第三十六話 立っていた人
窓の外が明るくなっていることに、布団の中で気づいた。カーテンの隙間から漏れる光は、思っていたより白く、乾いていた。二月の朝の光には、いつも少し硬さがある。枕もとの時計は、八時を回っていた。いつもより、ずいぶん遅い。家に戻ってから、七日目の朝だった。
しばらく、天井を見ていた。家の中は、しんと冷えていた。昨夜の冷たさが、まだ骨のどこかに残っている気がした。足の先も掌も、とうに普通の温度に戻っているはずなのに、思い出そうとすると、あの冷たさのほうが先に返ってくる。
起き上がって、鞄から手帳を出した。最後に書いたページを、朝の光の下で、もう一度たどった。行の頭の時刻の数字は、いつもの私の字に見えた。「灯り、確認できず」のところで、指が止まった。書きながら気づいていた震えは、明るいところで見ると、思っていたよりはっきり、字の線に残っていた。何も起こらなかった夜のはずなのに、字のほうは、何か別のことを覚えているように見えた。書き直さなかったことを、悔やむ気持ちはなかった。
数ページ前には、商店街の八百屋の前で聞いた灯りの話が、――談を付けて残っている。人から聞いた話と、私のしたこととが、同じ手帳の中で、何枚かを隔てて並んでいた。
手帳を閉じた。今日は、あの家の前には行かないことにした。理由を、言葉にする気にはなれなかった。ただ、今日はやめておく。それだけを、先に決めた。次にまた夜に行くのかどうかは、決めずにおいた。
朝食を済ませ、家の中のことを一通り片づけた。昼は、残り物で簡単に食べた。味は、いつもよりぼんやりしていた。午後は、居間で古い雑誌をめくって過ごした。同じページを何度も眺めているのに、中身はほとんど頭に入ってこなかった。この一年、予定のない一日というものを、私はほとんど持たずにきた。いつも、次の町へ向かう切符か、宿の予約か、訪ねる先があった。持ってみると、どう扱えばいいのか分からなかった。
西日が、居間の畳の上を、少しずつ移っていった。机の上には、閉じたままの手帳が置いてある。もう一度開きはしなかった。今日書くことは、何もないはずだった。
窓辺に座って、通りを行く人を、なんとなく目で追った。自転車の人、買い物袋を提げた人、郵便の配達。角の平屋の老人のことや、空き家の隣の女性のことを、少しだけ思い出した。どちらの名前も、私はまだ知らない。向こうは、私が誰の孫なのかを知っている。
昨夜、暗がりで会釈を交わした人のことも思い出した。ごみ袋を提げて、空き家のほうへ一度だけ目をやり、何も言わずに行った人だった。あの一瞬が、今日のどこかで、誰かの立ち話に混じっているかもしれない。そう考えると、外へ出るのが、いつもより少しだけ重かった。
日が傾きはじめたころ、夕食は惣菜で済ませることにした。台所に立つ気力が、今日はあまり残っていなかった。コートを羽織り、鞄には財布だけを入れた。手帳は、置いていった。
薄暗くなりかけた通りを、駅前のほうへ歩いた。空の端が、橙色に変わりはじめていた。すれ違う自転車のライトが、一つ、また一つと点いていく。学校帰りらしい子どもの一団が、笑い声を残して、角の向こうへ消えていった。どこかの家の台所から、煮物の匂いが流れてきた。
小学校の塀沿いを歩いた。校庭には、もう誰もいなかった。ランドセルを背負って友達と通る私を、角の平屋の老人は、見かけていたらしい。私のほうは、あのころ誰と並んで歩いていたのかも、うまく思い出せない。
あの家のほうへ折れる角の前は、そちらへ目を向けないまま、少し足を速めて通り過ぎた。誰かに見られているような気がしたのは、たぶん、気のせいだった。
商店街に着くころには、空の橙色も、消えかけていた。半分ほどの店が、シャッターを下ろす支度に入っている。八百屋の店先に、今日は立ち話をする人の姿はなかった。クリーニング屋の窓には、仕上がった上着が、袋をかぶって並んでいた。その中で、惣菜屋の前だけが、明るい光と揚げ物の匂いを、通りにこぼしていた。
店先には、先に並ぶ客が四、五人いた。私も、その後ろについた。ガラスのケースの中で、コロッケと唐揚げが、湯気を立てて山になっている。奥の揚げ鍋から、油のはじける音が、途切れずに続いていた。壁に貼られた品書きの紙は、隅が少しめくれていた。店の奥からは、小さくラジオの音が漏れていた。
カウンターの向こうで、年配の女性が、揚げたてを次々とバットへ移していた。この店の人らしかった。その手もとを見ながら、買い物かごを提げた女性が、世間話をしていた。年格好は、店の女性と同じくらいに見えた。厚手のショールを、肩から羽織って、その端を何度も指でつまみ直している。会計はもう済んでいるようで、帰りそびれたまま、話のほうだけが続いているらしかった。寒い時季には、この店の前にだけ、小さな人だまりができる。
列の前のほうで、小さな子どもが、コロッケを指差して母親にねだっていた。母親は、笑いながら首を横に振っていたが、順番が来るころには、子どもの手にコロッケが一つ握らされていた。ありふれた夕方だった。
列は、少しずつ進んだ。今日の寒さの話や、値上がりした野菜の話が、しばらく続いていた。そのうちに、二人の声の調子が、ふっと変わった。
「昨夜、あの空き家の前に、人が立ってたんですって」
「あの家の前に」
「暗くなってから、ずいぶん遅くまで、じっと。見た人がいるのよ」
