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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
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第四十七話 近くの方

三月に入って、二日目の朝だった。この家に戻って、三十日目になる。


枝は、あの日のうちに片がついていた。塀の外の道端に寄せた分は、それから十日以上、同じ場所に並んだままだった。松葉は茶色く縮れ、切り口の脂は固まって、白く粉をふいている。誰も運んでいなかった。通りがかりに見るたび、そこだけ、あの朝で止まっているように見えた。


夜には、六日目のあの晩のあと、一度も行っていない。


空は薄く晴れていて、風がなかった。三月の最初の、晴れた朝らしかった。朝食の皿を洗っていると、門の脇で郵便受けの蓋が、乾いた音を立てた。


雨ではなかったので、ビニールの袋はかかっていなかった。紐と金具で留めた厚紙の板は、前に見たときと同じ、角の丸い板だった。居間の机の上で、紙を一枚ずつ繰った。


一覧は、月が替わって、新しい紙になっていた。皆瀬の欄は、今月も、印刷のまま残っている。空いているのではなく、まだ押していないだけだった。先に回った家の朱が、ほかの欄に並んでいる。


当番の表には、三月の欄に「皆瀬」とあった。隣の人の字だった。四月の欄に入っているのは、知らない名前だった。ごみの出し方の案内は、端のかすれ具合まで、前と変わらなかった。


昨日は、三月の最初の収集の日だった。袋が運ばれていったあと、集積所を、奥から手前へ掃いた。当番は、昨日から始まっていた。誰にも、何も言われなかった。


火の元の注意は、端が少し丸まっていた。四枚の下に、もう一枚あった。


下の三枚は、どれも、何年も使われてきた紙の色をしていた。これだけが白かった。紙の端もまだ硬く、折り目がついていない。手書きだった。黒のボールペンで、定規は使わずに、一行ずつ、まっすぐ書いてある。


「お知らせ」


見出しは、それだけだった。その下に、三つに分けて書いてあった。


「先月十八日の朝、雪の重みで、松の枝が一本折れ、道に落ちました。道に出ていた分は片づけて、塀の外の端に寄せてあります」


「持ち主の方、またはご連絡先をご存じの方は、お知らせください」


「なお、近くにお住まいの方のお話では、夜に人の出入りはないようです」


一度、読んだ。それから、三行目だけを、もう一度読んだ。


お知らせください、の先は、書いていない。誰に、どこへ、という宛先がなかった。板に載せる紙には、それで足りるのかもしれなかった。知っている人は、板を回す誰かに言えばいい。この辺りでは、そういう紙なのだろう。


二行目の、持ち主のことは、あの朝、枝の前で出た話そのままだった。載っていて当然の行だった。引っかかったのは、三行目のほうだった。


私が言ったのは、六日目の夜に、四十分、灯りが見えなかった、ということだった。隣の人の口では、そのあいだ何もなかった、になった。この紙では、夜に人の出入りはない、になっている。灯りの話が、出入りの話に変わっていた。しかも、ようです、の一語で、ほかの夜まで覆っている。


私の名前は、どこにもなかった。近くにお住まいの方。住んでいるのは確かだった。近い、というのがどのくらいのことなのかは、あちらの決めることらしかった。


字を見た。見出しの「お知らせ」は、はねの先が、右へ流れている。当番の表の、月ごとに替わる名前の字と、一つずつ見比べた。隣の人の字とも、知らない名前の字とも、似ていなかった。どれとも違う、ということしか、字からは分からなかった。


板を、隣へ回す前に、手帳を開いた。表の頁の、「家から、十二分。」の続きに、今日の分を書いた。回してしまえば、この紙は、もう手もとに残らない。


「三十日目朝、回覧板に、手書きの紙一枚(白紙・黒ボールペン・出所の記載なし)。末尾に『近くにお住まいの方のお話では、夜に人の出入りはないようです』との記載。当方の発言との対応は未確認」


人の言葉ではなかった。紙の上に、そう書いてあった、というだけの行だ。だから、談は付けられない。言った人も、言った日も、この紙には書かれていなかった。書かれていないものを、手帳に写すときは、書かれていない、ということまで一緒に写すしかなかった。


