第三十一話 歩いて十二分
卓には、三枚が残っていた。生命保険の返信用封筒と、銀行の封筒。それから、申請書。
昨日、八行目に書いた一語を、もう一度、見た。
――保留。
消す気は、なかった。だが、そのままにしておく気も、今朝はなかった。迷いがなくなったわけではない。ただ、迷ったまま、動くことに決めていた。
窓の外はまだ暗く、庭木の輪郭だけがぼんやり見えた。五日目の朝は、四日目と同じくらい静かで、同じくらい寒かった。廊下は、まだ片づいていなかった。段ボールも、束ねた書類も、そのままだ。それでいい、と思うことにした。全部を同時に動かす必要はない。
三枚に、指先で触れてみた。生命保険の封筒はざらついた紙で、銀行の封筒はつるりとしていて、申請書だけが、少し厚みのある紙だった。
薬缶で湯を沸かし、湯呑みに移した。両手で包むように持つと、じんわりと熱が伝わってきた。腰を下ろし、三枚を、あらためて眺めた。器の中身がぬるくなるころには、外はすっかり明るくなっていた。
この一年、私が覚えたのは、決める人がいるということだった。応じてくれた人も、断った人も、黙ったままだった人も、それぞれの判断で、そうしていた。持ったままでいれば、あの七行は、私の手控えでしかない。誰の目にも触れない紙は、決めたことにならない。渡してはじめて、決めるのは向こうになる。
七つの町では、玄関の先へ進めるかどうかは、いつも先方の判断だった。断られた家もあれば、迎え入れられた家もあった。私は、その判断の外側に立ち続けていた。今日は、内側に自分を置くことになる。ここまで来るのに、これだけの日数が要った。遅いとは、思わなかった。
手帳を開いた。祖母の記法どおりに、昨日書いた一語を、そのまま書き取った。
――保留。
岐阜で、祖母の残した一行の下に「聴取済み」と足したことがある。あのとき覚えた手つきを、今日は自分の一行に対して使っていた。その下に、一行だけ書き足した。
「提出済み」
まだ出してもいないのに、そう書いた。書いてしまえば、出すしかなくなる。順番を、わざと間違えることにした。
祖母の一行に返事をしたときは、まだ迷いながらだった。今日は、迷いを飲み込んでから書いた。
そのまま、続けて書いた。物置のことは、今日は動かさない。中の箱と束は、しばらくあのままでいい。弁護士のほうがどう受け取るかは、私の側で決められることではない。残っているのは、もう一つだけだった。電話の一件を、断られたきり、追わずにいた。今日、決めた。追わない、と。決めていないのと、追わないと決めたのとでは、重さが違う。前者は、まだ何も選んでいない。後者は、選んだ結果、そこで止まっている。四つのうち、三つに答えを出した。
電話の相手は、決まりがあるわけではない、うちでそう決めているのだ、と言った。決めた人がいる、ということだった。あのときも、そこは聞き分けられていた。分かったうえで、その先へは行かなかった。行かなかった、を、行かないと決めた、に書き改めるだけのことに、三日かかった。
生命保険の封筒を開いた。祖母の名前が印字してある行の下に、空の枠がある。難しいほうを先に書いたせいで、これはもう、埋めるだけで足りるようになっていた。ペンを持って、そこへ、自分の名前を書いた。字は、思ったより素直に書けた。書き終えて、しばらく眺めた。それだけの手続きが、それだけのことに見えるようになるまで、数日かかったことになる。切手は、もう刷ってある。折って、封をした。指先に、わずかな震えが残っていたが、悪い震えではなかった。
銀行の封筒を開き、中の用紙に名前を書いた。判を押す欄に、判を押した。数字の並んだところは、見ないまま通り過ぎた。見なくても、書くべきところは分かった。去年、似たような書類に判を押したときは、意味もよく分からないまま、手だけを動かしていた。今日は、違った。
申請書を、封筒に入れた。宛先は、昨日、教えられたとおりに写した。文字が曲がっていないか、一度だけ確かめた。読み返しはしなかった。読み返せば、また手が止まる気がした。
三枚とも、封をした。卓の上に、また三枚が並んだ。大きさも色も違うのに、今度は、どれも軽く見えた。
弁護士は、中身は問わないと言った。行き先と日付と、自分が決めたことだけでいい、とも言った。あの言葉のとおりに書いたのだから、あとは、渡すだけでよかった。渡した先が、何を思うかは、もう私の仕事ではない。
コートを着た。門を出るとき、二階の窓を見上げた。灯りのついていない窓は、この四晩、変わらずそこにあった。
外の空気は、乾いていて冷たかった。息が、白くなって消えた。
駅までは、十二分と決まっている。この一年、私はいつも、その十二分を、家へ向かって歩いた。今日は、逆だった。
同じ道でも、逆に歩くと、見えるものの順番が変わった。角の家の垣根、閉じたままの踏切、電柱の広告。どれも見た覚えがあるのに、並び方だけが新しかった。行きに見る町と、帰りに見る町は、たぶん、いつも少しだけ違う町だった。
風に、土の匂いが混じっていた。潮の匂いはしない。ここは、そういう場所ではなかった。
すれ違う人は、まだ少なかった。犬を連れた人が、会釈だけをして通り過ぎていった。ここでは、誰も、私が何者かを気にしない。
ランドセルを背負った子どもが、走って追い越していった。この時間に学校へ向かう子がいるのだと、今日はじめて知った。少し先に、小学校の門があった。旗を持った誘導員が、車を止めて子どもを渡らせていた。
自転車が、後ろから追い越していった。ベルは鳴らさなかった。
