第三十四話 覚えている人
六日目の午後は、朝とは違う色の光の中にあった。硝子越しに差し込む日は、心なしか白く薄く見えた。台所の窓辺に立って、しばらくその光を眺めていた。
昼食のあいだ、隣家の女性の最後の一言を、何度も思い返していた。あの家のことなら、私よりも、角のあの家の人のほうが詳しいだろうと、女性は言っていた。角、とだけ示され、名前までは聞かなかった。今日のうちに行くかどうかは、まだ決めていなかった。皿を洗い終えるころには、もう決めていた。
コートに袖を通しながら、手帳のことを考えた。今日も、鞄には入れなかった。持って行けば、書くものがあるという前提を、こちらから運ぶことになる気がした。行ってみて、何かが起こるとは限らない。それでも、動かなければ、何も起こらないことだけは分かっていた。
玄関を出る前に、今朝のやり取りを思い返した。何のために調べているのかと問われ、答えに詰まった。祖母の名前を先に置く、いつもの言い方が、喉のところまで出かかって、止まった。この町では、その先が続かないことに、今朝、あらためて突き当たったばかりだった。同じ壁に、今日もまた当たるのだろうと、歩きながら思った。それでも、足は止まらなかった。うまく答えられなかった、自分の声の小ささを、まだどこかで覚えていた。
この町の人間なのか、外から来た人間なのか、自分でもまだ決めていなかった。決めないまま、これからも、知らない家の戸を叩くのだろう。その答えが出るまで、ここでの調べものは、ずっと宙に浮いたままかもしれなかった。
通りは、昼らしく静かだった。学校帰りの子どもの声には、まだ早い時間だった。自転車を押して歩く人と、一人すれ違った。買い物袋を提げた誰かが、少し先の家の門をくぐっていくのが見えた。どこかの家の前で、小型の配送車が停まり、荷物を降ろしていた。遠くで、工事の音が、途切れ途切れに響いていた。日射しは弱く、それでも朝よりは体温に近いものを含んでいた。木々の枝先には、まだ何の気配もなかった。
教えられた角を折れると、生垣に囲まれた平屋が見えた。塀は低いブロックで、これまで見てきたどの家とも、大きくは違わなかった。表札には、姓だけが小さく出ていた。庭の低木は、冬のあいだも手を入れられている様子で、枝先が丸く整えられていた。玄関までの短い通路には、素焼きの鉢がいくつか並び、今の時季は何も植わっていなかった。窓には、レースのカーテンがかかっていた。この家からなら、通りを行き来する人の姿も、あの家の門も、長いあいだ見えていたはずだった。
今朝の女性のように、こちらの動きを既に知っている人かもしれなかった。足取りが、少し重くなった。それでも、ここまで来て引き返す理由は、なかった。
門の前で、少しのあいだ立ち止まった。何と言って声をかけるか、決めていなかった。今朝と同じ壁が、もうそこにあった。決めないまま、呼び鈴を探したが、見当たらなかった。仕方なく、戸のほうへ、一歩だけ近づいた。
玄関脇の戸が、探す手より先に開いた。姿を見せたのは、白髪頭の老人だった。手には、紐で束ねた新聞紙を提げている。今日は、資源ごみの収集日だったらしい。着ているものは、家の中で羽織るような厚手の上着で、外へ出るための身なりではなかった。目もとに、深い皺があった。動きは、ゆっくりしていたが、危なげはなかった。
「どちらさんですか」
声には、警戒よりも、確かめる響きのほうが強かった。
いつもなら、ここで祖母の名前を先に置く。喉のところまで出かかった言葉を、また途中で引っ込めた。
「近くに住んでいる者です。少し前から、この辺りで、古い話を伺って回っていて」
口に出してみると、自分で思っていたより、頼りない響きだった。付け足す言葉は、持っていなかった。それでも、今日はそれで足りるかもしれないと思った。七つの町でなら、これだけでは足りなかっただろう。ここでは、それだけで、扉の前に立っていることが許されているようだった。
老人は、新聞紙の束を、いったん足もとに置いた。急いでいる様子ではなかった。それから、空を仰いだ。
「今日は、風がありませんね。この時季にしては、珍しい」
「そうですね」
つられて空を見上げると、雲は薄く、動きも少なかった。
そんな一言を挟んでから、老人は続けた。
「古い話、というと」
「角を曲がった先の、空いている家のことです」
老人の目が、少しだけ動いた。値踏みするというより、記憶の在り処を探すような動きだった。
「ああ。……皆瀬さんの、お宅の方でしたか」
「孫です」
昨日から、これで何人目になるのか。名乗るより先に、名前のほうから届いていた。七つの町では、こんなことは一度もなかった。名乗ってから、ようやく相手が誰かを知った。ここでは、知られてから、名乗ることになる。順番が、いつも逆だった。
「どことなく、あの人の面影がありますね」
似ている、と言われたのは、これが初めてだった。自分のどこが祖母に重なるのか、少し考えてみたが、分からなかった。老人の口ぶりからは、値踏みするようなところが、もう消えていた。肩の力が、少しだけ抜けたのが、自分でも分かった。
「小さいころ、あなたも、この道を、よく通っていましたね」
「そうなんですか」
「ランドセルを背負って、友達と、何人かで」
覚えていない、と言いかけて、止めた。覚えていないことを、覚えていないとだけ言うのも、妙な気がした。
「今は、もう、お勤めではないんですか」
「いえ。今は、これを」
言葉が、また途切れた。この一年のことを、どう言えばいいのか、まだ分からなかった。祖母の名前が使えないのと、同じ壁だった。
