第四十五話 短い返事
門の脇の水たまりが、白く固まっていた。踏めば割れそうなほど、薄い氷だった。庭の土の上にも、霜が降りている。この家に戻って、十七日目になる。
昨日の寒さは、そのまま夜を越えたらしい。窓の内側に薄く水気がついていて、指でなぞると、一筋だけ線が通った。線の向こうに、白くなった庭の木が見えた。
今日は、どこへ行く予定もなかった。手帳の裏の頁に、今日する用事は入っていない。当番の一行と、手順の一行と、水の一行があるだけで、どれも、今日の朝にすることではなかった。
手帳の外に、自分では直せない記録がある。それは昨日のうちに分かっていた。今日は、そのことを考えないで過ごすつもりでいた。考えないでいられそうな、静かな朝に見えた。
霜が溶けるところが見たくなって、コートを着て、門まで出た。
日はまだ低く、塀の影の中だけ、霜が残っていた。日の当たる側から先に、黒く濡れていく。濡れた線が、少しずつ影のほうへ寄っていくのを、門柱に手を置いて、見ていた。
隣の門が、軋んで開いた。
隣の女性が、玄関先の鉢にかけてあった古い布を、一枚ずつ外していた。霜よけだったらしい。外した布は、硬く波打って、腕にかけた形のまま、立ちそうだった。回覧板を渡した雨の日から、顔を合わせるのは、五日ぶりになる。この人の名前も、あの一覧のどこかに載っているはずだった。どれがそうなのかは、まだ読めない。
会釈をした。向こうも、返してくれた。それで済むはずだった。
「皆瀬さん。ちょうどよかった」
布を腕にかけたまま、女性が門のほうへ寄ってきた。
「一つだけ、伺ってもいいかしら」
「はい」
「角を二つ曲がった、松のある家のこと。この頃、見ましたか」
何を、が抜けていた。抜けているところが、そのまま通じてしまうのが、この辺りの話し方だった。
「灯りのことでしょうか」
「ええ」
声は、いつもと変わらなかった。声をひそめるでもなく、わざと平らにするでもなく、天気を聞くときと同じ高さだった。あの家のことを聞きに行くのは、これまで、いつも私の役だった。今朝は、あの家のことで、向こうから聞かれていた。
答えは、すぐに決まった。決まっていた、と言うほうが近かった。聞かれたときの用意は、何もしていない。ただ、言えることが、はじめから少なかった。見たことと、見ていないこと。その二つを分けて言えば、嘘も、脚色も、入る余地がない。
会社にいたころなら、一言で返した。見ていません。そう言えば、話は終わる。相手が欲しいのは結論で、条件は、聞き返されてから足せばいい。そう教わって、三年近く、そうしてきた。今朝は、その一言が、どうしても口から出なかった。出せば短く済む。短く済むものは、短いまま持ち出される。
「六日目の夜に、七時二十分から、四十分ほど、あの前にいました。そのあいだ、二階の窓に灯りは見えませんでした。六日目より後は、夜は行っていません。その後も、昼間は前を通ることがありますが、窓のほうは見ていません。ですから、そのほかのことは、分かりません」
一息に言った。長かった。言い終えてから、手帳に書くときの運びと、ほとんど同じ形になっていることに気づいた。時刻があり、したことがあり、したことのない部分との境がある。
女性は、頷きながら聞いていた。布を持った腕を、いったん下ろした。
「そう。じゃあ、見ていらっしゃらないのね」
「見ていない、というのは」
言いかけて、続きが出なかった。見ていない、のあとに足したい言葉は、四つも五つもあった。どれを先に出しても、残りが遅れた。
「ええ、ええ。分かりました。ありがとう」
女性は、鉢の脇に布を重ねて置いた。それから、思い出したように、付け足した。
「皆瀬さんは、あそこに立っておられたでしょう。聞きたい方は、これからもいると思いますよ」
責める調子は、どこにもなかった。台の上に事実を一つ置くような、言い方だった。
「そうですか」
「ええ。そういうものですから」
女性は、玄関へ戻りながら、小さく、くり返した。
「皆瀬さんは、見ていない、と」
覚えるための声だった。誰に向けたのでもなく、口の中で、形を整えているような声だった。戸が閉まった。
これからも聞く人はいる、と言われたのだった。その言い方で、聞かれる人の列に入れられたのだと分かった。見た人としてではなかった。立っていた人として、だった。見たかどうかを聞かれるより前に、立っていたことのほうが、先に知られている。順は、いつも向こうが先に決めていた。
私が長く言った四つの部分は、あの人の口の中で、短い一つになっていた。悪意があるのではない。誰でも、そうする。人に渡すときは、持って歩ける長さにする。
門柱の上の霜は、いつのまにか、消えていた。
昼を過ぎてから、買い物に出た。台所の米が、残り少なくなっていた。
日向の道は、朝の霜が嘘のように乾いていた。いつもの角まで来ると、あの家へ折れる道が、口を開けている。今日も、そちらへは目を向けなかった。窓は見ていません、と答えたのは、今朝のことだった。見ていないと言った人が見てしまえば、言ったことのほうが古くなる。古くなるのを避けるなら、見ないでいるしかない。そう考えかけて、足を止めた。答えのせいで目を向けないのか、前からそうしてきたのか、もう区別がつかなくなっていた。
商店街に入ると、八百屋の店先に、大根とねぎが並んでいた。値札を見て、ねぎを一把、手に取った。店主は、釣り銭を渡しながら、いつもどおりの声で、ありがとうございます、と言った。それだけだった。
隣の列で、買い物袋を提げた二人連れが、こちらを一度見て、すぐに目をそらした。見知らぬ顔だった。何かを知っているのかもしれないし、ただ、人の顔を見ただけかもしれない。知っているとして、それが長い形なのか、短い形なのかは、顔からは読めない。
