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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
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第四十八話 二月六日

三月に入って、八日目の朝だった。この家に戻って、三十六日目になる。


空は、一面に薄く曇っていた。雨の来そうな曇り方ではなかった。日の出たあとの白さが、雲の裏で、平らに広がっているだけだった。風は少しあって、庭木の枝先を、ときどき揺らしていた。


今日は、収集の日だった。三月に入って、二度目になる。


湯が沸くのを待つあいだに、居間で、手帳の後ろの頁を開いた。一行目に「来月、集積所の掃除当番」がある。その下に、する順の一行と、水の一行。それから、聞かれたときの一行と、言う順の一行が続いて、いちばん下に、先週の続きの一行があった。


「三月のうちに、来月の板へ、自分の字で一行出すかどうかを決める」


月の終わりまでは、まだ三週間あった。急ぐ理由は、どこにもなかった。急がない理由も、同じくらい、見つからなかった。


水の一行を、もう一度読んだ。汚れたときだけ。汚れているかどうかは、行ってみなければ分からない。行ってから汲みに戻るのでは、二度手間になる。台所で、バケツに半分ほど水を汲んだ。使わなければ、持って帰って、庭に撒けばいい。


窓の外を、収集車の音が通っていった。止まって、また動いて、遠ざかった。音が角の向こうへ消えるのを待って、上着を着た。




角を一つ曲がると、集積所がある。


袋は、もう一つも残っていなかった。青いネットが、空になった囲いの中で、地面に広がったままになっていた。誰かがたたむのを、待っている形だった。今月は、それが私だった。


箒とちりとりは、先週と同じく、囲いの内側の柵に寄りかかっていた。箒の先は、片側だけが斜めに擦り減っている。右から左へ、同じ向きに掃いてきた手が、何年ぶんもあったらしかった。持ってみると、手のほうが、その減り方に合わせて傾いた。


奥から手前へ、掃いた。袋の口から落ちたらしい紙くずと、乾いた葉が少しと、どこから来たのか分からない輪ゴムが一つ。手前に寄せて、ちりとりで取り、囲いの隅の袋に入れた。袋の口は、軽く結んだ。先週、自分で結んだ袋は、収集車が持っていったらしく、もう無かった。


奥の隅に、一か所だけ、地面の色が濃くなっているところがあった。袋から何かが滲んだ跡だった。匂いが、少し残っていた。汚れたとき、というのは、こういうことなのだろうと思った。その一か所にだけ、バケツの水を流した。水は、地面の傾きに沿って、片側へ寄っていった。先月、乾きかけの縁で見た向きと、同じだった。


最後に、ネットをたたんだ。角を合わせてから、内へ折り込む。先月、金具に掛かっていたのを見たとおりの順にした。折り目は、もとからついている線に、そのまま落ちた。金具の、塗りの剥げたところに掛けると、ネットの重みが、ちょうどそこに当たった。


自転車を押す音が、通りの向こうから近づいてきた。先月、ここで会った男性だった。袋を一つ、ハンドルに提げていた。囲いの前で止まって、中を見渡した。


「もう、済みましたか」


「済みました」


口から出てから、その言い方に、自分で気がついた。先月は、済んだようです、と答えた。収集車を見ていなかったので、そうとしか言えなかった。今日は、ようです、を付けなかった。付ける理由が、なかった。済ませたのは、私だった。


男性は、たたんだネットに目をやって、それから、私のほうを見た。


「ああ。今月は、皆瀬さんでしたか」


当番の表を、見ている人の言い方だった。私は、名乗っていなかった。


「はい。皆瀬です」


それでも、名乗った。知られたあとで名乗るのは、もう、この辺りでは、いつもの順だった。


「じゃあ、これは、また来週だ」


男性は、提げた袋を、軽く揺すった。それから、自転車の向きを変えて、来た道を戻っていった。先月と、同じ帰り方だった。違ったのは、向こうが私の名を言って帰ったことと、私が、それに答えたことだけだった。


