第四十六話 落ちた枝
十八日目の朝は、音で始まった。
屋根のどこかで、重いものが滑り、庭のほうへ落ちた。どさり、と鈍い音がした。雨の音とも、風の音とも違った。間を置いて、もう一度した。
カーテンを開けると、庭が白かった。霜の白さではなかった。木の枝にも、塀の上にも、厚みのある雪が載っている。粉のように軽い雪ではなく、水を含んで、ずっしりと固まった雪だった。まだ降っていた。大きなかたまりのまま、ゆっくり落ちてくるのが、ガラス越しに見えた。この家に戻って、十八日目になる。
降りはじめたのは、私が眠ったあとだったらしい。庭木の枝は、雪の重みで垂れ下がっている。晴れも、曇りも、風も、雨も、霜も、もう見た。雪は、はじめてだった。
台所で湯を沸かしながら、門の前のことを考えた。この辺りの家は、朝のうちに、家の前の雪をどけるのだろう。当番も、判も、順は家のほうに付いていた。家の前の雪だけが、そこから外れているとは思えなかった。誰も教えてはくれない。見て分かる人は、もう外に出ているはずだった。
厚手のコートを着て、外へ出た。積もった雪は、足首の少し上まで届いていた。靴の下で、水気を含んだ雪が、じわりと沈む。玄関脇に立てかけてあった竹箒を持ち出したが、湿った雪は、箒では掃けなかった。たたきにあった金属のちりとりを雪かき代わりにして、門から道までの幅を、人ひとり通れるだけ削った。重い。十回もしないうちに、腕が張った。
隣の門のほうからも、同じ音が聞こえていた。雪を削る、がり、がり、という音だった。隣の女性が、柄の短いスコップで、門の前を切っていた。昨日の朝、霜よけの布を外していた人だった。昨日のことは、お互いに、口にしなかった。顔を上げた女性と、目が合った。会釈をすると、女性はスコップを雪に立て、門の外へ出てきた。
「おはようございます。重い雪ね」
「腕に来ますね」
「水っぽいのよ。昼には崩れるでしょうけど、その前に、枝にこたえるから」
枝、と言ったとき、女性の目が、一度だけ、道の先へ動いた。
「さっき、角の家の方が見えてね。松の枝が折れたんですって」
どこの松か、とは言わなかった。この辺りで松と言えば、角を二つ曲がった先の、あの一本だった。
「塀の外の、道のほうへ落ちているそうなの。通れないほどではないけれど、あのままにはしておけないでしょう。それで、何人か集まっているのよ。皆瀬さん、お手が空いていたら、一緒にいかが。人手がいるから」
誘われたのだった。見たかどうかを尋ねられたのではない。手を貸してほしい、という話だった。それなら、断る理由は見つからなかった。窓を見に行くのではない。道の上の枝を片づけに行く。そう分けて考えた。分けておかないと、足が前に出なかった。
女性がスコップを玄関先に立てかけるのを待って、二人で歩き出した。
角を二つ曲がると、道の先に、人の背中が見えた。
松の枝は、塀の外へ張り出していた側の、いちばん太い一本だった。折れ口から先が、雪をかぶったまま、道の半分を斜めに塞いでいる。長さは、大人の背丈よりずっとあった。腕ほどの太さの折れ口は、裂けて、中の白い木肌が、ささくれた形で覗いていた。切ったのではなく、割れたのだと、見れば分かった。
松葉の一本ごとに、雪が丸くついている。落ちたときに散った松葉が、道の雪の上に、緑の針を撒いたように散っていた。松脂の匂いがした。冷えきった空気のなかで、そこだけ、甘くて重い匂いが立っていた。塀の上には、まだ雪が残っていた。塀の向こうには、屋根があるはずだった。私の目は、折れ口と、道の上の枝にしか向かなかった。上は、見なかった。
先に来ていたのは、三人だった。角の家の老人は、竹箒を持ったまま、枝の脇に立っている。ショールの女性は、帽子をかぶっていた。もう一人は、八百屋の店主だった。前掛けをしたまま、柄の長い鋸を提げて、店を開ける前に寄った、という格好をしていた。
老人が、私に「朝から、すみませんね」と言った。私は、頭を下げた。隣の女性は、そのままショールの女性のほうへ寄っていった。
「切って、端へ寄せるだけなら、すぐなんですがね」
八百屋の店主が、鋸の刃を、雪で一度拭った。
「人の家の木ですから。勝手に切っていいものかどうか」
