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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
十二分の町

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第三十三話 聞く理由

六日目の朝は、洗ったばかりのように冷たい光で始まった。カーテンの隙間から差し込む光の色が、昨日までとは少し違って見えた。雲一つない朝だった。


夜のあいだ、何度か目が覚めた。深くは眠れなかった。浅い眠りの合間に、掌の記憶だけが、繰り返し戻ってきた。布団を出るとき、まず、右の手のひらを見た。何もついていない。それでも、指先の芯には、昨日の冷たさが、まだ居座っている気がした。握ったり開いたりしてみたが、感触は戻ってこなかった。もう、乾いた記憶のようなものだった。


台所で湯を沸かしながら、もう一度、あの家を見ておこうと決めた。理由は、うまく言葉にならなかった。近くまで行って、外から眺めるだけでいい。中へ入るつもりはなかった。門扉にも、今日は触れないでおこうと、先に決めておいた。決めておかないと、また同じところに手が伸びそうな気がしたからだった。


朝食を済ませ、厚手のコートを着た。手帳は、鞄に入れなかった。書くことは、今日はまだ何もない気がした。玄関を出る前に、道すがら自動販売機で温かい缶を買っておこうと思いついた。特に意味はなかった。ただ、手に何か持っていたかった。財布だけを、鞄に入れた。


家を出ると、通りはまだ静かだった。ゴミの収集車が、少し先の角を曲がっていくのが見えた。停めてある車のフロントガラスに、薄く霜が張っていた。学校へ向かう子どもの姿は、まだなかった。昨日は昼過ぎに歩いた道を、今日は朝のうちに歩くことになる。同じ道でも、時間が変われば見えるものが違うのだろうと思いながら、歩いた。商店街の手前を折れると、シャッターを半分だけ上げた店が一軒、外の空気を入れていた。誰もいない店先に、暖房の温い匂いだけが漏れていた。


会社に勤めていたころは、家を出る時刻はいつも同じだった。決めていたのではなく、決まっていた。今は、誰に決められたわけでもない時刻に、自分の意思だけで、同じような道を歩いている。そのことに、まだ慣れていなかった。慣れていないことが、悪いことだとは思わなかった。




外に出て少し歩くと、昨日よりも風がなかった。吐く息は白く、しばらく宙に残ってから消えた。缶コーヒーを一本買い、掌で包むようにして持ち歩いた。角を二つ曲がると、松の梢が、朝の光を透かして見えた。


道の反対側に立ち止まり、家を見た。今日は、門には触れないつもりだった。決めたとおり、少し離れたところから眺めるだけにした。


塀の内側、屋根瓦の谷になったあたりに、白いものが薄く積もっていた。霜だろう。日が高くなれば、じきに消える。軒下の暗がりには、灰色に乾いた蜘蛛の糸が、幾重にも重なって揺れていた。誰の手も入らないまま、幾つ季節を越したのか、見当もつかなかった。


塀の根もと、継ぎ目のあたりに、苔が緑を残していた。塀全体が乾いた色をしている中で、そこだけが、湿り気を保っているように見えた。指でなぞれば、冷たいのか、それとも案外ぬくもりがあるのか。確かめたい気持ちが動いたが、手は伸ばさなかった。


隣家の窓には、今日も洗濯物が下がっていた。厚手のタオルが、風もないのに、時折わずかに揺れた。反対隣のほうからは、換気扇の音がかすかに響いていた。暮らしは、空き家をはさんで、今朝もふだんどおりに動いていた。


外れて垂れ下がったままの樋の先から、水滴が一つ、間を置いて落ちる音がした。昨日は、目で見ただけで、聞こえてはいなかった音だった。次の一滴が落ちるまでの間を、なんとなく待ってしまった。


松の根もとには、去年のものらしい松笠が、色を失っていくつか転がっていた。誰かが掃いた形跡はなかった。触れないと決めたのは、昨日の冷たさを、もう一度確かめたくなかったからかもしれない。そこまで考えて、それ以上は、考えるのをやめた。


郵便配達の自転車が、通りの向こうを横切っていった。こちらには寄らずに行った。この家に届く郵便は、もうないのだろう。どこかで、氷の欠片が滑り落ちるような、小さく硬い音がした。屋根のどこかからだったのかもしれない。姿は見えなかった。


しばらく、そうして立っていた。缶の温かさが、掌から腕のほうへ、じわりと伝わってきた。遠くで、鴉が一声鳴いた。七つの町では、聞いて回った翌日には、もうその町にいなかった。だから、聞かれた側がどう思ったのか、その後どうなったのかを、私は一度も見たことがなかった。今、私は、その「翌日」の中に立っている。


背後で、金属のこすれる音がした。振り向くと、隣の敷地で、女性が自転車の鍵を確かめているところだった。年格好は、五十代の半ばに見えた。厚手のカーディガンを、部屋着の上に羽織っている。


隣の庭先に、自転車が二台並んでいたのを思い出した。あの片方が、この人のものなのだろう。


女性は、鍵を確かめ終えると、こちらへ目を向けた。驚いた様子はなかった。むしろ、はじめから私がそこにいるのを知っていたような目だった。


「昨日、この近くで、何人かに話を聞いてらしたでしょう」


問いというより、確かめる言い方だった。頷くよりほかになかった。


「主人が、八百屋さんの前を通ったときに、見かけたそうです。若い人が、熱心に聞いてたって」


たった一日で、そこまで伝わっていた。話した相手は、昨日の二人だけだったのに。この町では、話した分だけ、自分のことも誰かに渡っていくのだと、あらためて思い知らされた。


