第三十七話 作らない
紙袋は、家に着くまで温かかった。
台所の灯りをつけて、皿を二枚出した。コロッケを一つずつ移し、きんぴらは小鉢に空けた。揚げたてだったころもは、歩いてくるあいだに、少ししんなりしていた。それでも、温め直す気にはならなかった。この家に戻って、七日目の夜だった。
向かいに誰もいない食卓で、一人で食べた。箸を置くたびに、店先の声が戻ってきた。
同じことでしょう。
言い返さなかった理由を、うまく説明できなかった。言い返したところで、あの人が困るだけだ。そう思ったのは本当だが、それだけでもなかった。見えなかった、というだけです。口に出したときには筋が通っていたはずの言い分が、一人になって並べ直してみると、思っていたより頼りなかった。頼りないほうが正しいのだということを、あの店先で、どう示せばよかったのか。
もう一つ、背中で聞いた声があった。ついてなかったって。私が口にしたのは、灯りは見えなかった、というところまでだった。それが、店を出るまでのあいだに、ついてなかった、に変わっていた。私が知っているのは、四十分のうちのことでしかない。その前も、そのあとも、あの窓がどうだったのかは、誰も見ていない。変わったのは一語だけで、意味のほうは、まるきり別のものになっていた。
片づけを済ませて、居間の机に向かった。手帳は、朝と同じ場所に置いてあった。今日は、持って出なかった。
白紙のページを開いて、ペンを持った。
書くことなら、あるはずだった。今日、私は名乗った。それは、私のしたことだ。惣菜屋の店先で、昨夜の件につき自ら名乗る。そう書けば、それで済む。
もう一つ、書けるものがあった。列に並んでいるあいだに聞こえた立ち話だ。空き家の前に人が立っていた。ずいぶん遅くまで、じっと。若い女の人らしい。これは人の口から出た言葉だ。だから、――談の付く行になる。なってしまう、と言うほうが近かった。
指が止まったのは、そこだった。
――談を付ければ、その行は、私が誰かから聞いた話になる。中身は、昨夜、私がしたことだ。私のしたことを、他人の口を一度通してから、聞いた話として書き留める。手つきとしては、何も間違っていない。実際に、そう聞いたのだから。
それでも、ペンは動かなかった。何が引っかかっているのかを、言葉にできなかった。
しばらくそうしていて、手帳を閉じた。書けなかったわけではない。どう書くかが、決まらなかっただけだ。決まらないものを、今夜のうちに決めてしまう必要はなかった。灯りを消して、寝た。
八日目の朝は、曇っていた。
台所の窓から見える空は、白く平らで、日の位置が分からなかった。昨日より、いくらか暖かい気がした。昨夜のうちにまとめておいた袋を提げて、家を出た。
通りは、平日の朝の顔をしていた。どこかの玄関で、鍵を回す音がした。後ろから自転車が来て、脇を抜けていった。向かいの塀の上を、鴉が一羽、人のいるほうを見もせずに歩いていた。遠くで、収集車の止まる音がした。まだ、この通りではなかった。
集積所は、角を一つ曲がったところにある。青いネットの端が風でめくれて、先に出された袋が、四つ五つ、寄せて置かれていた。
近づいていくと、女性が二人、そのそばで立ち話をしていた。どちらも、六十を過ぎたくらいに見えた。片方は薄手のダウンを羽織り、もう片方は、割烹着の上からカーディガンを着ていた。袋は、二人とももう置いたあとらしかった。
こちらには、まだ気づいていなかった。
「それが、この前の晩の話でね」
「まあ」
「夜中まで立ってたんですって。あの空き家の前に」
足が、半歩ぶん遅くなった。
「よく、そんなこと」
「皆瀬さんとこの、お孫さんよ」
「ああ、皆瀬さんの」
「灯りを見に行ったらしいの。そういう話があるからって」
袋を提げたまま、私はそこに立っていた。
昨日の夕方に私の口から出た一言が、一晩のあいだにどこかを回って、ここへ戻ってきていた。形は、少し変わっていた。
一昨日の晩、というところが、この前の晩、になっていた。いつのことなのかは、もう誰も言わない。ずいぶん遅くまで、というところは、夜中まで、になっていた。若い女の人、という言い方は、どこにも残っていなかった。
昨日、店の女性が次の客に言っていた一言も、今朝は出てこなかった。ついてなかったって、というところだ。伸びるものと、落ちるものがある。どちらも、誰かが意地悪でそうしたわけではないのだろう。
私が立っていたのは、七時二十分から四十分ほどだ。八時を少し過ぎたところで、腕時計を見た。夜中というのは、たぶん、そういう時刻のことではない。
訂正の言葉は、口の中で、もうできていた。夜中ではありません。八時過ぎには帰りました。言えば、三十秒もかからない。
言わなかった。
言えば、その場では直るかもしれない。直ったところで、次に渡るときには、また少し違うものになる。今度は、訂正したという話が、一緒に渡っていくだけだ。私が持っているのは、あの四十分だけで、その四十分は、渡した先で四十分のままではいられない。昨日の店先で気づいたことの続きが、今朝、目の前にあった。
片方が、ふと顔を上げて、こちらを見た。
声が、一拍だけ切れた。
「あら」
「おはようございます」
袋を置いて、会釈をした。気まずさは、思ったより短かった。割烹着の人が、先に笑った。
「あなたなんですってね」
「はい」
「寒かったでしょう。この時季に、あんなところで」
「少し」
そんなには、と言いかけたが、口の中で消した。そんなには、という言葉は小さすぎて、夜中まで、には届かない。
「うちの人なんか、暗くなったら外へ出やしませんよ」
二人は、笑った。責める色は、どこにもなかった。むしろ、面白い話を一つ手に入れた、という顔だった。
