第四十二話 来月の分
雨の音で、目が覚めた。
細かい雨だった。強くも弱くもなく、まっすぐに落ちている。窓ガラスを伝う筋もできないまま、粒のまま地面まで届いているような降り方だった。傘がなくても平気そうに見えて、実際に出れば、すぐに肩のあたりが湿ってくる。二月の雨は、たいてい、そういう降り方をする。
昨日は、風がやんでいることのほうが耳についた。音のないことのほうを、確かめるように、しばらく聞いていた朝だった。今朝は、逆だった。屋根を叩く音、樋を伝う音、庭のどこかで水が跳ねる音。音のあることのほうを、しばらく聞いた。
この家に戻って、十二日目になる。雨の日は、まだ一度もなかった。晴れた日も、曇った日も、風の強い日も、風のやんだ日も、もう一通り過ぎている。どの日がどうだったかは、思い出そうとしなくても、順に出てくるようになっていた。雨だけが、今日はじめてのものだった。雨なので、今日はどこへも行かないつもりでいた。行く先も、もともとなかった。傘を差してまで出る用事を、昨夜のうちに一つも思いつかなかった。
顔を洗って、一階へ下りた。台所で湯を沸かしているあいだ、窓の外の雨を眺めた。庭木の葉先から、水が、一定の間を置いて落ちていた。落ちる間隔が、いつのまにか、やかんの音と重なっていた。茶を淹れて、卓に置いたまま、しばらく雨を見ていた。湯気が消えるところまで、見ていられる朝だった。
門の脇で、何かが鳴った。かたり、と乾いた音がした。郵便受けの蓋だった。雨の中でも、その音だけは、湿らずに届いた。傘を差して、門まで出た。地面は、雨で色を変えていた。濡れた面のほうが、乾いた面より、心なし明るく見えた。傘の骨に、雨粒が伝って、先端でまとまっては落ちていった。
郵便受けに入っていたのは、回覧板だった。雨よけに、透明なビニールの袋がかぶせてある。紐と金具で留めた厚紙の板に、紙が数枚、はさんであった。板の角は、何年も同じ手を渡ってきたらしく、丸く擦れていた。袋の内側にだけ、雨は入っていなかった。
家に戻って、卓の上でビニールを外した。指先が、少し湿っていた。板を留めていた紐は、何度も結び直されたらしく、結び目のところだけ、色が違っていた。
表の紙は、一覧になっていた。この辺りの家の名が、縦に並んでいる。名の脇には、それぞれ小さな欄があって、回した家が判か印を入れることになっているらしかった。朱の色も、字の大きさも、一つずつ違う。ほとんどの欄が、埋まっていた。
皆瀬、の欄だけが、印刷されたまま残っていた。いつからかは分からないが、その一つだけが、ずっと空いていた。空いたまま、何列も下まで、ほかの欄と同じ形で続いていた。埋まっていない欄は、埋まっている欄より、目につきやすい。並びの中で、そこだけが、少し白かった。
中の紙は、三枚だった。集積所の掃除当番の表。ごみの出し方の案内。火の元の注意を書いたもの。どれも、この辺りで長く回っているらしい、飾り気のない紙だった。案内のほうは、何度も刷り増したのか、端のほうで文字がかすれている。文字は、どれも古びた活字だった。表題らしいものは、どこにもない。この辺り、とだけ書けば通じる範囲に向けて、書かれているようだった。
当番の表には、月ごとに、家の名前が入っていく。今月の欄には、見覚えのない名前があった。先月の欄にも、別の名前がある。一月ごとに、字の癖が変わっていく。指でたどっていくうち、来月の欄に、目が止まった。
「皆瀬」と、手書きで入っていた。
誰にも、聞かれていなかった。
欄の脇の、印を入れる場所を見た。押すかどうかで、しばらく手が止まった。押さないままにしておく、という道も、頭の隅にはあった。雨の音だけが、その間、卓の上まで届いていた。
判と朱肉は、二階の書斎にある。去年、下の段から順に開けていった、あの机の引き出しだ。老眼鏡が二つと、硬くなった輪ゴムの塊と、同じ段に入っていた。
