第三十二話 出た人間
片方が、先に口を開いた。持っていた買い物袋を、少し提げ直す仕草をした。
「別に、隠すようなことじゃないんです。近所じゃ、わりと知られた話ですから」
もう片方も、頷いた。さっきまでの、値踏みするような硬さは、もうほどけていた。厚手のコートを着た二人は、片方が臙脂色、もう片方が紺色で、色は違っても、着古された感じのよく似た服だった。八百屋の店先には、大根とねぎが山になって並んでいる。店主が、奥から段ボールを運んでくる音がした。
「あの家、空き家になって、もう十年は経つんですよ。人によっては、もっと前からだって言う人もいますけど」
「いつ頃からか、はっきり覚えてる人は、いないと思いますよ。気がついたら、そうなってたっていうか」
「うちは十二年前にこっちへ越してきたんです。そのときにはもう、誰も住んでいませんでした」
「灯りは、毎晩じゃないんです。たまに、なんです。見たっていう人は、何人かいますよ。うちの主人も、一度見たって言ってました」
「隣の隣の奥さんも、去年の冬に見たって言ってましたね。二階の、右のほうの窓だったって」
「それで、誰かが困ってるとか、そういう話でもないんです。騒ぎになったことも、ないですし。ただ、たまに、そういうことがある、それだけで」
「普段は、みんな忘れてるくらいですよ。今日は、たまたま、その話になっただけで」
私は、それ以上を聞かなかった。分かったことは、四つだけだった。空き家になって十年以上。灯りは、たまに。見たという人は、何人かいる。誰も、困っていない。
もっと聞こうと思えば、聞けたのかもしれない。いつからか、正確な日付を知っている人が、この中にいる可能性はあった。それでも、そこまでは踏み込まなかった。四つで、足りると思った。
島根の町を思い出した。あの町にも、灯りの話があった。ただし、あそこの灯りには、点ける人がいた。暗いと、どれが自分の家か分からなくなるから、と皆が言った。遅くなる人を待って、眠らずに点けている人もいた。誰が点けているのかが、分かっている灯りだった。
ここは、違う。この灯りには、点ける人がいない。誰も住んでいない家の窓が、たまに明るくなる。だから、見たという話のほうだけが残る。
灯りを見た人は、少し気にしている。声の落とし方に、それが出ていた。ただ、誰にでも話すわけではない。わざわざ言うほどのことでもない、という近所づきあいの距離が、そこにはあった。無関心とは、別のものだった。心配と、話題にすることのあいだに、線が引かれていて、その線を、この二人は、いつも自分の判断で引き直している。今日、私に話してくれたのは、たまたま線のこちら側に立っていたからにすぎない。
この一年、七つの町で、似た型が、かたちを変えて現れるのを見てきた。灯りをつける町があり、灯りを消す町があった。声をひそめる町があり、隠さず語る町もあった。型そのものは動かないのに、乗る場所によって、出方が変わる。今日も、その一つに過ぎないのかもしれなかった。
手帳は、もう一度は開かなかった。さっき書いたのは、通りすがりに聞こえた分だけだった。今は、耳だけで受け取ることにした。目の前で話してくれている人の言葉を、その場で書き取るのは、違う気がした。
先に話していた人が、あらためて、私の顔を見た。推し量るような視線ではなく、何かを確かめようとしている目だった。
「あなた、皆瀬さんの……」
言葉が、途中で止まった。それでも、意味は伝わった。
名乗ってすらいなかった。名前は、まだ、口にしていない。
手のひらが、少し汗ばんでいることに気づいた。外の風は、むしろ冷たいくらいだった。
七つの町では、名乗ってから聞くのが、いつもの順番だった。名乗ってしまえば、あとは向こうが決めるだけで、私のほうは、次の日には、その町を出ていた。名前は、渡して終わる紙のようなものだった。
ここでは、出られない。私が何を聞いたかは、この人たちの記憶に、そのまま残ることになる。今日話したことは、明日、別の誰かとの立ち話に混じるかもしれない。混じるときの呼び名は、私の名前ではなく、皆瀬さんのところの、という括りのほうだろう。聞けば、こちらも知られる。
北海道で会った人のことを、思い出した。あの人は、あの町で生まれて、中学まで住んでいたのに、自分をあの町の人間ではないと言った。出た人間は、出た時点で、外の人になる。あの人は、毎年、決まった時季にその土地へ戻ってきていた。誰に頼まれたわけでもなく、自分の足で。あのときは、それを、あの町のかたちとして、手帳に書き留めた。よその町の、よそのかたちだと思っていた。
今、同じ形の中に、自分がいた。私は、この家のある町で育って、就職して家を出て、また戻ってきている。二人が、私をどちらの側として見ているのかは、分からなかった。決めるのは、私ではなかった。
「おばあさまには、私もお世話になりました」
もう片方が、そう言った。それ以上は、続かなかった。皆瀬さんのおばあさん、という呼び方から外へ出る言葉を、二人は持っていないようだった。それで、十分だった。この一年、私はずっと、誰かの記憶を聞く側にいた。今日、はじめて、自分のほうが、誰かの記憶の中に置かれていた。手帳に書き取るのは、いつも私の役目だった。今日は、書かれる側に回っていた。
「その家、ここから、どちらの方角ですか」
「少し先です。あの、小学校の裏手に回っていただいて、角を二つ曲がったところ」
もう片方が、道の先を指で示した。
「門のところに、松が植わってます。すぐ分かると思いますよ」
礼を言って、二人と別れた。
教えられた道を、歩いた。駅まで歩く、あの十二分よりも、ずっと近かった。切符も、乗り換えも、宿も、要らなかった。歩き出して、まだ数分だった。