「灯りでも、見に来たのかしらね」
「さあ。見た人も、声まではかけなかったらしいから」
「どんな人」
「若い女の人だったって。暗くて、顔までは分からなかったらしいけど」
聞くつもりはなかったのに、耳のほうが、勝手に話の形を追いかけていた。いつ、誰が見て、どれくらいの間。旅のあいだに身についた聞き方が、夕方の惣菜屋の列でも、そのまま動いていた。
若い女の人、というところで、その耳が止まった。並ぶあいだに出しておいた財布を、いつのまにか握りしめていた。
手帳には、四十分ほど道路の上にいた、ということしか書いていない。同じ夜が、この店先では、ずいぶん遅くまで、じっと、になっていた。
じっと、というのは本当だった。足踏みもこらえて、立っていた。若い女の人、というのも、外れてはいない。灯りを見に来た、という推測にいたっては、誰にも尋ねられていないのに、当たっていた。ずいぶん遅くまで、というところだけが、少し違う。けれど、話を聞いただけでは、どこが本当でどこが違うのか、見分けようがなかった。見分けられるのは、あの四十分を、私が持っているからだった。
一つの夜が、私の手帳には事実として、ここでは伝聞として、同時にあった。この一年、祖母のノートの上でも、七つの町でも、私のところへ届く話は、たいてい、誰かのしたことが、別の誰かの口を通ってきたものだった。
見た人がいる、という言い方も、これまで聞いて回ってきた噂と、そっくり同じ形をしていた。その形の向こうにいるはずの誰かを、私はずっと探して歩いてきた。今、その向こう側に立っているのは、私だった。
北海道の町で、足跡のことを調べている人間がいると伝え聞いて、宿まで来てくれた人がいた。名前を名乗って、それは書かないでほしいと言い、それから帳場の椅子に座って、「あれ、私です」と、自分の口で言った人だった。あの一言を言いに来るまでに、あの人がどれくらい迷ったのかを、私は尋ねなかった。
黙っていれば、この話は、このまま次の誰かに渡っていく。暗くて顔の分からない、若い女の人のままで。
名乗れば、その先は、私の名前のついた話になる。明日には、それがまた別の店先へ運ばれていくのだろう。どちらを選んでも、話そのものは止まらない。選べるのは、話の中に立っているのが誰か、というところだけだった。
列は、あと二人だった。前の人が、唐揚げをいくつにするか迷っている。揚げ鍋の油が、またひとしきり高い音を立てた。二人の話は、もう次の話題へ移りかけていた。言うなら、今しかなかった。私は、半歩だけ前へ出た。
「すみません。それ、たぶん、私です」
二人の顔が、そろってこちらを向いた。後ろに並んでいた誰かの気配も、一瞬、止まった。明るい店先の光の中で、昨夜は誰にも見えなかった顔を、今は皆に向けていた。
「この近くの、皆瀬です」
知られる前に、名乗っていた。今日は、順番が逆にならなかった。祖母の名前を、先に置いたのではない。私の名字を、私の声で言っただけなのに、耳の奥が、少し熱かった。
店の女性が、トングを持った手を止めて、目を丸くした。少し遅れて、客のほうが、口もとをゆるめた。
「なんだ、そうだったの」
驚いたというより、拍子抜けしたような笑い方だった。店の女性は、私の顔を、今度はまっすぐに見た。話の中の誰かと、目の前の私とを、重ね合わせているような目だった。
「あなただったの」
「はい」
「なんでまた、夜に」
「灯りは、夜につくと聞いたので」
客は、なるほど、という顔をして、ショールの端をまたつまんだ。店の女性は、熱心ねえ、とだけ言って、トングを持ち直した。
列の後ろの人たちは、何が起きたのか分からないまま、それでも順番だけは静かに待っていた。すぐ後ろで、誰かが連れに小声で、空き家って、と尋ねた。松のある、と答える声がした。
客が、少し身を乗り出した。
「それで、ついてた」
「見えませんでした」
「じゃあ、昨夜は、ついてなかったのね」
「見えなかった、というだけです」
小さく、言い直した。
客は、軽く笑った。
「同じことでしょう」
同じことではない、と言いかけて、やめた。揚げ鍋の音だけが、変わらずに続いていた。
前の二人が会計を済ませて、私の番が来た。コロッケを二つと、きんぴらを少し頼んだ。店の女性は、紙袋に詰めながら、こちらを見ないで言った。
「寒かったでしょう、昨夜は」
「はい。少し」
本当は、少しではなかった。
代金を払って、温かい紙袋を受け取った。指先は、まだどこか鈍いままだった。紙袋を、両手で挟むようにして持った。
礼を言って、列を離れた。外は、もうすっかり夜の色になっていた。通りの街灯も、いつのまにか点いていた。紙袋の口から、揚げ物の匂いが立ちのぼってくる。シャッターを下ろし終えた店の前を、自転車が一台、ゆっくり通り過ぎていった。二、三歩行ったところで、入れ違いに、誰かが店先へ来る足音がした。背中のほうで、店の女性の声が続いた。
「昨夜の、空き家の前の人ね。皆瀬さんとこの、お孫さんだったんですって」
「あら。それで、ついてたの」
「ついてなかったって」
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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