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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
十二分の町

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第四十一話 書いておく

十一日目の朝は、風がやんでいた。


目が覚めてすぐ、それに気づいた。窓の外の電線はまっすぐ垂れたまま動かず、庭木の枝も、しなることなく立っていた。昨日あれほど鳴っていた音が、今朝はどこにもない。音がないことのほうが、かえって耳についた。


カーテンの裾も、まっすぐ下がったままだった。昨日は、それが何度も小さくめくれていた。窓辺に立ったまま、しばらく、確かめるように外を見ていた。


顔を洗って居間へ戻り、財布の中を検めた。奥に挟んだままにしていた小さな紙に、指が触れた。厚みのある、少しざらついた紙だった。印刷してあるのは、番号と日付だけだ。目を近づけると、その日付は、今日のものだった。


三日前に渡されたときは、まだ先の日付だった。今日、そこに、現在のほうが追いついていた。


十一日。七つの町のどれにも、これだけ長くとどまったことはなかった。日付の印刷された紙を手渡されて、その日が来るまで同じ町で待つということが、この一年、一度もなかったことになる。


手帳を開いた。昨日の二行が、そのままそこにあった。一行目には見たものの色を、二行目には、その色に近い記憶が自分にあることを書いていた。どちらも、昨日の私の字のまま、乾いていた。


繰る手を、一つ前の頁で止めた。植え込みの陰を書くための欄には、今日も何もない。一昨日つけた小さな点だけが、白いところに残っていた。昨日、見に行かないと決めた欄だった。決めたことに、変わりはなかった。


それでも、椅子に座ったまま、目を閉じて、あの庭の隅をもう一度思い出そうとしてみた。出てきたのは、覚えていたままの形ではなかった。昨日、塀の溝で見たばかりの、青に緑の混じった色が、隅のほうから少しだけ、そこへ混じりかけていた。


見に行かなくても、向こうから勝手に寄ってくるものがあるらしかった。見ないと決めただけでは、まだ足りていない。放っておけば、覚えているものは、それだけで薄くなる。はじめてあの家の前に立った日に覚えていた分と、今朝の分とは、もう同じではなかった。


茶碗を洗い、身支度をした。コート掛けから、別の一枚を取って袖を通した。出しに行った一枚は、まだ店にある。


鞄に手帳を入れながら、いつもの理屈を探しかけて、やめた。これから行く先には新しく起こることなど何もないはず、という理屈は、昨日、そのまま外れたばかりだった。今日は、持って出る理由を、もう探さなかった。手帳は、ただ、入れた。


玄関を出ると、外の静けさは、家の中で思っていたよりも深かった。物干し竿も、庭木も、どこも動いていない。空には、薄い日が差していた。遠くで、鳥が一羽、短く鳴いた。昨日なら、電線の音にかき消されて、聞こえなかった声だった。




駅までは、歩いて十二分ほど掛かる。商店街は、その道のりの、少し手前にあった。


歩き出してすぐ、向こうから来た人が、こちらに気づいて、小さく会釈をした。会釈だけを返して、通り過ぎた。思い当たる顔ではなかった。名も知らない人に会釈をされることには、もう慣れていた。


通りは、まだ朝の側にあった。自転車が一台、追い越していった。台所の湯気の匂いが、ところどころから漂って、二度ほど入れ替わった。風のない分、物音がよく通った。シャッターを半分だけ開ける音が、少し先で聞こえた。


クリーニング屋の前で、一度、足を止めた。三日前、この戸の外で呼び止められて、出どころを渡した。今朝は、誰も立っていない。


ガラス戸を引くと、蒸気の匂いが先に出てきた。中は暖かく、アイロンを打ちつける音が、奥のほうで、間を置いて響いていた。吊るされた仕上がりの品が、袋越しに、天井の光を鈍く返していた。カウンターの向こうから、店主が顔を上げた。三日前と、同じ顔だった。