「道に出ている分は、道の話ですよ」老人が言った。「ただ、お宅に一言もなく、というのは、気持ちのいいものではないでしょう」
「そのお宅が、ね」ショールの女性が、言いかけてやめた。続きを言える人が、この場にいなかった。
「どなたか、連絡先をご存じの方は」隣の女性が尋ねた。三人とも、首を振った。
老人が、低い声で言った。「お知らせしようにも、先を存じません。ここに長くおりますが、今の持ち主の方がどなたなのか、聞いたことがありませんな」
ショールの女性の目が、折れ口から、枝の元のほうへ、さらにその上へ動いた。私は、その視線を追わなかった。
「でも、灯りがつくことはあるんでしょう」ショールの女性が言った。「誰かが出入りしているのなら、その方に言えば」
「それなんだけど」隣の女性が、静かに遮った。「皆瀬さんは、見ていないそうですよ」
昨日、あの人の口の中で整えられていた一行が、人の前に出た。枝の前に出ていた。出入りしている人がいるのかどうか。その問いの根拠に、見ていない、が置かれていた。悪意ではない。置き場所として、手近だっただけだ。
聞かれたのではなかった。それでも、私の答えがここで使われるのなら、使われる前に、長いほうを言っておくべきだと思った。昨日、裏の頁に書いた行は、そのためにあった。
「すみません、そのことで、少しだけ」
四人が、こちらを向いた。「六日目の夜、あの家の前に、四十分ほど立っていました。七時二十分からです。そのあいだ、二階の窓は、灯りが見えないままでした。それより後は、夜には行っていません。昼は前を通りますが、窓には目を向けていません。ですから、六日目の四十分より外は、分かりません」
聞き終えて、最初に口を開いたのは、ショールの女性だった。
「四十分も。そんなに立っていらしたの」
「六日目、というと」八百屋の店主が、首をかしげた。六日目、は私の数え方だった。この家に戻った日から数えた、私だけの日付だった。ほかの誰にも、通じるはずがなかった。
「戻っていらしてから、六日目、ということね」隣の女性が、言い直した。「戻って六日目の晩に、四十分、あの前で。そのあいだは、何もなかった、と」
見えなかった、が、なかった、に変わっていた。灯りが見えなかった、のと、何もなかった、のとでは、覆う範囲が違う。違うと分かっていたが、私は何も言わなかった。
「夜は、その四十分と、その一晩だけ、ということですな」
老人だった。竹箒の柄に両手を重ねて、枝ではなく、私のほうを見ていた。
「はい。ほかの夜は、行っていません」
「分かりました」
それきりだった。何かを付け足すでもなく、老人は、また枝のほうへ向き直った。
「じゃあ、毎晩見ているわけじゃないのね」ショールの女性が言った。老人の言葉を受けて出たもので、確かめるというより、独り言に近かった。老人が、枝を見たまま、答えた。
「今、そう言われたばかりですよ」
ショールの女性は、ああ、と小さく言った。八百屋の店主は、鋸を持ち直しただけだった。
四人に言って、言葉で返ってきたのは三人分だった。八百屋の店主からは、問いが一つ返ってきただけだった。四十分は、三人とも持っていた。立っていた、ということは、二人が持っていた。夜が一晩だけだったことを持っていたのは、そのうちの一人だった。昼に窓を見ていないことは、誰の口からも戻ってこなかった。
「それなら、出入りしている方がいるのかどうかは、やっぱり分からないわけね」隣の女性が言った。「知らせる先が、ないままになるわ」
老人が言った。「板に、載せてもらいましょう。来月の板に、一行でも。松の枝が折れたこと。お心当たりの方は、と。持ち主を知っている方なら、読むかもしれない。この辺りで、あの家のことを知っている人は、板だけは読みますから」
「来月、ですか」八百屋の店主が言った。「枝は、今日ですよ」
「枝は、今日片づければいい。知らせるのは、知らせられる形になってからで」老人は、私から話しておきます、と付け足した。載るかどうかは向こうの決めることですが、とも言った。向こう、が誰なのかは、言わなかった。
