第四十話 印のない行
十日目の朝は、風が強かった。
目が覚めてすぐ、窓の外で何かが鳴っているのに気づいた。起き上がってカーテンを開けると、電線が大きく波打つように揺れていた。庭木の枝が、しなっては戻り、またしなった。
空は晴れているようで、次の瞬間には雲が渡って翳る。その入れ替わりが、朝から忙しかった。遠くで、看板か何か、金属のものが、一度鳴っては止み、また鳴った。窓枠の隙間から入る風で、カーテンの端が、ときどき小さくめくれた。二月の風は、昨日までの静けさとは、質の違うものだった。
顔を洗って居間へ戻ると、手帳が机の上に開いたままになっていた。閉じ忘れたのではない。閉じる前にもう一度見ておこうと思って、そのままにしておいたのだった。
白かったところに残った、昨日の点だった。朝の光の下であらためて見ると、覚えていたよりも、ずっと小さかった。昨夜この目で見たはずのものが、一晩明けただけで、違う大きさになっている。深くは考えずに、手帳を閉じた。
茶を淹れながら、昨日数え終えた三つを、もう一度順にたどった。一つは、老人の記憶が半分動いてしまったこと。取り消しようがない。二つ目は、七つの町の頁に、あの一行を遡って足せないこと。これも、どうしようもない。残るのは、あの二つを書くための白い欄だけだった。手の届きそうなものは、それしかなかった。
この何日か、私は、その二つを、いつも一組のものとして扱ってきた。どちらも書けない。理由は同じだと、疑いもせずに思っていた。
茶碗を持ったまま、はじめて、違うのではないかと思い当たった。
塀は、まだそこに立っている。歩いて行けば、今日も、この目で見られる。植え込みの陰は、そうはいかない。犬は、もういない。今日あの庭を見たところで、そこに繋がれていたかどうかを確かめる手がかりが、もうどこにもない。
片方には、照らし合わせる先がある。もう片方には、ない。
一組にして呼んでいたせいで、同じ種類のものだと思い込んでいた。植え込みの陰。塀の色。口の中で続けて唱えてきた並びが、そのまま、考えるときの並びになっていた。
並びをほどいてみると、二つは、まるで違って見えた。片方は、行けば済む。もう片方は、行っても済まない。この何日か、行けば済むほうまで、行かずに済ませていたことになる。
身支度をしながら、鞄に手帳を入れた。角の家を訪ねた日も、惣菜屋の店先で名乗った日も、クリーニング屋へ行った日も、昨日も、手帳は置いて出た。理由は、いつも同じだった。まだ何も起きていない場所へ、書く用意だけを先に届けてしまうことになる。
今日は、その理屈が当てはまらない気がした。これから行く先で、新しく起こることなど、何もないはずだった。塀は、朝の時点でも、ただそこに立っているだけだ。見て、書き写すだけの用事だった。
鞄の口を閉じ、コートに袖を通した。
玄関を出ると、風が正面から吹きつけてきた。コートの前を、片手で押さえて歩いた。通りの先で、物干し竿に掛かったままのシーツが、大きく膨らんでは萎み、また膨らんだ。自転車に乗った誰かが、あおられてハンドルを握り直していた。電線の鳴る音が、頭の上を、ずっと追いかけてきた。
砂埃が、道の端で小さく渦を巻いて、すぐに崩れた。生垣の隙間から枯れ葉が数枚、道の真ん中まで転がり出てきて、また風にさらわれていった。日が、雲の切れ間から差しては、すぐに陰った。差すたびに、足もとに落ちる影の濃さが変わった。
角の家のほうへは、曲がらないつもりでいた。昨日、あそこで線を引いたばかりだった。行く用事は、今日はない。
ただ、頭の隅に、一つだけ残っていることがあった。あの家の人は、あの角に座っているだけで、通りを行き来する顔ぶれが大体分かるのだと、以前、自分から口にしていた。同じ場所に長くとどまれば、また誰かの目に入る。それだけは、今日は避けたかった。
角を二つ曲がった先で、松の梢が、風に押されてひとかたまりに傾いだ。すぐに戻り、また傾いだ。梢の下を通るとき、乾いた松笠が一つ、足もとに落ちてきて、軽い音を立てながら道の端まで転がっていった。
塀の前に着いた。低いブロック塀だった。もとの塗りは大部分が落ちて、まだらな染みのようなものだけが面に残っている。何度も前を通ってきた眺めのはずなのに、今日は、いつもより近くまで寄っていた。風で吹き寄せられた落ち葉が、塀のふもとに小さな山を作っていた。
二階の窓には、目を向けなかった。今日の用事は、そこではない。敷地には入らず、塀にも手を掛けず、道の上に立ったまま、見える範囲だけを見ることにした。
四日前の朝、私は、この塀の根もとに苔が残っているのに気づいて、指でなぞりたくなったことがあった。あのときは、手を伸ばさずに歩き去った。今日は、風を背にして身をかがめ、同じあたりに目を近づけた。
苔は、あのときのまま残っていた。その脇、ブロックとブロックの継ぎ目の、へこんだ溝の部分だけに、塗りがわずかに残っているのが見えた。
面のほうは、長い年月のあいだ、雨と風と日にさらされて、とうに落ちている。溝の底だけが、それらから守られる形になって、色を残したものらしかった。幅は、指を一、二本並べたほどしかない。目を近づけなければ、見過ごしていた。四日前も、同じ溝を見ていたはずだった。あのときは苔にばかり気を取られて、色までは見ていなかった。
青に、緑が混じった色だった。
頭上を雲が渡って日が陰ると、その色は灰色に近づいた。しばらくして、また日が差すと、青のほうへ戻った。同じ場所を見ているのに、見え方だけが、雲の流れる速さに合わせて変わっていく。どちらを書くのかは、私が決めるしかないのだと、しゃがんだまま思った。