財布から預かり札を出して、差し出した。店主は番号を一度だけ見て、奥へ入っていった。金具の擦れる音がして、それから戻ってきた。


「けっこう、汚れてましたよ」


「そうですか」


「よく落ちましたけどね」


コートは、肩の形のまま吊るされて、長い袋をかぶせられていた。袖の線も、襟のあたりも、きれいに伸びている。埃は、どこにも見当たらなかった。三日前、時間がかかると言われた汚れだった。それがどこでついたものかは、もうどこにも残っていない。


店主は、受け取った札を、カウンターの下から出した小さな箱へ落とした。中には、同じような紙が、もう何枚も重なっていた。私の一枚も、その中の一枚になった。


この埃は、ある晩、四十分立っていたときのものです。そう言いたくなって、喉のあたりで止めた。


言う筋が、もともとなかった。預かり札には、なぜ汚れたかも、いつ汚れたかも、印刷されていない。番号と、日付だけだ。店は、理由を要らない。三日前、この戸の外でしたこととは、そこが違っていた。あのときは、人の口に乗って回っていく話があったから、出どころを渡した。この汚れには、回っていく先がない。


礼を言って、店を出た。




袋のかかったコートを腕に掛け、来た道を戻った。行きより、腕のぶんだけ、歩く形が変わっていた。


歩きながら、さっき渡した紙のことを考えた。六日目の夜、電柱に寄りかかって過ごした四十分の跡は、埃のほうが店主の手で落とされ、紙のほうは箱の中へ入った。あの晩のことで、私の手もとに残っているものは、もう何もない。


残っていたのは、あの晩その場で書いた一行の中だけだった。立っていた時刻と、いた時間の長さと、確かめられなかったということ。それだけを、街灯の下で書いた。


あの一行が書けたのは、何も見えなかったからだった。もし窓が明るくなっていたら、それを書く方法を、あのときの私は持っていなかった。書けたのは、書けないことのほうを、そのまま書いたからにすぎない。ずっと、記法の足りないところだと思ってきた。足りないままに書いた一行のほうが、五日たった今も、消えずに残っていた。


空き家の前を通りかかった。足は、自然と止まった。庭のほうへは、目を向けなかった。二階の窓にも、目を上げなかった。門の内側へは踏み込まず、塀にも触れなかった。道の上から目に入る分だけで、足りた。風のない朝の光の下では、まだらに残った塗りの染みが、昨日よりも、輪郭のやわらかいものに見えた。


塀の色を、思い出そうとしてみた。浮かんでくるのは、やはり、昨日見たばかりの色だけだった。それより前の色は、どこからも出てこなかった。分かっていたことを、もう一度確かめただけで、歩き出した。




家に着いて、戸を閉めた。袋のままのコートを、コート掛けに掛けた。あの晩の汚れは、もう跡形もなかった。鞄を下ろして、手帳を出した。結局、外では一度も開かなかった。


居間の机に着いて、しばらく、白いままの欄を見ていた。何度も繰った頁は、角が柔らかくなっている。この欄のある頁だけが、まだ紙の硬さを残していた。前のほうの頁は、どれも人の言葉で埋まっていた。埋めたのは私の字だが、中身のほうは、どの行も、他人から預かったものだった。


祖母の記法に、自分の記憶を書く欄がなかったのは、手が届かなかったからだろうと、昨日までは考えていた。今は、少し違うふうに見えた。届かなかったのではなく、要らなかったのだろう。責めているのではなかった。分かったことが、一つ増えただけだ。


祖母が、ひとつの町にとどまったのは、いつも数日だった。数日なら、覚えていることは、減る前に済む。減る前に、次の町へ発ってしまうからだ。


私には、要る。ここにいるからだ。


七つの町では、切符を買うことが、そのまま区切りになった。渡した一言も、覚えていたことも、次の朝には別の場所へ運ばれていった。区切りがつくたびに、覚えていることの重さも、一緒に置いてきていたのかもしれない。この町からは、出られない。戻れる場所に居続けるというのは、覚えているものが減っていくのを、最後まで自分の目で見ているということでもあった。