階段を上がると、上から三段目が、今朝も鳴った。戸を開けて、引き出しを引くだけの用事だった。この部屋に、取材と関わりのない用で上がったのは、戻ってきてから、はじめてだった。
祖母のものなのか、この家のものなのかは、分からない。姓は同じだから、押せば、皆瀬とだけ読める。誰が押したかは、紙の上には出ない。
朱肉に、軽く指を触れさせた。それから、欄の上に押しつけた。厚紙に、朱が沈むまで、少しだけ手を止めていた。皆瀬、という文字だけが、そこに残った。字の形までは、紙に出なかった。紙を元の順に重ね、紐を結び直した。結び目の位置は、渡されたときのところに合わせた。
傘を開き直し、回覧板を小脇に挟んで、門を出た。数十歩で、隣の家の門に着く。近いというほどの距離ではなかったが、遠くもなかった。雨の中を歩くには、ちょうどいい遠さだった。
呼び鈴があった。押すと、家の中で、くぐもった音がした。しばらくして、廊下を歩く気配が近づいてきた。玄関の戸の向こうで、一度、気配が止まった。
出てきたのは、七十ほどに見える女性だった。エプロンの上に、薄手の上着を羽織っていた。手には、台所仕事の途中だったらしい布巾を持ったままだった。
「雨の中、すみません」
「いえ」
短いやり取りだった。声に、訛りはなかった。この辺りで、誰と話しても、たいていそうだった。土地の言葉というものが、この町には、はじめからないのかもしれなかった。傘の柄を持ち直しながら、次の言葉を探した。
「一覧の、皆瀬のところが、空いていたので」
「ああ、あれね。去年は、飛ばして回していました」
当たり前のことのように、そう言われた。責める色も、探る色も、声にはなかった。長く空けていたことを、詫びる隙さえなかった。空いていた理由を、ようやく知った。
女性は、布巾を軽く畳み直しながら、続けた。
「来月の分は、書き入れておきました。ご都合が悪ければ、うちで代わりますよ」
断る機会は、確かに差し出されていた。声の調子に、押しつける響きは、少しもなかった。断っても、代わりに何かを言われずに済みそうな言い方だった。
「いえ。やります」
それだけを言った。それ以上、付け足す言葉は、思いつかなかった。
「前の月までは、どなたが」
「うちで、続けてやっておきました」
礼を言うと、返ってきたのは、短い一言だった。
「順番ですから」
言ってから、一つだけ、付け足した。
「おばあさまも、ずっと回してらっしゃいましたよ」
それだけで、話は終わった。それ以上は、女性のほうも続けなかった。踏み込まないところで、話をきちんと止める。そういう間の取り方に、この辺りの温度があった。七つの町のどこにも、なかった温度だった。名乗っていなかった。名乗る前に、もう知られていた。今さら名乗る必要も、なさそうだった。
回覧板を、差し出した。女性は、両手で受け取った。厚紙の板が、雨の中で、一度だけ小さく揺れた。渡した手から、重さが消えるのを、少しのあいだ感じていた。次に回る家のことは、聞かなかった。聞かなくても、板のほうが、勝手に次へ進んでいく。
会釈をして、門を離れた。数十歩の帰り道を、傘の下で歩いた。雨の粒が、傘の生地を細かく叩いていた。水たまりの縁を、避けながら歩いた。歩幅を変えるたび、傘の内側で、小さな音がした。行きより、心なし足取りが軽くなっているのに、途中で気づいた。
玄関で、傘をたたんだ。滴が、たたきに散った。回覧板は、もう手の中にない。靴を脱ぎながら、順番に考えた。
断る機会は、確かにあった。差し出されて、それを、断らなかった。断らなかった、という事実だけが、今、手もとに残っている。
七つの町では、頼むのは、いつも私のほうだった。取材させてください、と言うのは、いつも自分だった。頼めば、断られることもあった。断られても、次の町へ行けば、それで済んだ。今日、この町のほうが、はじめて私に頼んできた。頼まれる側に回ったのは、この一年で、はじめてだった。
