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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
十二分の町

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第三十九話 問いが先

九日目の朝は、晴れていた。


窓を開けると、乾いた光が、まっすぐ部屋の中まで差し込んできた。ここしばらく、空はずっと白く曇ったままだったので、その光の硬さに、少しのあいだ目が慣れなかった。二月の晴れは、暖かさより先に、冷たさのほうを連れてくる。息を吸うと、鼻の奥がひやりとした。窓辺の埃が、光の筋の中で、ゆっくり舞っているのが見えた。


台所でやかんを火にかけながら、昨日のことを、順に並べ直していた。商店街のクリーニング屋を出たところで、ショールの女性に呼び止められた。あの家の庭で犬を見たそうだ、と、聞いた話として、こちらに向けて言われた。自分がその出どころであることを、その場で明かした。何を見たかには触れず、誰から出た話かだけを伝えた。あのときは、それで、一つ、区切りがついたつもりでいた。


やかんの音が高くなっていくのを聞きながら、済んだ、と思っていたのは、自分の手の届く範囲でのことだったと、朝のうちに気づいた。区切りがついたのは、昨日会った、あの人とのあいだでだけだった。町を回っている話のもとを、もう一段さかのぼれば、角の家のあの人に行き着く。私が、植え込みの陰では、なかったですか、と尋ねた、あの一言だ。あの人の耳に、今のかたちで入れば、私が、あの人の話を勝手に作り変えて言い触らしたように見えるかもしれない。名乗って渡したのは、昨日、店先で会った人にだけだった。あの人には、まだ何も渡していない。


七つの町で、私は、訂正しに戻ったことが、一度もなかった。渡した一言がどこをどう回ったのか、確かめる術がないまま、切符を買って、次の町へ移っていた。そうやって、確かめずに済ませてきたことが、いくつもあった。この町では、それができない。戻れる場所にいるということは、戻らなければならないということでもあるらしかった。


行くかどうかを、迷ったわけではなかった。行かなければならないと分かっていて、それでも、玄関を出るまでには、いつもより時間がかかった。あの人が、話を聞いてどんな顔になるのか、想像がつかなかった。想像がつかないまま、玄関に立つことになりそうだった。


茶を飲み終えて、支度にかかった。コート掛けから一枚取って、腕を通した。鞄に目をやる。手帳は、今日も、居間の机の上に置いていくことにした。持てば、まだ起きていない何かを、先取りして書こうとする自分に、気づかされる。それは、この何日か、変えていない。玄関の鍵を閉め、通りに出た。




家を出て、少し歩くと、道はいつもの角に差しかかる。空き家の前を、今日も通った。傾いた門柱と、冬枯れた庭の草の黒い塊が、朝の光の中では、夜よりずっと小さく見えた。足を止めずに、通り過ぎた。今日の用事は、別のところにあった。


通りには、勤めに出る時間を過ぎた静けさがあった。自転車が一台、車輪の音を立てながら追い越していった。電柱の陰から、猫が一匹、こちらをちらりと見て、また塀の向こうへ消えた。どこかの庭木で、鳥が短く鳴いた。日射しは強くないのに、影だけがはっきりしていた。


角を折れると、生垣が見えた。低いブロックの塀、玄関までの通路に並ぶ素焼きの鉢、丸く整えられた低木。窓にはレースのカーテンがかかり、表札には姓だけが小さく出ている。三日前に一度来た道だった。あのときと変わったところは、何もないように見えた。低木の枝先だけが、心なしか、少し伸びていた。


門の前に立った。三日前は、探す手より先に、玄関脇の戸が開いた。呼び鈴なら、あのときに探して、見当たらなかった。今日は、こちらから声を出すしかない。用事のない家の前に立つのは、この一年で何度もしてきたはずだった。それなのに、最初の一言が、すぐには出てこなかった。少しのあいだ迷ってから、玄関のほうへ一歩近づいて、声をかけた。


奥で、かすかに音がして、しばらくしてから、戸が開いた。出てきたのは、三日前と同じ老人だった。上着も、あのときと同じものに見えた。


「先日は、どうも」


「こちらこそ、ご迷惑をおかけしました」


老人は、少し首をかしげ、それから、ふと表情を和らげた。それきり何も言わずに、空を見上げた。


「今日は、よく晴れましたね」


「そうですね」


つられて見上げると、雲一つない青だった。三日前、犬の話を聞いたときは、風がないことを言われた。今日は、それが晴れに変わっただけで、同じような一言から、話は始まった。


「今日は、何か」


「先日こちらで伺った犬の話が、町で少し形を変えて回っています。出どころは、私です」


まだ何も聞いていない顔だった。老人が黙って続きを待っているので、私は、言葉を選びながら続けた。


「あのとき私は、植え込みの陰では、なかったですか、と伺いました。そこだけが残って、私が庭で見た、という形になって、回っているようです」


説明するには、自分が何と尋ねたかを、もう一度、口にしなければならなかった。三日前は尋ねる形だった一言を、今日は訂正のために、同じ人へ、もう一度差し出すことになる。渡すたびに、同じものを一度ずつ手放している気がした。