二階から下ろしたままの朱肉の蓋を開けて、判を取り出した。皆瀬の欄に、押した。先月より、少しだけ濃く出た。読みました、という印だった。紙の中身に、同意したことにはならない。そう思っていた。今日は、同じ印が、少し重かった。


紐を結び直して、板を持って家を出た。隣の女性は、玄関先で、洗濯物の籠を提げていた。


「あら、もう。ありがとうございます」


両手で受け取った女性は、一番上の一覧に目を落とした。紙を繰る指が、白い紙のところで、一度だけ止まった。止まっただけで、何も言わなかった。私も、何も言わなかった。


門に戻る道の途中で、足が、家のほうではなく、角のほうへ向いた。




角の家の門は、低かった。表札が、前に見たときと同じ高さにあった。呼び鈴は、前に探して見つからなかった。門の内から、玄関のほうへ声をかけた。奥で、廊下を歩く足音がした。ゆっくりだったが、乱れてはいなかった。


戸を開けた老人は、私の顔を見て、まず、空のほうへ目をやった。


「今朝は、よく晴れましたな」


「はい」


「晴れておりますが、まだ冷えます。三月の頭は、こういうものでして。午後は曇るそうですから、洗濯物は、早いうちに」


天気から入るのは、四度目だった。今日の用件は、私のほうにある。それでも、話は天気のあとに来るものだと、もう、そのつもりで待てるようになっていた。


「板を、見ました」


「そうでしょうな」老人は、戸を大きく開けた。「お上がりなさい、というほどの家でもありませんが、框に座布団を出しますので」


玄関の土間は、広かった。傘立てと、古い下駄箱があって、その上に、乾いた花の枝が、細い壺に一本挿してある。上がり框に出された座布団は、薄く、洗いざらしの色をしていた。老人は、少し離れた椅子に腰を下ろした。


言う順は、決めてあった。あの雪の日に、手帳の裏へ足した行だ。


「先に、夜のことを申し上げます。六日目より後の夜は、一度も、あの家へ行っていません。行ったのは、六日目の一晩だけです。その晩、七時二十分から四十分ほど、二階の窓に灯りが見えませんでした」


言い終えて、順は守れた、と思った。夜のほうが先だった。四十分は、あとに付いた。


老人は、膝の上で指を組んだまま、聞いていた。聞き終えてから、しばらく、土間の壺の枝を見ていた。


「承りました。先月も、枝の前で、同じ順で伺った気がしますが」


「先月は、四十分が先でした」


「ああ。そうでしたか」老人は、頷いた。「順が替わると、聞こえ方も替わりますな。夜は、その一晩きり。そのうちの四十分。確かに、こちらのほうが、座りがいい」


それだけだった。順を替えたことに、何かを言うでもなかった。私は、板の三行目のことを、口にした。


「あの紙の、近くにお住まいの方、というのは」


「さあ」老人は、首を傾げた。「私の近くにも、隣の方の近くにも、お住まいの方は、おりますな」


答えになっていなかった。答えないための言い方でも、なかった。ただ、そこを確かめても、何も出てこないと、知っている人の口ぶりだった。


「夜に人の出入りはない、とあります。私は、そこまでは言っていません」


「存じております」


老人は、組んでいた指をほどいた。


「あの朝、枝の前で伺ったあと、私は、向こうへお伝えしました。近くの者の話として、夜は六日目の一度きり、そのとき灯りが見えなかった、と。そこまでです。出入りという言葉は、私は使っておりません」


「では、板の一行は」


「載ったのは、ご覧のとおりです。一行に入るようにしたのは、向こうでしょう。それと、私も、一度、短くしています。口で伝える段で、入りそうな長さにしてから、出しましたので」


責める調子は、なかった。詫びる調子も、なかった。自分の手がやったことを、手がやったとおりに言っただけだった。


「入らなかった分は、私が持っております。お尋ねがあれば、そこから出します。ただ、板に載るのは、一行ですな」


短くなった、と言いかけて、やめた。


「あの紙は、直せますか」


「来月の板までは、あのままです」老人は、すぐに答えた。「回っているあいだは、元の字には、誰も手を入れません。入れる人が、いないというより、入れる決まりがありません」