バケツを提げて、家へ戻った。半分ほど残った水を、庭の隅に撒いた。




居間の机に、手帳と、買い置きの便箋を出した。


便箋は、罫の細い、白いものだった。板に挟むなら、これでいいはずだった。いきなり清書はせず、一枚目を下書きに使うことにした。


思いつくままに書くと、こうなった。


「二月の六日目の夜、七時二十分から四十分ほど、あの家の前に立っていました。そのあいだ、二階の窓に灯りは見えませんでした。ほかの夜は、行っていません。昼は前を通りますが、窓は見ていません」


書いてから、読んだ。長かった。枝の前で話したことを、そのまま字にしただけだった。先週の白い紙も、三つの行に分けてあって、どの行も、一息で読める長さだった。


それに、六日目、では通じない。


枝の前で、八百屋の店主が首をかしげたのを思い出した。六日目、というのは、この家に戻った日を起点にした、私の暦だった。板の上の紙は、先月十八日、と書いていた。この辺りの紙は、誰が読んでも同じ日を指す暦で書かれている。


戻ってきたのは、二月一日だった。その日を一日目として、たどった。六日目は、二月六日になる。


あの晩を、日付で呼んだのは、これがはじめてだった。手帳の表の頁では、ずっと、六日目のまま書いてきた。同じ晩のはずなのに、二月六日と書くと、どこか、私の手を離れたところにある日のように見えた。


下書きの行の下に、短くしたものを書き直していった。上の行には、線を引かなかった。


最初に、七時二十分を外した。次に、昼のことを外した。窓を見ていない、というのは本当のことだったが、板の上で、誰もそれを尋ねていない。それから、灯りのことで、手が止まった。


灯りが見えなかった、と書けば、読んだ人の頭には、灯りの話が戻ってくる。板に載った一行は、灯りの話を、出入りの話に変えていた。その上に、灯りの話をもう一度重ねるのは、直すことにはならない気がした。


四十分も、同じだった。枝の前で、いちばんよく持ち帰られたのが、四十分だった。四十分を書けば、また、四十分だけが残る。


削っているうちに、自分のしていることに気がついた。


角の家の老人は、口で伝える段で、一度、短くしたと言った。一行に入るようにしたのは向こうだろう、とも言った。今、同じことを、私がしている。何を残して、何を落とすかを、私の手が決めている。


違うところが、一つだけあった。落としたものが、何なのかを、私は知っている。


残すことにしたのは、板の一行が覆ってしまったものの、端のほうだった。夜に見ていたのは、一晩だけだったこと。ほかの夜のことは、分からないこと。それだけ書いておけば、ようです、で広げられた分を、もとの幅に戻せる。四十分も、灯りも、七時二十分も、この行には入らない。入らなかった分は、私が持っておけばいい。


便箋に、清書した。


「夜に見ていたのは、二月六日の一晩だけです。ほかの夜のことは、分かりません」


一行に、収まった。


その下に、名前を書くかどうかで、ペンが止まった。


書かなくても、と老人は言った。字で分かる人には分かる、と。けれども、私の字を知っている人は、この辺りに、まだいない。書かなければ、この一行は、近くにお住まいの方の、もう一つの話になるだけだった。誰が言ったのか分からない一行の上に、誰が書いたのか分からない一行を重ねることになる。


それでは、手帳の表の頁に、――談を付けずに書くのと、同じだった。


「皆瀬」


行の終わりに、そう書いた。


一覧に刷られた皆瀬と、当番の表に隣の人が書き入れた皆瀬と、私が押した判の皆瀬があった。同じ二文字が、これで、四通りになった。手で書いた字は、隣の人のと、今書いたものだけだった。