老人は、しばらく黙って庭のほうへ目をやり、それから「植え込みの陰」と、確かめるように声に出した。


「植え込みの陰、ですか」


もう一度、間があった。指先で、上着の袖口を軽くつまむような仕草をした。


「門のところだと、あのときは申し上げましたな。今も、そう思いますが」


「ええ」


「ただ、言われてみると、植え込みのほうにいるのを見たことも、あったような気も、しないではない」


三日前は、はっきり退けられた言い方だった。植え込みの陰と言われても、そこまでは覚えがない。門のあたりに繋がれていた記憶のほうが確かだ。そういう返り方だった。そう答えた人が、今は、半分だけ、言い方を変えていた。門の前に立ったまま、私は、その変わり方を、目の前で見ていた。


手帳には、門のところ――談、と書いてある。だが、あの行は、私が書いたものだ。話した当人の字ではない。この人が、門のところだったと言わなくなってしまえば、あの行を支えるものは、私の覚えているほかに、何も残らない。聞いた話を確かに残したつもりの一行が、聞いた相手の側が動いたとたんに、足場を失っていた。


「いえ、門のところだと、はっきりおっしゃいました」


言ってから、気づいた。それもまた、この人の記憶に、手を入れることだった。訂正するために来たはずが、訂正の言葉そのものが、もう一度、同じことをしている。


三日前に一度、今日もう一度。同じ一言を、同じ人に、二度入れたことになる。一度目は尋ねる形で、二度目は訂正する形で。向きが違うだけで、していることは、同じだった。尋ねることも、訂正することも、この人の記憶の同じ場所に、手を伸ばしている点では変わらなかった。


「これ以上は、伺わないことにします」


老人は、困った様子もなく、こちらを見た。


「そんなに、大事なことですか」


悪意のない声だった。むしろ、こちらを気遣うような響きのほうが強かった。答えを、持っていなかった。


「大事かどうかは、私にも分かりません。ただ、動かしてしまったのが、私なので」


「気になさることはありませんよ。古い話ですから」


老人は、そう言って、少し笑った。皺の寄った目もとが、やわらかくなった。困っているのは、こちらだけらしかった。


三日前の朝、あの家の隣の方には、調べている理由を尋ねられて、最後まで言葉にできなかった。同じ日の昼、この門の前では、祖母の行き先を尋ねられて、差し出せるものが何もなかった。今日は、理由でも事実でもなく、それがなぜ大事なのかを、言えずにいた。この家に戻ってから、答えられないことばかりが、一つずつ増えていく。


「お邪魔しました」


「いえ。お気をつけて」


頭を下げて、門の前を離れた。少し行ってから振り返ると、老人はまだそこに立っていた。目が合うと、軽く頭を下げて、家の中へ戻っていった。閉まる戸の音が、思ったより静かだった。




帰り道は短かった。晴れているぶん、影が濃かった。塀の続く道に、自分の影が、はっきり落ちていた。電線の上に、鳥が一羽、じっと動かずにとまっていた。空き家の前を通るときも、今日はもう、目を向けなかった。来たときより、足の運びが重く感じられた。荷物は何も増えていないのに、そう感じるのが、自分でも不思議だった。


途中で、向かいから来た女性と行き会った。向こうが先に会釈をしてきたので、こちらも頭を下げた。顔に覚えはなかった。それでも、向こうには、こちらが誰なのか通じているらしかった。この何日かで確かに増えたのは、そういうもののほうだった。


家に着いて、居間の机に座った。手帳を開き、三日前の頁を探した。


「角の家の男性より聴取。茶色の、大きくはない犬、門のところに繋いであった由――談。犬の名は当人も知らず」


自分で書いた行を、しばらく見ていた。厚みのある紙に、ペン先の跡が、うっすら残っている感触があった。消さなかった。訂正もしなかった。かわりに、そのすぐ下に、一行だけ足した。


「右の聴取に先立ち、当方より『植え込みの陰ではなかったか』と問う。問いが先」


尋ねた側の言葉を、一行も書いていないことに気づいたのは、昨日のことだった。あのときはそれを、書き足りていないだけだ、というくらいに思っていた。置き場所は、考えるまでもなく決まった。伝聞の行の、すぐ下だった。


解決していないことは、まだ三つあった。一つは、植え込みの陰と、塀の色を、今日も書けないこと。欄は、白いままだった。一つは、この一行を足したところで、老人の記憶が動いたことは、取り消せないこと。もう一つは、七つの町の頁には、この一行を足せないこと。どの町でも、自分が何をどう尋ねたのかは、もう覚えていなかった。


祖母の記法は、聞いた話を確かに残すための形だったのだろう。聞いた側が、話を動かしてしまう場合のことは、考えられていない。祖母は、どの町にも、数日しかいなかった。動かしてしまった先を、見ないまま、出ていたのかもしれない。それを責めるつもりは、なかった。届かなかった場所が、あったというだけのことだ。届かなかった場所があることと、祖母の記法が間違っていたこととは、別のことだった。


手帳のページを繰り、七つの町の頁を、順に見ていった。――談の付いた行は、どれもそのまま残っていた。今日知ったことを理由に、それを遡って疑うつもりはなかった。確かにそうだと言い切れる材料は、私にはない。かといって、違うと言い切れる材料も、ない。


植え込みの陰と、塀の色を書くための、白い場所に、ペン先を置いた。しばらく、そのまま動かさずにいた。窓の外では、日が、まだ高いところにあった。今日のようによく晴れた日でも、白い場所は白いままだった。ペン先の重さだけが、指先に伝わっていた。何かを書こうとしたわけではなかった。書けることがないまま、ただ、そこに置いていただけだった。持ち上げると、跡に、インクがわずかに滲んで、小さな染みになっていた。消さなかった。


白かったところに、点が一つだけ残った。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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