第三十八話 出どころ
八日目の午後は、湯呑みを洗うところから始まった。
台所の水音が止むと、家の中は、しんとした。手帳は、居間の机に置いたままにしておいた。今朝あそこまで書いて閉じたものを、もう一度開く用事はなかった。旅のあいだなら、八日目といえば、とうに次の町へ移る支度をしている頃だった。荷物をまとめる手間が、ここでは要らない。
壁の時計は、正午を少し回ったところだった。窓の外の曇りは、朝のまま晴れていなかった。コート掛けに目をやって、思い出したことがあった。六日目の夜、電柱に背中を預けたまま、四十分ほど立っていた。そのあいだに、背中と袖のあたりが、ずいぶん埃っぽくなっていた。明るいところで見ると、そのまま着るのも、しまい込むのも、どちらも気が引ける汚れ方をしていた。
コートを腕に掛けて、支度をした。財布だけを鞄に入れる。手帳は、今日も置いていく。持って出れば、まだ何もないところへ、書く構えのほうを先に運ぶことになる。この何日か、そうしないと決めて、そのとおりにしてきた。今日も、同じでよかった。
玄関を出て、鍵を閉めた。歩き出しながら、今朝のことを、もう一度だけ思い返した。結論は出ている。長く考える必要はなかった。ただ、頭の隅には、別のことが残っていた。二日前の午後、あの角の家の門の前で、私は一度だけ、胸の内にしかなかったものを声にしている。植え込みの陰では、なかったですか。あの一言が、そのまま消えたのか、それとも、もうどこかを回り始めているのか。確かめる方法は、なかった。
商店街は、駅までの十二分の、少し手前にある。通りは平日の昼の顔をしていて、子どもたちの下校には、まだ間があった。自転車の音。宅配の台車を引く音。どこかの台所から流れてくる匂い。生垣の刈り込みも、物干し竿の角度も、いつもと変わらなかった。見慣れた道を、見慣れた速さで歩いた。コートを腕に掛けたままなのが、少し落ち着かなかった。
クリーニング屋は、商店街の中ほどにあった。ガラス戸の内側に仕上がった品がずらりと吊るされ、袋越しに、色とりどりの布地が透けて見えた。戸を引くと、温かい空気と一緒に、蒸気の匂いが出てきた。奥のほうで、アイロンが台に当たる音が、間を置いて二度した。カウンターの上には、受け取りを待っている札が、輪ゴムでまとめて置かれていた。年配の男性が出てきて、コートを広げるでもなく、汚れの具合だけを一目で見た。
「これは、時間かかりますよ」
「かまいません」
「三日後、また来てください」
札の付いた紙を渡された。番号と、日付だけが印刷されている。受け取って、財布の内側にしまい、店を出た。
戸の外に出たところで、声がかかった。振り向く前に、聞き覚えのある声だと分かった。
「あら、この前の」
振り返ると、厚手のショールを肩から羽織った女性が立っていた。惣菜屋の列で見た顔だった。あのとき、店の女性と世間話をしていた人だ。ショールの端を指でつまみ直す仕草にも、見覚えがあった。買い物帰りらしく、片手に小さな袋を提げている。
「こんにちは」
会釈をすると、向こうも軽く返してきた。急いでいる様子はない。ここで少し立ち話をするつもりらしかった。
「寒いですねえ。今日は、ちっとも日が出なくて」
「そうですね」
「クリーニングですか。この時季は、出すだけで一仕事ですよ」
袋を提げ直しながら、そんなことを言った。それから、思い出したというふうに、少し声の調子を変えた。
「聞きましたよ。あの家のお庭で、犬をご覧になったんですって」
足を止めたまま、その一言を、頭の中で組み立て直していた。
私が口にしたのは、角の家の老人に向けた問いだけだった。植え込みの陰では、なかったですか。尋ねる形をしていたものが、いつのまにか、答える形になっている。そこにいたのだ、と言い切る形に。
老人が実際に口にしたのは、門のところ、というほうだった。そちらは、今の一言から落ちていた。残っているのは、私の記憶にしかなかったはずの場所だけだ。
いつのことかも、落ちていた。私が覚えているのは、小学校の行き帰りのころだ。今の言い方には、その先が付いていない。あの家に犬がいた、その庭で見た、というだけになっている。
そして私は、見た、とは一度も言っていない。尋ねただけだ。それなのに、見た人になっていた。
尋ねた形が答えの形になり、場所が一つに絞られ、時期が落ち、尋ねた人が見た人になる。四つとも、誰かが悪意で曲げた気配はなかった。運ばれるあいだに、そうなっていっただけだ。角が取れた分だけ、話としては通りがよくなっている。通りがよくなった分だけ、元の形からは遠くなっている。七つの町で書き留めてきた噂も、たぶん、同じ道を通ってきていた。その道の入り口に、今日は、私の口から出た一言が立っていた。
「犬、いたんですってね。庭に」
女性は、続きを促すような顔をしていた。責める色はない。むしろ、ちょっとした拾いものをした、というくらいの顔だった。
ここで訂正しようとすれば、言うべき言葉は、もう決まっていた。私は見ました。小学校のころ、植え込みの陰で。それを言えば、今朝やらないと決めたことを、もう一度、同じ手つきでやることになる。人に渡す気のなかったものを、今度は私の口から渡すことになる。
黙っている手もあった。黙れば、この一言は、私が言っていないことのまま、この人の手の中に残る。それも、選べなかった。目の前の人は、悪いことをしているつもりなど、少しもないのだった。