清書の一枚を、二つに折った。下書きの一枚は、手帳の裏表紙の内側に挟んだ。




昼を過ぎてから、角の家へ行った。


朝の曇りは、昼になっても、そのままだった。風だけが、少し冷たくなっていた。門の内から声をかけると、先週と同じ足音が、廊下を近づいてきた。


戸が開いた。老人が、空を見上げようとする前に、私のほうが先に言った。


「風が、冷たくなってきましたね」


老人は、空へ向けかけた目を、私のほうへ戻した。少しのあいだ、何も言わなかった。


「そうですな」それから、言った。「三月は、まだ、こういう日があります」


用件は、そのあとにした。便箋を、両手で差し出した。


「来月の板に、これを、お願いできますか」


老人は、その場で便箋を開いた。胸のポケットから眼鏡を出して掛け、一行を、ゆっくり読んだ。読み終えても、すぐには顔を上げなかった。


「二月六日、と書かれましたか」


「この辺りの紙は、そう書くようでしたので」


「六日目、では、通りませんからな」老人は、便箋を元のとおりに折った。「確かに、お預かりします。四月の板に挟むよう、向こうへ回します。お名前も、ございますな」


「はい」


「入らなかった分は」


「私が、持っています」


老人は、小さく頷いた。先週、自分が言ったのと同じ言い方だということには、触れなかった。


「今朝は、済ませておられましたな」老人が言った。「前を通りましたら、ネットが、いつものたたみ方でした」


「先月、掛かっているのを見て、そのとおりにしました」


「私も、見て覚えました」老人は、眼鏡を外した。「誰かに教わった覚えは、ございません」


それだけ言って、老人は戸口で一度会釈をした。私も、頭を下げた。框に座布団は、今日は出されなかった。言われなくても、それで足りる用件だった。




家に戻って、今度は、手帳を表のほうから開いた。「家から、十二分。」の頁に、続けて書いた。


「三十六日目、角の家の男性に、四月の回覧板へ挟む紙一枚を預ける。文面『夜に見ていたのは、二月六日の一晩だけです。ほかの夜のことは、分かりません』(自筆・署名『皆瀬』)」


その下に、もう一行足した。


「右の文面に入れなかったもの。時刻、四十分、灯り、昼に窓を見ていない件。いずれも、この手帳の既出の行にあり。下書き一枚を裏表紙に挟む」


――談は、付けなかった。人から聞いた言葉ではない。当方談とも、違った。当方談は、口から出した言葉にかけてきた印だった。今日のは、字のまま、手を離れていった言葉だった。板の上で、読んだ人がどう受け取るかは、もう、私の決めることではない。決められたのは、どこまで書くかだけだった。


手帳を、ひっくり返した。


いちばん下の一行が、済んでいた。


「三月のうちに、来月の板へ、自分の字で一行出すかどうかを決める」


先月から、決めずにきたことが一つあった。済んだ用事の行を、線で消すのか、残しておくのか。毎週のことは消しようがない、と思ったところで、止まっていた。先週も、消さずに下へ足していた。決めてそうしたのでは、なかった。決めるのは来月でいい、と思ったのが、二月の半ばだった。その来月に、もう入っている。


今日、決めた。消さない。


足すことはできるが、引くことはできない。板の決まりは、そうだった。この頁も、同じ決まりにしておく。済んだかどうかは、表の頁を見れば分かる。この頁に残るのは、いつ、何をすると決めたか、のほうだった。決めたことの跡は、済んでからも、跡として残しておけばいい。


先月、一覧の皆瀬の欄が消されずに残っていたことを、思い出した。消さなかったのが、誰かの判断だったのか、ただ機会がなかっただけなのか、私には分からなかった。分からないまま、順番が来た。


この頁の行が消されずに残っているのは、判断のほうだ。今日からは、そう言える。


一行目の当番の行も、月の終わりまでは今月の行で、月が替われば、済んだ行になる。それも、そのまま残る。


印は、付けなかった。


机の端に、判と朱肉があった。先月、二階の書斎から下ろしてきたまま、ずっと居間に置いてあった。二階の引き出しへ戻そうとして、手を止めた。


来月の一覧も、ここで押すことになる。


居間の机の、浅いほうの引き出しを開けて、判と朱肉を並べて入れた。引き出しは、軽い音を立てて閉まった。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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