「そのお話、どなたから聞かれたんですか」
尋ねてから、聞き方が固かったことに気づいた。旅先で身についた癖だった。
「どなたって。ねえ」
割烹着の人が、もう一人のほうを見た。もう一人は、少し考える顔をした。
「昨日の夕方、うちの前で立ち話をしていて。誰だったかしら」
「私も、そう。誰に聞いたんだったかしらねえ」
二人とも、隠すふうもなく、思い出せなかった。一日しか経っていない。それでも、もう辿れなかった。
七つの町で、私は何度も同じところで止まった。誰から聞いたのかを尋ねていくと、二人目か三人目で、道が途切れた。途切れるのは、その人たちが伏せているからだと思ったことも、覚えていないふりをしているのだと疑ったこともある。そうではなかったのかもしれない。本当に、覚えていないのだ。今朝、私は、その途切れ方のいちばん手前に立っていた。手前に立っていても、道は見えなかった。
「じゃあ、また」
「ええ。風邪をひかないようにね」
二人は、それぞれの方角へ帰っていった。ネットの端が、また風でめくれた。押さえ直してから、家へ戻った。
台所で、湯を沸かした。
やかんの音が高くなるのを待ちながら、さっきのやり取りを順にたどっていた。そのうちに、一つのことに行き当たった。
一日で戻ってくるのだ。
昨日の夕方に私が言った一言は、今朝には、知らない人の口から私のところへ返ってきた。誰が運んだのかは、運んだ本人たちにも分からない。分からないまま、返ってくる。
火を止めた。やかんが、静かになった。
あの犬がどこにいたかを、誰かに話せばいい。
角の家の人でもいい。空き家の隣の人でもいい。あの犬は、庭の植え込みの陰にいた。塀は、褪せる前は緑がかった青だった。世間話のついでに、一度そう言うだけでいい。明日か、明後日か。どこかの店先で、誰かが誰かにそれを話す。巡って、私のところへ戻ってくる。
戻ってきたときには、それは、人から聞いた話になっている。
――談が、付く。
この何日か、私はそこで止まっていた。犬がいたことなら、一昨日、角の家の人が話してくれた。あの分には、もう――談が付く。けれど、植え込みの陰にいたというところと、塀の色とは、あの人の口からは出てこなかった。その二つを持っているのは、今のところ私ひとりだ。印の付けようがない。要確認と書けるものでもない。行って済むことではないからだ。その壁を、正面から越えるのではなく、回り込んで越える道が、たしかに、あった。
机に戻って、手帳を開いた。ペンを持ったまま、ずいぶん長いあいだ、動かさなかった。
祖母の声のほうが、先に来た。
「伝聞は伝聞のまま。事実は事実のまま。混ぜたら、それは取材じゃない」
混ぜるな、と言われていた。これは、混ぜるのですらない。私が渡して、私が拾う。あいだに立つ人たちは、運んだことにも気づかない。出どころのほうを、こちらで作ることになる。祖母が禁じたのは混ぜることだったが、その手前に、もっとやってはいけないことがあった。この一年、思いつきもしなかった。どの町にも、翌日にはもういなかったからだ。渡したものが戻ってくるまで、同じ場所にいたことが、一度もなかった。
理由は、もう一つあった。
今朝、見たばかりだった。一晩で、四十分が夜中になった。あの二つを渡せば、返ってくるころには、私の覚えているものではなくなっている。いた場所が動くかもしれない。色が変わるかもしれない。それに――談を付けて書けば、覚えていたのではないものを、覚えていたこととして、この手帳に残すことになる。
欲しかったのは、書ける形だった。書ける形になったときには、中身のほうが、もう私のものではない。
そこまで考えて、もう一つ思い当たった。私は、すでに一度、口に出している。一昨日の午後、角の家の門の前で、植え込みの陰ではなかったかと尋ねた。あれは、私の頭の中にしかなかったものを、はじめて人の耳に入れたことになる。あの人がそれを誰かに話すかどうかは、分からない。話さないかもしれない。それでも、いつか回って戻ってくる目はある。戻ってきたときにどうするのかを、今のうちに決めておかなければならなかった。
ペンを置いた。
この一年、私は噂の元を探して歩いてきた。会えたこともあったし、会えないままだったこともある。元に近づくほど、話は静かになっていった。派手なのは、いつも遠いところにいる人の口のほうだった。
元の側に立ってみて、一つだけ分かったことがある。元にいる人が、嘘をついているとは限らない。自分の目で見たものを、一人では証明できない人が、それでも誰かに一度だけ話す。そこから先は、もう本人の手を離れる。離れたあとの形を、本人は選べない。
そういうこともあるのかもしれない、と思っただけだった。全部がそうだと言い切れるだけのものを、私は持っていない。確かめる方法も、やはりなかった。
湯を沸かし直して、茶を淹れた。机に戻って、手帳のページをめくった。植え込みの陰と、塀の色のことを書く欄は、今日も作らなかった。そのページは、白いままにしておいた。いつか書けるようになるのかどうかは、分からない。書けるようにする道なら、今朝、一つ見つけた。使わないと決めただけだ。
一昨夜、と書いた。町では、もう、この前の晩になっている。いつのことだったのかを持っているのは、今のところ、私だけらしかった。
「昨日夕刻、惣菜屋店頭にて、一昨夜の件につき自ら名乗る。植え込みの陰と塀の色の件、――談は作らない」
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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