「決まりが」


「直すとすれば、足すことになります。別の紙を、板に一枚挟む。あるいは、余白に、鉛筆で書き込む。そういう方は、おりますよ」


指で、空中に、小さく線を引く真似をした。


「足すことはできます。引くことはできません。そういう板ですな」


聞きながら、手帳のことを考えた。書いた行は消さず、下に重ねていく。同じやり方だった。それが、ここでは、板の決まりだった。


「足せるのは、誰でしょうか」


「回す者なら、誰でも。もっとも、挟んだものを、次の家が読むかどうかは、別の話です」


老人は、少しだけ、口もとを動かした。笑ったのかどうかは、分からなかった。


「何もなさらない、という道もあります。そちらが、いちばん多いですが」


「書くとしたら」


「お名前を書いても、書かなくても。書かなくても、字で分かる方には分かります」老人は、私の手もとに目を落とした。「あなたの字は、まだ、この辺りの誰も、見ておりません。判のほかは」


言われてみれば、そのとおりだった。当番の表にも、一覧にも、私の字は、一字もなかった。


今日、決めることではなかった。老人も、そこを急かさなかった。


「月の終わりまでに、お持ちくだされば、向こうへ回します。持ってこられなくても、それは、それで」


「分かりました」


座布団から立つと、膝が、すこし鳴った。框に座っていたのは、十分ほどのはずだった。老人は、戸口まで見送りに出て、もう一度、空を見上げた。


「雲が出てきましたな。洗濯物は、お早めに」


その通りだった。さっきまで薄く晴れていた空の端に、灰色の筋が、ひとつ、伸びていた。




家に戻って、洗濯物を取り込んだ。シーツの端が、まだ少し冷たかった。畳み終えたころには、庭の土の色が、雲の下で、くすんでいた。


居間の机に着いて、手帳を開いた。朝に書いた一行の、すぐ下に、続きを書いた。


「同日、角の家の男性宅にて、夜は六日目の一晩のみ、以降は行っていない旨を、四十分より先に述べる――当方談。本日時点」


四度目の当方談だった。前と同じく、聞かれる前に出した言葉にかかっている。ただ今度は、出す先へ、自分で足を運んだ。聞いたのは、一人だった。


「同日、同男性より、回覧板の一行は、男性が先方へ伝えた内容を、先方が一行に収めたものとの由――談。男性自身も、口で伝える段で一度短くした、とも。収めきれなかった分は、男性が持つ、とも」


「同日、同男性より『足すことはできます。引くことはできません』の由――談。直す場合は、別紙を挟むか、余白に書き込む、との説明」


「同日、同男性より『あなたの字は、まだ、この辺りの誰も、見ておりません。判のほかは』の由――談」


書き写すと、最後の一行だけが、他の行より、浮いて見えた。言われたことには違いなかった。それでも、事実のほうに、置いてよい行かどうか、すこし迷った。迷って、残した。残さない理由が、見つからなかった。


読み返した。分かったことは、増えていた。紙に、誰かが手を入れていること。入れたのは、一人ではないこと。老人は、そのうちの一人として、自分の手を隠さなかった。向こう、と呼ばれる側は、今日も名前を出さなかった。


近くにお住まいの方、は、私のことだ、と読むのが、いちばん自然だった。ほかの人は、夜のことを、誰も言っていない。私のことだと、決めたのは、私ではなかった。板の上の私は、もう、そこに置かれていた。置かれた場所に、立っているか、いないか。それを動かせる手段が、一つだけ、教えられた。


手帳を裏返して、後ろの頁を開いた。


いちばん上の「来月、集積所の掃除当番」は、昨日から、今月の行になっていた。月の終わりまで続く行なので、そのままにした。


「次は、行っていない夜のことを、四十分より先に言う」


済んだ行だった。済んだ用事なら、線で消せる。消さず、その下に一行足した。


「三月のうちに、来月の板へ、自分の字で一行出すかどうかを決める」


印は、付けなかった。


ペンを置いた。窓の外に、雲が低く下りていた。机の端で、朝に開けたままの朱肉の蓋が、そのままになっていた。指でつまんで、閉めた。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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