第三十五話 確認できず
六日目の夜は、夕食の片付けを終えたところから始まった。皿を拭き終えて、布巾を掛け直したところで、ふと台所の窓の外を見た。日はとうに落ちて、向かいの屋根の輪郭だけが、隣家の灯りを受けてぼんやり浮かんでいた。窓ガラスには、点いたままの台所の灯りと、自分の顔が並んで映り込んでいた。二月は、日が落ちるのが早い。夕方の五時を過ぎたころには、もう外はすっかり暗くなっていた。壁の時計は、七時を指していた。
今夜で、三度目になる。昨日の午後と、今朝と。どちらも、日のあるうちだった。灯りは、夜にしかつかない。人からそう聞かされていたのに、私はまだ、一度も夜に行っていなかった。分かっていたはずのことに、今になってようやく思い当たった。
以前、別の土地で、同じことを一度、考えたことがあった。昼のあいだに測れるものと、夜になって起きることとは、別のことだ、と。距離を測り、時間を測って、それで何かが分かった気になる。あのときは、その癖に気づいたことを、一つの発見のように思った。
思っただけで、手帳には書かなかった。書かなかったからかどうかは分からないが、この町でも、同じところを踏んでいた。旅先の町でも、暮らしの町でも、結局は同じ間違いを繰り返している。それだけのことだった。
コートを羽織りながら、鞄に手をやった。今朝も、昼も、手帳を入れないまま出ていた。今夜は、違った。表紙の角を指先で一度確かめてから、鞄の底に沈めた。留め具の硬い感触が、指の腹にしばらく残っていた。今夜は、調べに行くつもりで出る。そう、自分に言い聞かせた。マフラーを首に巻き付け、手袋は迷った末に置いていった。手先の感覚を、少しでも残しておきたかった。上着のポケットに、懐中電灯は入れなかった。使うつもりがないものを、持って出る意味はなかった。
外へ出る前に、一つだけ考えた。もし、あの窓が明るくなるのを、私ひとりの目で見たとして、それを手帳に書けるかどうか。誰かの口から出た言葉になら、――談という印を付けられる。今日の昼、老人の口から出た犬の話が、そうだった。だが、自分の目で見ただけのものには、確かめる相手が、私のほかにいない。書いたところで、それは、庭の記憶と同じところに落ちる。
終わったのかどうかは、誰も知らない。確かめた人が、いないだけだ。前に、そう思ったことがあった。今夜のことも、同じかもしれなかった。手ぶらで帰ってくるだけかもしれない。それでも、分かっていて、玄関を出た。
外に出ると、冷たさが頬に貼りついた。この時季の夜は、息が白くなる。吐いた息が、街灯の下で、しばらく尾を引いてから消えた。手袋を置いてきたことを、少し悔やんだ。玄関の鍵を閉める音が、静かな通りに、思ったより大きく響いた。
道は、思っていたより明るかった。等間隔に立つ街灯が、橙色の輪を路面に落としている。窓という窓には、カーテン越しの光が透けていた。台所らしい窓は白く、居間らしい窓は黄色みを帯びて見えた。テレビの音らしい低い響きが、どこかの家から漏れていた。自動販売機の前を通ると、ボタンの並びが青白く浮かび、低い唸りのような音を立てていた。夕飯の匂いが、どこかの換気扇から流れてきた。
小さな公園の前を通った。滑り台とブランコの影だけが、街灯の光の中に浮かんでいた。誰もいなかった。ブランコの鎖が、風に揺れて、小さく音を立てていた。
小さな交差点を渡った。歩行者用の信号が点滅していたが、渡る人は、私のほかにいなかった。信号が赤に変わってからも、しばらく、その場に立っていた気がした。
自転車が一台、後ろから来て、ゆっくり追い越していった。前かごの荷物が、走るたびに小さく揺れる音を立てていた。それが遠ざかると、また自分の足音だけになった。
通りの先に、コンビニエンスストアの看板が、白く光っているのが見えた。自動ドアが開き、誰かが袋を提げて出てくるのが、遠目にも分かった。角を折れると、その光も見えなくなった。
リードを引いた誰かが、少し先を歩いていくのが見えた。首輪の鈴が、規則正しく鳴っていた。昼間よりも、人の姿はずっと少ない。少ない分、通り過ぎる一人一人が、はっきり目に残った。向こうからも、同じように見られているはずだった。この時間にこの道を歩いている人間の一人に、私もなっていた。
遠くで、電車の走る音がした。踏切の音までは届かなかったが、線路を渡る低い響きだけが、しばらく尾を引いた。それが消えると、また静かになった。自分の足音だけが、はっきり聞こえるようになった。ポケットの中で、手を強く握った。冷たさが、指先から少しずつ上がってきていた。
角を折れると、あの平屋の生垣が、街灯の光の届かないところで、黒い塊になっていた。その先に、松の木の影が立っていた。近づくほど、自分の足音が大きく聞こえた。速さを緩めても、変わらなかった。
家の前に立って、初めて気づいたことがあった。昼間、聞いて回っているのは、いつも私のほうだった。今は、逆だった。暗い中、空き家の前にじっと立っている人間がいれば、それだけで人目を引く。何も聞かなくても、立っているだけで、知られてしまうのかもしれなかった。明日、誰かの立ち話に、今夜のことが混じるかもしれなかった。
角の平屋の老人も、もう眠っているだろうか。窓の並びを目で追ってみたが、光っている窓は少なかった。この道沿いに住む誰もが、今夜だけは、自分にとって未知の相手だった。