見慣れた家並みが続いた。生垣の刈り込み方、物干し竿の角度、軒先に出された植木鉢の数。どれも、通るたびに目にしていたはずなのに、今日は、いちいち目が止まった。誰かに知られている町を歩くというのは、こういうことかもしれなかった。すれ違う人がいれば、その人もまた、何かを知っているのかもしれない。そう思うと、いつもの道が、少し違って見えた。
七つの町では、たどり着くまでに、いつも誰かがいた。連れて行ってくれる人、鍵を渡してくれる人、行くのは止めないと言ってくれる人。今日は、誰も一緒に来ていない。教えられた方角と、二つの角と、松の木だけを頼りに、自分の足で歩いていた。
祖母のノートに、この家のことは書かれていない。この町のページが、そもそも無い。七つの町は、どこも一行が先にあって、私はそれを追いかけていた。今日は、先を行く行が、一つもなかった。
靴底が、乾いた路面を鳴らした。追い越していく車も、すれ違う人も、しばらくいなかった。電柱に、随分前のものらしい掲示物の切れ端が、画鋲だけを残して貼りついているのが目についた。
角を二つ曲がると、松の木が見えた。教えられたとおりだった。
低いブロック塀が、家をぐるりと囲っていた。塗られていたはずの色は、ほとんど剥げて、まだらになっている。それでも、覚えている色だった。褪せる前は、もう少し明るい、緑がかった青だったはずだ。
見覚えがあった。高校に通っていたころ、この道を、何度も通っていた。塾の帰りか、部活の帰りか、順番までは思い出せない。あのときにはもう、二階の窓に灯りがついているのを見た覚えはない。私が高校生だったころには、この家は、もう空いていたことになる。
もっと前のことも、出てきた。小学校の行き帰りにこの前を通っていたころ、塀の内側、木の陰になったあたりに、犬小屋があった。名前までは覚えていない。吠える声だけを、覚えている。通りすがりに一度だけ、格子の隙間から、茶色い耳が覗いたのを見たことがある。誰かがしゃがんで撫でていたような気もするが、それが誰だったかまでは、もう出てこなかった。
手帳に、これを書けるかどうかを、考えた。
女性たちの話には、――談を付けられる。誰かから聞いた言葉だからだ。だが、犬のことも、塀の色のことも、人から聞いたのではなかった。私が、覚えていることだった。
――談は、付けられない。要確認、とも違う。要確認と書けるのは、確かめに行けば済むことがあるときだけだ。この分は、行って済むものではなかった。確かめる先が、私の頭の中にしかない。
祖母は、聞いた言葉と、自分の見た事実とを、はっきり分けて書く人だった。分けなければ、それは取材ではなくなる、というようなことを、どこかで言っていた気がする。混ぜないことが、祖母の記法の根っこにあった。昨日、その七つの行を、私はようやく自分の言葉で書けるようになった。行き先と日付と、決めたことだけを書く形は、あのとき見つけていた。今、手の中にあるのは、決めたことではなかった。人から聞いたことでもない。ただ、覚えていること。それだけのものだった。祖母のやり方にも、私のやり方にも、この分だけ、入れる場所がなかった。いつか、これに合う記法が要るようになるのかもしれない。今は、まだ思いつかない。
その記憶が正しいのかどうかは、確かめないままにした。塀の色も、犬の声も、何年も前の記憶が、そのまま今の色や声と同じである保証はない。確かめる方法を、私は、まだ知らなかった。
書かずに、心の中だけに置いておけば、それは記録にはならない。書けば、確かめようのないまま、紙の上に残ることになる。どちらを選ぶべきか、今の私には判断がつかなかった。
家の前に立った。
思っていたより、小さく見えた。記憶の中の家は、もう少し大きかった気がする。門柱は傾いていて、表札を留めていたらしい金具の跡だけが、木の面に四角く残っていた。郵便受けの口には、白く変色した粘着シートが貼られ、塞がれていた。庭は、伸びた雑草が、膝の高さまで来ていた。軒先の樋の一部が外れて、斜めに垂れ下がっている。玄関の扉は、色が褪せて、元は何色だったのか、もう分からなかった。
隣の家の窓には、洗濯物が干してあった。反対隣の庭先には、自転車が二台、並んで置かれている。空き家をはさんで、暮らしは、ふだんどおりに続いていた。
二階の窓を見上げた。窓には、何もついていなかった。カーテンは、閉まったままだった。
昼なのだから、当たり前だった。当たり前のことを、わざわざ確かめている自分に気づいた。灯りは、夜にならなければ、つきようがない。それでも、上を向いてしまった。
風が、庭のあたりを抜けていった。伸びた雑草のあいだから、かすかに、土と、濡れた葉の匂いがした。どこか遠くで、電車の走る音が、低く響いて消えた。
この一年、「また来ます」と、私は言わずにきた。言えば、その一言が、相手を待たせることになる。応じてくれた人にも、断った人にも、言わずにきた。約束は、いつも、相手のほうに重さを残していった。ここには、待たせる相手がいなかった。
約束をしなくても、また来られる。時刻表も、天気も、確かめなくていい。次に来るときは、手ぶらかもしれないし、何か持ってくるかもしれない。それも、今、決めなくてよかった。ただ、歩いて行けるところに、この家があるだけだった。
この道を、これから何度も通ることになるのだろうと思った。旅先の道ではなく、暮らしの道として。
鞄の中で、手帳の角が指に触れた。取り出しかけて、やめた。書くことは、まだ何もなかった。今日は、それでよかった。
門扉に、手を触れた。
冷たかった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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