「まあ、いろいろとおありでしょう」
深い詮索の色はなかった。それだけで、話は先に進んだ。
「あの家のことなら、私も、大したことは知りませんよ。もう長いこと、誰も住んでいませんから」
「そうですね」
「昔は、犬がいましたけどね」
先に言われた。私は、まだ、何も言っていなかった。
「ここには、もう長く住んでいましてね。犬がいたころから、ずっとです。この辺りの家並みが、今の形になる前から、ここにいます。この角に座っていると、通りを行く人の顔が、大体分かるようになるんですよ」
「たしか、茶色の、そう大きくはない犬でしたよ。門のところに、繋いでありました」
「名前は、ご存じですか」
「さあ。そこまでは、知りませんでしたね」
名前を知らないところだけは、私と同じだった。
「門のところ、ですか」
「ええ。よく、通りかかる自転車に吠えていてね。配達の人が、来るたびに困っていたのを覚えていますよ。私も、通るたびに、少し身構えたものです。吠えられるのが、分かっていましたから。あのころは、この辺りも、まだ若い人が多かったんですがね」
犬がいたこと、吠えていたことは、私の覚えている分と、重なっていた。門のところ、というのは、私の覚えている場所と違っていた。私の記憶にあるのは、庭の植え込みの、葉が重なって暗くなっている一角だった。
「植え込みの陰では、なかったですか」
「植え込みの陰……いや、そこまでは、覚えていませんね。門のところで見た覚えのほうが、強いです」
「塀の色は、覚えていらっしゃいますか」
「色までは。ただ、今よりは、ずっときれいだったとは思いますよ」
塀の色を、私は覚えていた。褪せる前の、緑がかった青を。老人は、そこまでは覚えていなかった。どちらも、間違っているとは思えなかった。
鞄の中を、指先が探しかけて、止まった。今日は、手帳を持ってきていなかった。今、聞いたことになら、――談を付けられる。他人の口から出た話だからだ。昨日、自分の頭の中にあるだけの記憶には、その印を付けられなかった。確かめる相手が、頭の中にしかいなかったからだ。今日、同じ犬のことが、目の前の人の口から出ただけで、書ける形に変わっていた。中身は、何も変わっていないはずだった。変わったのは、それを語ったのが誰か、ということだけだった。それだけで、書けるものと書けないものが、こんなにも分かれてしまう。何が変わったのか、うまく言えなかった。ただ、落ち着かない気持ちだけが残った。
「おばあさんは、よく、出かけてらっしゃいましたね」
老人が、ふいに続けた。
「どちらへ、行ってらしたんでしょうね。会えば、会釈だけはしてくれる人でしたが、それ以上のことは、私も知りません」
答えを、持っていなかった。聞く役目は、いつも私のほうにあった。今日、答えを持っていないのは、私のほうだった。
「分かりません。私も、聞いたことがなくて」
老人は、それ以上を、聞かなかった。頷いただけだった。何か続けて聞かれるだろうと思っていたが、それだけで終わった。
「そうですか。まあ、あの人らしいといえば、あの人らしい」
新聞紙の束を、また持ち上げた。話は、それで終わりのようだった。
「お引き止めして、すみませんでした」
「いえ。お元気で」
会釈をして、門の前を離れた。老人は、新聞紙を提げたまま、しばらくそこに立っていた。振り返ったとき、まだこちらを見ていた。何か言いたそうな顔にも見えたが、それ以上、声はかからなかった。
角を折れてから、大きく息を吐いた。何にそこまで身構えていたのか、自分でもよく分からなかった。
歩きながら、一つ、抜け落ちていたことに気づいた。灯りのことを、私は聞かなかった。老人も、言わなかった。犬の話はあれだけ出てきたのに、窓が明るくなるという話のほうには、どちらからも触れないまま終わっていた。見ても言わない町なのだと、昨日までに教わったばかりだった。教わったばかりのことを、今日は自分がしていた。
来た道を、戻った。歩いているあいだ、老人の言葉を、頭の中で何度もなぞった。茶色の犬。門のところ。今よりきれいだった塀。家に着いたら、覚えている分だけは書き足せる。それでも、書き足した先から、これは私の記憶ではないのだと、どこかで思うのだろう。
道の途中、洗濯物を取り込んでいる人の姿があった。台所らしい窓から、湯気が出ていた。電線の上には、鳩が何羽か並んで止まっていた。この町の午後は、今朝と同じ速さで進んでいた。
戻ったころには、出てきたときよりも、日が傾いて低くなっていた。影が、心なし長くなっていた。今朝は、名乗る言葉を持たないまま、答えられずに終わった。昼は、答えられなかったのが、もう一つのほうだった。理由を聞かれて詰まったのが今朝で、事実を聞かれて詰まったのが昼だった。同じ日に、分からないことを二つ、そのまま抱えて歩いていることになる。
塀の前には、今朝は一人で立っていた。昼は、犬のことを知っている人が、もう一人いた。覚えている場所が違う。覚えている色も違う。それでも、犬はいたということだけは、二人とも覚えていた。どちらが正しいのかを確かめる方法は、今のところ、思いつかなかった。
一人で抱えていた記憶が、今日、はじめて二人分になった。重なったところより、重ならないところのほうが、まだ多かった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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