「その家のこと、まだ気になってるんですか」


女性は、顎で、塀の向こうを示した。


「ええ」


「何のために、調べてらっしゃるの」


そこで、言葉に詰まった。


いつもなら、先に名前を置いた。祖母の名前を出せば、たいていの続きは、向こうが引き受けてくれた。今、同じ言葉を口にしかけて、途中で止まった。祖母は、この家には来ていない。ノートにも、この町のことは、一行も残っていない。一年のあいだ、ずっとその言葉に寄りかかって歩いてきたのだと、止まってはじめて分かった。これまで、名乗ってから断られたことも、いくつかあった。それでも、名乗ること自体をやめようと思ったことはなかった。今、はじめて、名乗る言葉そのものを持っていない場所に立っていた。


「祖母が、昔から、こういう話を集めていました。私は、それを引き継いでいます」


言いながら、自分の声が、思ったより小さいことに気づいた。


「でも、この家のことは、祖母の記録には出てきません。だから、どうして知りたいのかと聞かれると……うまく、答えられません」


正直に言えば、それで全部だった。付け足す言葉を、持っていなかった。取り繕う余裕もなかった。頭のどこかでは、まだ言い足りない気がしていた。もっと別の言い方が、きっとあったはずだった。今は、それが何なのか、思いつかなかった。


女性は、しばらく黙っていた。責めるふうではなかった。


「気になるのに、理由がいるものでもないでしょうけど」


「そうかもしれません」


「ただの噂ですよ。私は、直接見たことはありませんけど、たまに、そういう話が出ることがあります」


「皆さん、それで困っているということでもないんですね」


「ええ。困るも何も、ただそういうことがある、というだけで。うちは、ここに来てまだ五年くらいですけど、その前から、そういう話だったみたいですよ」


新しい話は、そこには足されなかった。女性は、それ以上を語らなかった。カーディガンの襟もとを、少し掻き合わせただけだった。


「昔から知ってる人なら、私よりも詳しいでしょうね。角の……あの家の人とか」


女性が目で示した先には、別の屋根が見えるだけだった。今は、その屋根の持ち主を尋ねなかった。今日、聞けるだけのことは、もう聞いた気がした。


「もしかして、皆瀬さんのところの、お孫さんですか」


「はい」


「前に、お庭の草を、抜いてらっしゃるのを見たことがあります。この辺りでは、皆瀬さんの、と言えば、たいてい通じますから」


祖母がどんな人だったかを尋ねる言葉は、そこから先には出てこなかった。皆瀬さんの、という括りだけで、女性の中では足りているようだった。名前を持たないままの呼び名で、私はここでもう知られていた。この人にとって、私がどちら側なのかは、それでも分からないままだった。答えたぶんだけ、何かが返ってきた。多くはなかったが、何もなかったわけでもなかった。


「引き止めて、すみませんでした」


「いえ。こちらこそ、急に呼び止めてしまって」


女性は、腕時計にちらりと目をやった。用があるふうだった。自転車を押して、通りへ出て行った。ペダルに足をかける前に、一度だけ、こちらを振り返った。会釈のようにも、ただの癖のようにも見えた。




自転車の音は、じきに聞こえなくなった。通りには、また誰もいなくなった。


家の前に、また一人になった。


塀の上の霜は、いつのまにか消えていた。日の当たる面から先に溶けたらしく、境目のところに、乾いた部分と湿った部分の線が、くっきり残っていた。


どこかのシャッターが、大きな音を立てて上がるのが聞こえた。朝の商店街の、まだ遠いほうからだった。子どもたちの声が、別の通りから、かすかに聞こえてきた。もう学校へ向かう時間だった。声は、少しずつ近づき、また少しずつ遠ざかっていった。誰も、こちらの通りには入ってこなかった。


缶コーヒーは、いつのまにか、ぬるくなっていた。両手で包むと、それでも、掌には、まだいくらか温かさが残っていた。表面に浮いた水滴が、指のあいだをゆっくり伝った。プルタブを起こし、一口だけ飲んだ。甘さが、思っていたより強かった。買うときには、気にも留めなかった味だった。


昨日は、門扉に触れて、冷たさだけを持ち帰った。今日は、何にも触れていない。それでも、掌の中には、何か違うものが残っている気がした。これまでの一年、私はいつも、もらう側でいた。名前を渡し、話を渡してもらい、次の町へ移った。渡した分の重さを、こちらが引き受けたことは、一度もなかった。今日、はじめて、その重さのほうを、少しだけ引き受けた気がした。取引だとは、思わなかった。もっと前から、片方にだけ傾いていた何かが、ようやく少し戻ってきただけのことだった。


隣の家の換気扇の音は、いつのまにか止まっていた。かわりに、テレビの音らしきものが、窓越しにかすかに漏れてきた。誰かの生活が、変わらずそこで続いている音だった。


日の位置は、家を出たときより、いくらか高くなっていた。松の影が、塀の上を、さっきより短くなって落ちていた。風が、また一度、庭のあたりを抜けていき、伸びた雑草の先を、そろって同じ向きに倒した。


このまま、しばらくここに立っていても、何かが起こるわけではなかった。分かっていて、すぐには動けなかった。


通りの先で、子どもたちの声が、また一度だけ高くなった。声は角を曲がって、聞こえなくなった。朝が、この町のいつもの速さで、先へ進んでいた。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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