覚えていた色に、近いとは思った。思った瞬間に、測っているつもりの目のほうが、今見ている色に寄っていることにも気づいた。近い、という判断そのものが、もう当てにならない。
目を閉じてみた。小学校の行き帰りに見ていた塀を、もう一度、頭の中に出そうとした。出てきたのは、さっき溝の底で見たばかりの色だった。何度やっても、同じところへ戻った。古いほうの色は、呼んでも出てこない。
今日この色を見てしまったあとでは、見る前に何を覚えていたのかを、二度と取り出せない。比べる相手は、私には、目の前の色しか残っていなかった。上から塗り直されたのは、塀ではなく、こちらのほうだった。
四日前と、昨日と。二度とも、人の記憶に手を入れた。今日は、同じ手つきが、自分のほうへ向いていた。
老人には、謝りに行く先があった。しゃがんだまま、私には、その先がないことに思い当たった。
見る前に覚えていたことを裏づけられるのは、見る前に書いた一行だけだったはずだった。それを、この何日か、私は一度も書かずにきた。確かめていないことを書く資格はないと思って、ここまで来た。
その慎重さのほうが、いつのまにか、私の側の証拠を消していた。鞄の中の手帳は、今日持ってきても、もう遅い。昨日までに、あの白いところへ一行だけでも書いておけば、それで足りたものだった。
今朝、手帳を持って出た理由は、これから行く先には、これから起きることが何もない、というものだった。その理由が、そのまま外れていた。起きたのは、塀の前ではなく、こちらの内側のほうだった。塀は、朝に思ったとおり、ただそこにあっただけだ。動いたのは、私のほうだった。
しゃがんでいるところへ、人が一人、通りかかった。荷物を提げた人で、足を止めず、こちらへは目も向けずに通り過ぎていった。足音が遠ざかってから、立ち上がった。会釈をする間さえなかった。
六日目の夜は、道の向かいの電柱に寄りかかって、四十分ほどいた。それが、次の日には噂になっていた。今日しゃがんでいたのは、二分もない。
同じ場所に立っていても、噂になるかどうかを決めていたのは、場所のほうではなく、居た時間の長さだったのかもしれない。四十分と二分のあいだのどこかに境目があるのかどうかまでは、見当がつかなかった。
庭のほうへ、目を上げかけて、やめた。植え込みが今もそこにあるかどうかを見たところで、そこに犬が繋がれていたかどうかまでは分からない。見れば、覚えているもののほうだけが、また一つ減る。今しがた塀の前で起きたことを、今度は庭を相手に繰り返す気は、起きなかった。
風を背に受けたまま、その場を離れた。
家の戸を閉めると、風の音が急に遠くなった。コートを脱ぐ前に、机に向かって、手帳を開いた。
今日の分を書くための頁に、昨日つけた点が、紙の裏から薄く透けて出ていた。指先でそこを一度なぞってから、ペンを持ち直した。
見たことを、一行書いた。
「本日午前、空き家の塀の外側、ブロックの継ぎ目に塗りの残りを見る。青に緑の混じった色。日の差し方で、灰色にも見える」
書き終えて、しばらく、その一文を見ていた。印が、一つも付いていなかった。
祖母の記法では、人から聞いた話には――談を、裏の取れていないものには要確認を、決められないものには断定不可を付ける。自分の目で見た分にだけは、何も付けない。この一年、私は、迷いもせずに、そう書いてきた。
印がないということは、これは自分の目で見た、と言い切っているのと同じだった。記法は、疑うべきものすべてに印を用意しておきながら、書いている本人のことだけは、疑わない作りになっていた。
祖母を責めるつもりはなかった。手の届かなかった場所が、一つあった。それだけのことだ。そこへ届かなかったからといって、組み立てのほうが誤っていたことには、ならない。
七つの町の頁にも、印の付いていない行は、いくつもあった。常世谷の跡で数えた家屋の礎石は九つ。あの行にも、印はない。旧台帳の戸数と合っていたから、数え違えてはいなかったのだろう。それでも、九つだと数えたのは私で、合っていると照らし合わせたのも、私だった。同じ日に見た墓標のほうには要確認を付けて、礎石のほうには付けなかった。分けていたのは、そのとき自分がどれくらい確かだと感じたか、それだけだった。
だからといって、今日分かったことを理由に、あの九つを八つや十に書き直すつもりはなかった。書き直す材料を、私は持っていない。ただ、あの行も、今日の一行と同じ作りをしているとだけは、言えた。
ペンを置かずに、すぐ下へ、もう一行足した。
「右を見るに先立ち、当方の記憶に同じ色あり。ただし、書き留めた頁はない」
書いてから、気づいた。昨日足した一行と、同じ書き方になっていた。同じ書き方になったということは、同じことをした、ということでもあった。昨日は、人の記憶に。今日は、自分の記憶に。
植え込みの陰のほうは、今日も白いままにした。この何日か、そこが白かったのは、書けなかったからだった。今日からは、理由が違う。
比べる先を持たないものを、わざわざ見に行けば、覚えているもののほうだけが減る。だから、見ないことにした。白いままなのは、今日から、選んだ結果になっていた。
窓の外で、風は、まだ電線を鳴らしていた。庭木の枝がしなっては戻る音が、遠くから届いた。手帳を閉じる前に、書いたばかりの二行を、もう一度見た。
書き終えてから、気づいた。二行とも、昨日の点の上に載っていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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