道の途中に、赤いポストがあった。
鞄から、三枚を出した。手の中で、重なった。それぞれ違う厚みが、指の腹に伝わってくる。生命保険の封筒がいちばん薄く、申請書がいちばん硬かった。
投函口に、封筒の角を差し込んだ。手を離せば、それきりだった。戻すことは、できない。
三日前、この家の電話で番号を押したときも、似た形をしていた。あのときは、答えるかどうかを、相手に渡した。今日は、渡すのが、私のほうだった。人に渡してきた一年の続きに、自分から渡す一日が来た。同じ形でも、どちらの側に立つかで、手の震え方が違った。
手を離した。
音は、しなかった。三枚とも、奥へ落ちて、見えなくなった。
しばらく、ポストの前に立っていた。動かしたのは指先だけだったのに、体の奥のほうが、まだ小さく揺れている気がした。振り返っても、赤い箱がそこにあるだけで、何も変わって見えなかった。それでも、確かに何かが、私の手を離れていった。
来た道を、そのまま戻った。三枚ぶんの重さがなくなった鞄は、心なしか軽かった。
祖母の遺志は、これまで、条項の中の言葉でしかなかった。今日、その言葉が、初めて、私のした一つの行動と結びついた。
帰り道、駅前の商店街を通った。
昼の光は、白かった。半分の店が閉める支度をしていた、あの夕方の色とは違う。シャッターはほとんど上がっていて、開いた店の奥まで日が差し込んでいた。惣菜屋の前を通っても、揚げ物の匂いはまだしなかった。時間が違えば、同じ通りも、まるで別の顔をする。
数日前は目についた、二軒だけ変わったという店の並びも、今日はもう見慣れてしまっていた。
花屋の店先には、まだ霜が半分残っていた。魚屋の前を通ると、氷の匂いがした。パン屋の窓ガラスは、内側から白く曇っている。
古い電器店のシャッターは、今日も下りたままだった。
八百屋の店先で、年配の女性が二人、立ち話をしていた。買い物袋を提げたまま、声を落とすでもなく話している。
「また、あの家に灯りがついてたんだって」
「気のせいじゃない」
「でも、もう十年は空き家でしょう」
「前にも、誰か見たって言ってなかった」
「さあ、どうだったかしら」
それだけだった。すれ違う一瞬に、耳へ入ってきた。
少し前までの私であれば、続きが気になって、動けなくなっていたはずだった。ここ何日か、耳に入る話があっても、そのまま通り過ぎることを覚えてしまっていた。器用になったのではなく、ただ鈍くなっただけだ。
声を中に入れることを、いつのまにかやめていた。今日は、中まで入ってきた。それだけのことに、少し安堵した。
今日は、足を止めた。
鞄から、手帳を出した。開くのに、理由はいらなかった。ページを繰って、白いところに、聞いたばかりの言葉を書いた。地名は書かなかった。町の名前は、もともと必要なかった。
「近所の空き家、夜に灯りがつくと噂される――談」
――談は、三日前にも書いている。受話器の向こうの声を、そう書き取った。目の前にいる人の声にこれを付けるのは、宇津良町以来だった。祖母のノートで覚えた形が、こんな場所でも使えることに、少し驚いた。
手帳のページは、まだ半分近く白いままだった。埋まる日が来るのかどうかは、分からない。それでも、今日、また一行だけ、埋まった。
手帳と、さっき出した申請書は、逆の決まりで動いている。申請書には、人の言葉を入れない。手帳のほうは、たいていが人の言葉だ。今日、そこへまた一つ、誰かの言葉が増えた。
灯りがつくという話は、たいてい、そこにまだ誰かがいることにしたい人の話でもあった。誰も住んでいないはずの家に、灯りがつく。それだけで、留守は留守でなくなる。
この数日、私が過ごしている家も、傍から見れば、似たようなものかもしれない。灯りは、ちゃんとついている。それでも、留守は、まだ終わっていない気がした。
七つの町は、どこも遠かった。切符を買って、乗り換えて、宿を取って、たどり着いた場所だった。この一年、噂は遠いところにしかないと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。ここは、家から、十二分の場所だった。行きも帰りも、同じ十二分の中に、こんな話が転がっていた。
手帳を、閉じた。
女性たちは、まだそこにいた。片方が、もう片方の肩を軽く叩いて、笑っている。買い物袋の中で、葱の葉が揺れていた。
この一年、私がしてこなかったことが一つある。手がかりも紹介もないところで、知らない人に、自分から声をかけて尋ねることだった。七つの町では、いつも先に名前があった。祖母のノートの一行か、誰かの紹介か、どちらかがあってから、私は動いていた。今、目の前にいる二人に対しては、そのどちらも持たずにいる。
私は、二人のほうへ歩いていった。冷たい風が、二人と私のあいだを、一度だけ吹き抜けた。心臓が、少し速くなっていた。声を出す前に、一度、息を吸った。
「すみません」
声をかけると、二人が、同時にこちらを見た。驚いたような顔をされたが、逃げるふうではなかった。片方が、もう一度、私の顔を見た。値踏みするような目ではなかった。
断られたら、それでいい。そう自分に言い聞かせてから、続けた。
「今のお話、もう少し聞かせてもらえますか」
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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