何も返ってこないまま、帰り道に入った。押した判は、三日かけて、何軒か先の卓まで届いていた。今日の言葉が、どこまで行ったのかは、まだ分からない。返ってくる速さは、聞いた人の足の速さに、よるらしかった。
家に着いたときには、日が傾いていた。
居間の机に着いて、電灯をつけた。庭の霜は、とうに溶けて、土の色に戻っている。
手帳を表から開き、「家から、十二分。」の頁のいちばん下に、今朝のことを書いた。迷うところは、答えを言うあいだに、もう済んでいた。
「十七日目朝、隣家の女性より『この頃、見ましたか』と問われる。当方、六日目夜に十九時二十分より約四十分、当該家屋の二階窓に灯り確認できず、以降は夜に行かず、昼は窓を見ず、と答える――当方談。本日時点」
二度目の当方談だった。一度目は、犬のことだった。あれは、昔の自分の記憶にかかる印だった。今日のは、口から出て、もう人の耳に入った言葉にかかっている。
問いのほうは、二重の鉤括弧に入れて、先に書いた。九日目に足した行は、尋ねた自分の言葉を、先に書くものだった。今日は、尋ねられた側だった。問いは隣の人のもので、答えは私のものだ。同じ行の中で、持ち主が分かれている。
書いてから、行を読み返した。灯り確認できず、の中には、見るために立っていた、ということが入っていない。ここでも、手帳の幅に収めるために、落としたものがあった。落としたと分かっているだけ、まだよかった。
印の意味は、前と変わらない。確かさを請け合うものではなかった。言った人と、言った日が、残るだけだ。そのかわり、自分の言葉に付けると、行がそこで止まる。あとから言い足したくなっても、足せるのは、次の行のほうだった。
手帳の行は、書いたとおりに残る。女性の口の中の行は、残らない。あの人は、もう誰かに会ったかもしれない。会えば、見ていない、と言うだろう。皆瀬さんのところでは、見ていないそうですよ。そう言われる家が、あと何軒かできる。
皆瀬さんのところでは。そう言われるとき、見ていないのは、私ではなく、この家になる。当番も、回覧板の判も、順番は家に付いていた。聞かれた答えも、家に付いて回るらしい。私が一人で言ったことが、いつのまにか、この家が言ったことになる。
そこに、六日目の夜という言葉は、たぶん付かない。七時二十分も、四十分も、昼は窓を見ていないことも。残るのは、見ていない、の一つだけだ。
見ていない、は、軽い言葉だった。何を、いつ、どれだけ、のどれも付いていない。付いていないぶん、どこにでも置ける。見ていないから、なかった。見ていないから、出ていない。見ていないから、見る気がなかった。置き場所を決めるのは、聞いた人のほうだった。
私は、出ていない、とは言わなかった。見ていない、とだけ言った。その差は、私の口の中では大きかった。町を通るころには、一語分もないのだろう。
昨日は、押した判が回っているのを知った。今日は、言った言葉が、言い終わる前から回りはじめていた。判には、朱肉が要った。言葉は、息だけで足りた。
七つの町で、私が――談を付けて持ち帰った言葉にも、同じことが起きていたのかもしれない。持ち主の長い言い方を、手帳の幅に収まる長さにして、書いてきた。収まらないぶんは、書かなかった。そのことを、答える側に立つまで、考えたことがなかった。今さら確かめる手立ては、ない。疑い直すつもりも、なかった。ただ、書く側にも、同じ癖があることは、覚えておくことにした。
今夜、もう一度、あの前に立てば、答えの中身は変わる。灯りがつけば、つくと言える。つかなければ、二度、つかなかったと言える。行ってみたい気持ちは、確かにあった。ただ、答えを良くするために見に行くのは、順が逆だった。聞かれたから見る、というのでは、六日目の夜の理由とも、違ってしまう。
窓の外で、鳥が一羽、塀の上を渡っていった。
手帳をひっくり返して、裏の頁を開いた。「水は、汚れたときだけ」の下は、白かった。
聞かれたら、どう答えるか。これは、起きたことではなく、これからすることだった。だから、この頁に書いてよい。そう思って、ペンを持った。
「聞かれたら、六日目の夜のことから言う。時刻と、行っていない夜があることまで言う」
その行にも、印は付けなかった。まだ言っていないことに、当方談は付けられない。誰が、いつ、言ったのかが、まだ一つも決まっていない。
いつ聞かれるか、は書けなかった。聞かれたときが、その日になる。この行は、次に聞かれたときに、そのまま言ってみれば、照合できる。言ったあとで、返ってきた形を聞けばいい。何が落ちたか、何が残ったかは、聞くまで分からない。分からないから、聞く。順を変えて言うかどうかは、そのあとに決めればよかった。
同じ問いには、同じ答えを返す。この辺りで長く暮らしている人たちは、きっと、ずっとそうしてきたのだろう。私が真似をしているのか、同じことになってきたのかは、今日は、分からなかった。
外は、すっかり暗くなっていた。窓ガラスに、電灯と、机に向かう自分の姿が映っている。今朝の水たまりは、もう氷ではないだろう。明日の朝も張るのかどうかは、朝になってみなければ、分からなかった。
ペンを置いた。
答えのほうを、先に書いた。次の問いは、まだ誰からも来ていなかった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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