社の御札の切れ端まで出てきた。祖母がその土地その土地で、実際に足を運んだ証拠だけが、丁寧に貼り付けられている。


机の上には他にも、古いカセットレコーダーと、ラベルの剥がれたテープが何本か置かれていた。今の私には、それを再生する手段すらない。


祖母は長く地方紙の記者をしていた人だった。定年後は、個人で全国を回り、各地に伝わる不可解な話――都市伝説、と今なら呼ぶのだろう――を取材して歩いていたらしい。生前、詳しいことを聞いたことは一度もなかった。忙しかった。私も、祖母も。


祖母の死は、あっけなかった。取材先から戻る途中、駅のベンチで眠るように倒れていたのを、通りがかりの人が見つけたのだと聞いた。持病があったわけでもない。医者は「急な心臓の発作でしょう」とだけ言った。葬儀は驚くほど静かで、参列者は少なく、祖母がどれだけ多くの土地を歩き、どれだけ多くの人に話を聞いてきたのか、その場にいた誰も知らないようだった。知っていたのは、このノートだけだった。




東京での仕事は、広告代理店の企画営業だった。三年目。悪くない会社だし、悪くない給料だった。ただ、朝の満員電車で他人の肘を押し返しながら、今日も誰かの「思い出に残る体験」とやらを企画書に落とし込む自分に、ある日ふっと現実感がなくなった。


その日も私は、深夜のオフィスで「地方創生」を謳う観光キャンペーンの企画書に、行ったこともない土地の「魅力」を並べ立てていた。検索した写真と、テンプレート化されたコピーを組み合わせるだけの作業。誰も現地に足を運ばず、誰も現地の人に話を聞かないまま、それは「企画」として承認され、世に出ていく。祖母がやっていたことの、ちょうど正反対だ。


祖母の訃報が届いたのは、ちょうどそのタイミングだった。


退職の手続きは、拍子抜けするくらい早く済んだ。引き止められもしなかった。荷物をまとめて実家に戻り、遺産分割の話し合いに出た日、顧問弁護士から告げられたのは意外な条項だった。


「静さんのご遺志で、こちらの口座は――使途を『取材活動』に限定する、という指定がついています」


祖母が個人で貯めていた、それなりの額の資産。使い道はひとつだけ。彼女の「仕事の続き」をすること。他の遺産と違って、これにはそう書いてあった。


「もし一年以内に活動実績の申請がなければ、この口座は指定の団体に寄付されます」と弁護士は付け加えた。祖母らしい、と思った。中途半端に甘やかしはしないくせに、扉だけはきちんと開けて残しておく。そういう人だった。


普通なら、変わった相続条件だと笑い話にするところだ。けれど私は、あのノートを思い出した。そして次の日、私はもう一度、祖母の書斎の机の前に――ずっと気になっていた、あの引き出しの前に、座っていた。


ノートの一番最初のページには、青いインクでこう書かれていた。


「青森県・某郡 伝承地『常世谷』。地図に記載なし。現地聞き取り予定。――未解決(保留)」


日付は今から二十年以上前。祖母がこのノートをつけ始めてまだ間もない頃の、一番古い記録だった。ページの続きには、地元の郷土史家に話を聞いたらしいメモ、神社の由緒の写し、住民への聞き取りの断片が律儀に並んでいる。


「戦後しばらくまでは確かにあった、という証言――談」「役場の旧台帳に記載はあるが、現行の地図には反映されていない――要確認」「かつての住人を名乗る者に会えず。存在自体を『覚えていない』と話す近隣住民複数――談、真偽不明」


そんな一行一行が、崩れのない字で淡々と積み上げられている。祖母は一度も「本当にあった」とも「なかった」とも書いていない。ただ、証言と証言の食い違いだけを、丁寧に並べていた。だが最後まで、答えらしい答えは書かれていない。「未解決(保留)」の文字だけが、ずっと宙に浮いたままだった。


祖母は几帳面な人だった。ノートのそこかしこに、小さなルールが見える。噂として聞いた話には必ず「――談」と付ける。裏が取れていない情報には「?」を添える。断定は絶対にしない。ページの隅に、小さな字でこう書き付けてあるのを見つけたときは、思わず声が出た。


「伝聞は伝聞のまま。事実は事実のまま。混ぜたら、それは取材じゃない」


そういう人だったのだ、祖母は。


そのページの余白、本文とは明らかに違う筆跡――もっと後年の、少し震えた字で、一行だけ書き加えられていた。インクの色も違う。おそらく何年も経ってから、別の日に、思い出したように書き足したものだ。