来月も、ここにいることが決まった。いつまでいるかは、まだ決めていない。決めていないのに、来月の分だけが、先に決まってしまった。決めていないことと、決まっていることが、両方、手もとにあることになる。どちらが先にあるべきかを、これまで、あまり考えたことがなかった。
「また来ます」を、この一年、口にしなかった。言えば、その一言が、誰かを待たせることになる。迎えてくれた家でも、そうでない家でも、言わなかったのは同じだった。今日は、日付のある返事を、してしまった。待たせていたのは、一人の誰かではなく、順番のほうだったらしい。順番は、待たせても、困った顔をしない。
判の意味を、考えた。読みました、というだけの印だ。中身に同意したことには、ならない。本当に読んだかどうかも、誰も確かめない。それでも、押した順に、回っていく。強い意味を持たない印のほうが、こうして、ちゃんと回り続けている。手帳に書き足してきた印は、もっと重い意味を持たせて使ってきた。今日押したのは、それとは違う種類の印だった。
名前が、残っていたから、順番が来た。消されていたら、来なかったはずだ。消さなかったのが誰かの判断なのか、ただ消す機会がなかっただけなのか。あの女性に聞けば、分かるのかもしれない。聞かなかった。聞けば、今度は私が、消さなかった側の理由を、勝手に決めてしまう気がした。どちらなのかを確かめる方法は、なかった。どちらであっても、今日、順番は来た。
決めていたのは、いつも、私の外のほうだった。今日は、その外のほうが、少しだけ、こちらへ寄ってきた。
居間の机に着いた。肩のあたりが、まだ湿っていた。手を一度こすり合わせてから、机の上の手帳を引き寄せた。
新しい頁を開いた。「家から、十二分。」の見出しの下に、昨日の一行だけが、そのままあった。字の乾き方まで、昨日のままだった。その下は、まだ白いままだった。
今日のことは、取材ではなかった。この頁に入る形を、していない。誰かに何かを尋ねたわけでも、何かを見たわけでもない。ただ、頼まれただけだ。頼まれたことを、伝聞として書き取るのも、違う気がした。伝聞にするには、あまりに、自分自身のことだった。
それでも、忘れれば、隣の人に迷惑がかかる。忘れていい種類のことでは、なかった。書かずに済ませられる種類のことでも、なさそうだった。
手帳を、裏返した。いちばん後ろの頁を開くと、白い紙が、そのまま残っていた。表からめくってきた白さとは、向きの違う白さだった。指で、一度、その面をなぞった。表の頁は、祖母の記法をなぞって書いてきた。裏の頁には、そういう決まりが、まだ何もなかった。
そこに、やることだけを、一行書いた。
「来月、集積所の掃除当番」
印は、付けなかった。付けるものが、なかった。
昨日、これから先は、何かを書き足すときに、自分のほうにも印を付けると決めたばかりだった。あれは、もう起きたことと、覚えていることに向けた決めごとだった。この一行は、まだ起きていない。裏づける相手も、疑う相手も、もともといない。ただ、来月、私がそうする、というだけの一行だった。決めごとの端が、決めた次の日に見つかったことになる。
窓の外は、まだ雨だった。庭木の葉先から、水は、まだ同じ間隔で落ちていた。朝から、降り方は、ほとんど変わっていない。傘を差して出た朝と、こうして机に着いている今とのあいだに、雨は、一度も途切れていなかった。
前から書いた分と、後ろから書いた分のあいだには、まだ、白い紙がずいぶん残っていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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