そのどちらでもない場所に、まだ立てる隙間があった。中身を繰り返さずに、出どころだけを渡す。
「その話は、私が出どころです」
女性が、まばたきをした。すぐ横を、自転車が一台、前かごを鳴らしながら通り過ぎていった。
「角のお宅で、そういうふうに伺っただけで、見た、とは言っていません」
一拍、間があった。女性の顔から、さっきまでの期待めいた色が、すっと引いていった。
「なんだ、そうなの」
拍子抜けした声だった。出どころが分かったとたん、話は急につまらないものになったらしい。この一年、七つの町で私が追いかけてきたのは、ちょうどこの逆だった。辿れないから、話は残る。辿れてしまえば、そこで終わる。今日は、その終わりのほうを、私が作っていた。
「じゃあ、犬はいなかったの」
「いたかどうかは、私には分かりません」
女性は、小さく笑った。
「難しいことを言う人ねえ」
それだけ言って、袋を提げ直し、来た道とは反対の方角へ、ゆっくり歩いていった。ショールの端が、歩くたびに揺れていた。
その後ろ姿を、少しのあいだ見ていた。あの人も、誰かに会えば、たぶん今のことを話すのだろう。皆瀬さんとこのお孫さんが、自分が出どころだと言っていた、と。それが渡るあいだに、また形を変えないとも限らない。止められるものではなかった。ただ、次に誰かの口へ乗るときには、そこに私の名前が付いている。名前の付いた話は、辿れる。辿れる話は、そう遠くまでは行かないはずだった。
来た道を戻った。空は、相変わらず白く平らなままだった。
七つの町でも、私は似たような尋ね方をして回っていた。何かありませんでしたか。そういうことは、ありませんでしたか。踏み込みすぎない言い方のつもりで、そう尋ねてきた。
島根の宇津良町では、宿の奥さんに、こう尋ねたことがある。もし、どの家も明かりを点けていない晩があったら、どうなるんでしょう。奥さんは湯呑みを持ったまま黙って、それから台所へ立ち、しばらく戻ってこなかった。あのとき私は、聞き方が悪かったのだろうかと考え、悪かったのは聞き方ではなく、聞いた場所だったのだと片づけた。次の朝には、それで終わりにしていた。
片づけるのが、少し早かったのかもしれない。今日、そう思った。
思い出したことが、もう一つあった。いちばん最初の町で、矢代さんという老人に言われた一言だ。行くなら、聞き方には気をつけなさい。あのときは、うまく聞かなければ話してもらえない、という意味だと受け取った。一年のあいだ、その意味のまま持ち歩いてきた。同じ言葉が、今日は、別の向きに立って見えた。うまく聞きすぎれば、聞いていないことまで、向こうの口から出てくる。あの人がどちらの意味で言ったのかは、分からない。確かめに行くには、あの町も遠かった。
手立ては、やはりなかった。宇津良町にも、ほかの六つの町にも、私は次の日にはもういなかった。尋ねた一言がその後どこを回って、誰の口でどんな形になったのか、知りようがない。どの町も、話の続きを見届ける前に、出てしまっていた。切符を買ってしまえば、それで区切りがついた。区切りがつくたびに、確かめずに済んできたことも、ある。
あの町に何かを残してきたのだと、決めつけるつもりはなかった。そうだと言えるだけのものを、私は何も持っていない。ただ、そうでなかったとも言えないだけだ。それだけを、歩きながら思った。通りには、買い物帰りらしい人が、一人、また一人と過ぎていった。誰も、私のほうを気に留めなかった。
家に着いて、居間の机の前に座った。手帳を開き、七つの町のページを、順に繰った。
どの頁にも、聞いた話は書いてある。誰から聞いたか、いつ聞いたか、どういう形をしていたか。祖母の記法を真似て、丁寧に書き込んできたはずだった。――談の付いた行が並び、そのあいだに、この足で確かめた分が挟まっている。どの町の頁も、そういう作りになっていた。何度も読み返してきたので、どこに何があるかは、繰らなくても大体分かる。
私がどう尋ねたかは、どこにも書いていなかった。一年のあいだ、聞かれた側の言葉ばかりを写して、尋ねた側の言葉は、一行も残していない。尋ねるほうにも形があることに、今日まで気づいていなかった。今さら気づいても、書き足せるものは、もう多くない。
ペンを持って、今日の分を書いた。
「本日午後、商店街にて。角の家で尋ねた一件につき、出どころを明かす。見た、とは言っていない」
書き終えて、ページを繰った。植え込みの陰も、塀の色も、書き込む場所は、今日もこしらえなかった。そのあたりは、白いまま残しておいた。書けるようになったのは、尋ね方のほうだ。覚えていることのほうは、相変わらず、入れる場所を持たないままだった。片方が進んでも、もう片方までは動かないものらしい。
窓の外は、まだ白く曇っていた。日の位置は、今日も、最後まで分からなかった。手帳を閉じて、机の隅の財布を引き寄せた。開いたとき、預かり札が目に入った。番号と、三日後の日付だけが印刷された、小さな紙だった。指先で角を一度なぞってから、財布に戻した。
三日後も、私はこの町にいる。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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