財布の中にあった紙の形を、もう一度思い出した。番号と、日付だけ。それでも、あの紙は嘘をついていなかった。何も主張していないからだ。書いてあるのは、この品を、この日に。それだけだった。


祖母の三つの印は、どれも、他人の言葉に向けて付けるものだった。書いている本人に向けたことは、一度もない。


私のほうには、一度だけあった。新潟の頁の要確認は、巡回の日取りではなく、自分の迷いのほうを指していた。気づいたのは、ずっとあとになってからだ。印は外へ向いた顔のまま、中身だけが自分のほうを向いていた。そのときは、名前を付けるところまでいかなかった。


直すのに要るのは、四つ目の印ではなかった。自分の記憶にも、――談を付ければよかった。自分が覚えていることも、一人の人間が、ある日、そう言ったというだけのものだ。あのとき名前の付かなかったものに、名前と日付を付ければ、それで足りる。


そう決めてしまえば、この手帳の上に、私だけが疑われずに済む場所は、どこにもなくなる。欲しかったのは、もっと強い言い方のほうだったはずだ。手もとにあるのは、弱いほうだけだった。弱いほうなら、嘘にはならない。


それは、確かさの印ではない。誰が、いつ、そう言ったかを示すだけの印だった。だから、日付が要る。日付のない――談は、ただの言い切りに戻ってしまう。


この印を付けたところで、犬がどこにいたかが決まるわけではない。決まるのは、今日の私がそう覚えていた、ということだけだ。老人の記憶が動いたことも、取り消せない。それでも、書ける形が、今、目の前にあった。


七つの町の頁ではなく、新しい頁を開いた。


この町の頁は、祖母のノートにない。七つの町は、どの頁も、祖母の書いた一行が先に立っていて、私はあとからそれを辿ってきた。この町だけは、先に立つ行がなかった。


よその町の頁なら、県の名と、町の名を見出しにした。ここには、書いて区別する相手がいない。代わりに、こう書いた。


「家から、十二分。」


その下に、日付を入れた。書き出しを決めるのに、少しかかった。急いで済ませなければならない用事は、一つもなかった。


それから、一行書いた。


「小学校の行き帰りのころ、当該家屋の庭、植え込みの陰に犬小屋あり。茶色の犬。吠える声を記憶――当方談。本日時点。照合せず」


書き終えて、行の終わりを、もう一度見た。――当方談。今日はじめて自分に向けた印が、そこに立っていた。要確認とは書かなかった。行って確かめれば済むものに付ける印だと、自分で決めてあった。これは、行って済むものではない。


七つの町の頁に、この印を遡って付けることはできなかった。あのころの自分が何を覚えていたかは、もう出てこない。届かない分は、届かないままだった。


あの頁を書き直すつもりもなかった。聞いた話は、聞いたままにしておけばいい。ただ、これから先、どの頁に何を書き足すことがあっても、そのときは、書いている側にも同じ印を付ける。決めたのは、それだけだった。


庭を見に行かないという、昨日の決めごとは、変えずに残した。この印は、見に行かなくても書ける形だった。決めごとと、両立した。


白い欄は、今日、埋まった。それでも、あの家について分かっていることは、六日前に聞いた四つから、一つも増えていない。増えたのは、私が何を覚えているかという、私の側の記録だけだった。


もしまた、どこかの町へ行くことがあれば、着く前に、自分が何を覚えているかを、先に書いておこうと思った。それだけを、頭の隅に置いた。


頁の下のほうは、まだ何も入っていなかった。この町のことは、明日も、明後日も続いていく。書くことがあるかどうかは、そのときにならなければ分からない。


ペンを置いた。外は、まだ静かなままだった。風の音はなく、薄い日が、机の上にまで届いていた。


開いたままの頁を、もう一度見た。


この頁に載っているのは、私の字だけだった。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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