「数えても、数えても、一人足りない」


意味はわからない。誰を数えたのか、何が足りないのか、説明は一切ない。ただその一行だけが、実直な取材メモの海の中で、そこだけ体温が違うみたいに浮いていた。


背筋のあたりが、少し冷たくなった。




三日後、私は新幹線に乗っていた。


東京駅で買った缶コーヒーはとっくに冷めていて、窓の外の景色は、ビル群から灰色の田畑へ、それから白く霞んだ山並みへと変わっていく。新幹線を降りて、在来線に乗り換え、さらにローカル線に乗り継ぐ。車両はどんどん小さく、古くなっていった。


膝の上には、祖母のノートのコピー。原本は持ち出す勇気がなくて、必要なページだけスキャンして持ってきた。窓に反射する自分の顔が、東京にいた頃より少しやつれて見える。それでも、電車に揺られているこの時間だけは、不思議と息がしやすかった。


ローカル線は一両編成で、乗客は私を入れて三人だけだった。車内アナウンスの声はどこか眠たげで、駅名を読み上げるたびに、聞いたことのない土地の名前が増えていく。スマホの電波は、いつの間にか一本しか立たなくなっていた。地図アプリを開いても、現在地の周りには緑色の等高線と、ぽつぽつとした集落の記号があるだけで、これといった目印がない。


祖母が最初に「未解決」のまま置いてきた場所。そこへ、二十年以上の時を挟んで、孫の私が向かっている。ノートに書かれた住所も地図も古い。今の地図アプリで検索しても、「常世谷」という地名はどこにもヒットしなかった。それも含めて、確かめに行くしかない。




日が傾きかけた頃、ようやく最寄りとおぼしき小さな駅に降り立った。改札はなく、駅舎はプレハブに毛が生えたような造りで、待合室に人の姿はない。


駅前で唯一開いていた個人商店で、私は店番をしていた老婦人に、祖母のノートに書かれた通りの地名を尋ねた。


「すみません、この辺りに『常世谷』っていう集落、ありますか」


老婦人の手が、レジ袋を畳む途中で止まった。


一瞬だけ、本当に一瞬だけ、表情から愛想が消えた。それから、何事もなかったかのように袋を畳み直しながら、目を合わせずにこう言った。


「――さあ。聞いたことないねえ」


嘘だ、と直感的に思った。広告の仕事で数えきれないほどの人と話してきた。相手の言葉の温度が変わる瞬間には、嫌でも敏感になる。老婦人は今、明らかに何かを知っていて、それを言わないことに決めた顔をしていた。


「古い地図には載っているみたいなんですけど」


食い下がると、老婦人はようやく私の目を見た。困ったような、それでいてどこか気の毒がるような目だった。


「あんた、その名前、この辺じゃあんまり大きい声で言わない方がいいよ」


それだけ言うと、老婦人は奥の暖簾の向こうに引っ込んでしまった。それ以上、何を尋ねても、返事はなかった。


夕暮れの商店街には、私と、開けっぱなしの引き戸から漏れる灯りだけが残された。


ノートのコピーをバッグにしまいながら、私は思う。祖母が二十年以上前に感じたのも、きっとこれと同じ、うまく言葉にできない引っかかりだったのではないか。


「数えても、数えても、一人足りない」


意味のわからない一行が、頭の中で静かに繰り返されていた。

このたび、新しい連載を始めることにしました。

『祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました』というタイトルの、ミステリー寄りのホラーです。


これまで書いてきた「錬金術師」とはまったく別ジャンルの、静かめのお話になります。派手な能力バトルはありません。地方紙の記者だった祖母が遺した一冊の古い取材ノートを頼りに、主人公が日本各地の「消えない噂」を訪ね歩く――そんな一人旅の物語です。


第1話は、主人公が祖母の書斎でそのノートを開くところから始まります。最初の行き先で降り立った小さな町。地図に載っていない、ある土地の名前を口にした瞬間から、歯車が少しずつ狂いはじめます。……という感じで、今回はまだ入口。次回から少しずつ、その土地の奥へ入っていく予定です。


もともと私は、都市伝説そのものが好きで、「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)という読み物サイトも運営しています。本作に出てくる伝承は、実在の場所や事件を1対1でなぞったものではなく、あちこちに伝わる「型」だけをお借りして、地名も人名もすべて架空にしています。あくまでフィクションとしてお楽しみいただければ幸いです。(モチーフになった噂の詳しい考察は、そのうち「都市伝説ラボ」のほうでも触れられたらと思っています)


更新はマイペースになりますが、「錬金術師」ともども、どうぞよろしくお願いします。

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