両隣の家には、まだ灯りがついていた。片方は、二階の窓が明るく、もう片方は、玄関先の小さな灯りだけがついていた。並んでいると、あの家の暗さのほうが、かえって目立った。
傾いた門柱の輪郭が、闇の中でもかろうじて見分けられた。庭に伸びた冬枯れの草が、膝のあたりまでの黒い塊になって揺れていた。軒先から垂れた樋の先が、風にわずかに音を立てていた。松の枝が、街灯の光を細かく遮って、地面にまだらな影を落としていた。
塀の前で、足を止めた。中には入らない。塀も越えない。窓に顔を近づけることも、灯りを持って照らすこともしない。ここから、見える範囲だけにする。声には出さず、そう決めた。これ以上は、しない。決めてしまうと、それ以上、迷うことはなかった。自分で引いた線の内側に、今夜はとどまるつもりだった。
耳を澄ませてみた。中からは、何も聞こえなかった。木がきしむ音も、水道の音も、何一つしなかった。静まり返っているという点では、昼に見たときと、変わらなかった。
道の向かいの電柱に、寄りかかった。ここからなら、二階の窓の全体が見渡せた。街灯に照らされて、自分の影が、路面に長く伸びていた。足もとの敷石には、薄く霜が降りていた。踏むたびに、かすかな音がした。しばらくは、ただ、窓を見ていた。何も起きなかった。
風が出てきた。生垣の葉が、乾いた音を立てて揺れた。手を、コートのポケットに入れ直した。足踏みをしたいのを、我慢した。音を立てたくなかった。冷えた空気の中で、自分の呼吸の速さだけを、しばらく意識していた。吸って、吐いて、白い息がまた街灯の下に流れていった。
腕時計を、一度見た。まだ二十分も経っていなかった。思っていたより、時間の進みが遅かった。どこかの部屋で、電話の呼び出し音が鳴って、すぐに止んだ。誰かが出たのだろう。
少し離れた家で、シャッターを下ろす音がした。一日の終わりを告げるような、重い音だった。それが静まると、また元の静けさに戻った。
足もとで、何かが動いた気がして、目を落とした。塀の下の隙間を、猫が一匹、音もなく通り抜けていった。それだけだった。
どれくらい経ったころだったか、後ろから足音がした。振り返ると、ごみ袋を提げた人影が、ゆっくり歩いてくるところだった。会釈をして、通り過ぎようとする。
その人は、通り過ぎる前に、一度だけ、空き家のほうへ目をやった。表情は変わらなかった。それだけで、また歩き出した。何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。会釈だけを返した。足音が遠ざかっていくのを、しばらく聞いていた。それから、また電柱に寄りかかって、窓のほうへ向き直った。
見て、言わない。今日の昼、老人と別れたあとで気づいたことを、また思い出した。あのときは、自分がそうしていたことに、あとから気づいた。今は、目の前で、同じことが起きていた。しかも、相手も、自分も、それを当たり前のようにやっていた。教わったというより、もう身についてしまったものに近かった。落ち着かない気持ちが、また戻ってきた。
それから、どれくらい立っていただろう。足の先が、冷えて感覚を失いかけていた。肩をすくめても、寒さは変わらなかった。窓は、最初に見たときと、何も変わっていなかった。閉じたカーテンの向こうに、光は差していなかった。
近所のどこかで、窓を閉める音がした。それきり、何も起きなかった。空を見上げると、雲が薄く広がっていて、星はほとんど見えなかった。月の位置も、よく分からなかった。
両隣の灯りも、一つ、また一つと消えていった。夜が、少しずつ深くなっていくのが、音の減り方で分かった。遠くの街灯だけが、変わらない明るさで路面を照らし続けていた。
寒さのせいか、それとも別の理由か、立ち続けていることが、次第に間の抜けたことに思えてきた。それでも、途中で切り上げる気にはならなかった。ここまで来て、確かめもせずに戻る理由はなかった。爪先の感覚は、もうほとんど戻ってこなかった。
腕時計に目をやった。八時を少し過ぎていた。切り上げどきを決めるのも、自分だった。誰かに促されたわけではなかった。かじかんだ指先に、白い息を何度か吹きかけた。
鞄から、手帳を取り出した。感覚の鈍った指で、ページをめくった。街灯の明かりを頼りに、白紙のページを探した。今夜、書けることは、見たことではなかった。したことと、確かめられなかったことだけなら、書けそうだった。
「十九時二十分より約四十分、当該家屋前の道路上に滞在。灯り、確認できず」
祖母の書き方を、思い出しながら書いた。したことと、しなかったことだけを記す書き方に、今夜のことは、そのまま収まった。ペン先が、指の冷たさを伝えてきた。書きながら、文字が少し震えているのに気づいたが、書き直しはしなかった。震えたままの字も、今夜の記録には違いなかった。
書き終えて、手帳を閉じた。書けたのは、しなかったことと、見えなかったことだけだった。もし、さっき、あの窓に灯りがついていたら、この頁に、それを書く方法は、今も持っていなかった。問題は、何も解決していなかった。ただ、今夜したことだけは、頁の上に残った。
目を上げると、二階の窓は、黒いままだった。隣家の窓明かりだけが、道に薄く伸びていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
お楽しみいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。