八百屋の店主が、鋸を枝の根もとに近いほうへあてた。引くたびに、白い粉のような木くずが雪の上に落ちて、刃にまとわりついた樹脂が、ぎい、と鳴った。切った枝は、老人と隣の女性と私で、道の端へ引いた。枝先の雪が、ぼとぼとと落ちる。松葉が手袋を通して刺さった。切り口の脂が、手袋の隙間から、指に移った。
塀の根もとに、切り分けた枝を並べた。門の内側には、誰も入らなかった。入ろうと言う人も、いなかった。塀の外の、道に出た分だけを、道の端へ寄せる。それが、この場でできる全部だった。
道が空くと、ショールの女性が、細かい松葉を、靴の先で脇へ寄せた。老人が、その上を箒で掃いた。八百屋の店主は、鋸を肩に担いで、店のほうへ戻っていった。
帰りは、隣の女性と並んで歩いた。門の前で別れるとき、女性が、ひとことだけ言った。
「四十分のお話、覚えておきますね」
それは、そのとおりに、持ち帰ってもらえる長さだった。四十分の外にあるものは、返事のなかでは、荷物になったらしい。
家に戻って、手を洗った。松脂は、石けんを二度使っても、落ちなかった。
台所の窓の外で、雪が雨に変わっていた。屋根から水がしたたり、庭の雪が、ところどころで崩れる。昼を過ぎていた。机の前に座り、手帳を表から開いた。「家から、十二分。」の続きに、書いた。
「十八日目朝、湿った雪。当該家屋の松の枝一本、折れて塀の外の道上にあり。当方、折れ口と道上の枝を確認(二階窓は見ず)。枝はその場で切り、塀の外の道端へ寄せる。門の内側には、誰も入らず」
次の行からは、人の言葉だった。少し迷って、こう書いた。
「同日、角の家の男性より、持ち主へ知らせる先を知らぬ由――談。ほか二名も首を振る」
「同日、角の家の男性より、来月の回覧板に載せてはどうか、との提案――談。載るかどうかは未確認」
その下に、もう一行足した。
「同日、同所にて、六日目夜の件を、時刻と行っていない夜まで口頭で述べる――当方談。本日時点」
三度目の当方談だった。前の二つと違って、今日のは、聞かれる前に、自分から出した言葉にかかっている。
返ってきた形を、その下に続けた。
「同日、右に対し、以前、商店街で会った女性より『四十分も』、隣家の女性より『そのあいだは、何もなかった』、角の家の男性より『夜は、その四十分と、その一晩だけ』の由――談。昼に窓を見ていない件に触れた者なし」
書いてから、読み返した。あの家について、分かっていることは、増えていなかった。灯りのことで困る人は、今日もいなかった。困らせたのは、雪と、一本の枝だった。それでも、あの家は、今日はじめて、誰かが何かをしなければならない家になった。灯りの話をいくら重ねても動かなかったものが、道を塞ぐ枝一本で動いた。
動かしたのは、私の答えではなかった。使われたのは、私の答えのほうだった。
手帳を裏返す前に、表の頁の最後の行を、もう一度読んだ。残ったのは、数のほうだった。四十分は、持ち歩ける。行っていない夜は、持ち歩きにくい。ないものの数は、あるものの数より、言葉にしにくい。それでも、角の家の人は、一晩だけ、を口にした。一人というのが多いのか少ないのかは、次に言ってみるまで分からない。
後ろの頁を開くと、昨日の行が、そのまま、そこにあった。返ってきた形は、もう表の頁に書いてある。起きたことは、表に書く。この頁に書いてよいのは、これからすることだけだった。
昨日は、言ってみてから順を決めればいいと思っていた。今日、言ってみた。残ったのが数のほうだったから、順を変えることにした。昨日の行は消さずに、一行下へ足した。
「次は、行っていない夜のことを、四十分より先に言う」
来月の回覧板が回ってきたとき、あの枝のことが、一行でも載っているのかどうかは、分からない。載るなら、誰の字で書かれるのだろう。それも、今日は分からなかった。
雨は、まだ屋根を打っていた。ペンを置いて、手帳を閉じた。表紙のへりに、松脂の付いた親指の跡が、薄く残った。拭いても、落ちなかった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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