↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
留守の家

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/35

第三十一話 歩いて十二分

卓には、三枚が残っていた。生命保険の返信用封筒と、銀行の封筒。それから、申請書。


昨日、八行目に書いた一語を、もう一度、見た。


――保留。


消す気は、なかった。だが、そのままにしておく気も、今朝はなかった。迷いがなくなったわけではない。ただ、迷ったまま、動くことに決めていた。


窓の外はまだ暗く、庭木の輪郭だけがぼんやり見えた。五日目の朝は、四日目と同じくらい静かで、同じくらい寒かった。廊下は、まだ片づいていなかった。段ボールも、束ねた書類も、そのままだ。それでいい、と思うことにした。全部を同時に動かす必要はない。


三枚に、指先で触れてみた。生命保険の封筒はざらついた紙で、銀行の封筒はつるりとしていて、申請書だけが、少し厚みのある紙だった。


薬缶で湯を沸かし、湯呑みに移した。両手で包むように持つと、じんわりと熱が伝わってきた。腰を下ろし、三枚を、あらためて眺めた。器の中身がぬるくなるころには、外はすっかり明るくなっていた。


この一年、私が覚えたのは、決める人がいるということだった。応じてくれた人も、断った人も、黙ったままだった人も、それぞれの判断で、そうしていた。持ったままでいれば、あの七行は、私の手控えでしかない。誰の目にも触れない紙は、決めたことにならない。渡してはじめて、決めるのは向こうになる。


七つの町では、玄関の先へ進めるかどうかは、いつも先方の判断だった。断られた家もあれば、迎え入れられた家もあった。私は、その判断の外側に立ち続けていた。今日は、内側に自分を置くことになる。ここまで来るのに、これだけの日数が要った。遅いとは、思わなかった。


手帳を開いた。祖母の記法どおりに、昨日書いた一語を、そのまま書き取った。


――保留。


岐阜で、祖母の残した一行の下に「聴取済み」と足したことがある。あのとき覚えた手つきを、今日は自分の一行に対して使っていた。その下に、一行だけ書き足した。


「提出済み」


まだ出してもいないのに、そう書いた。書いてしまえば、出すしかなくなる。順番を、わざと間違えることにした。


祖母の一行に返事をしたときは、まだ迷いながらだった。今日は、迷いを飲み込んでから書いた。


そのまま、続けて書いた。物置のことは、今日は動かさない。中の箱と束は、しばらくあのままでいい。弁護士のほうがどう受け取るかは、私の側で決められることではない。残っているのは、もう一つだけだった。電話の一件を、断られたきり、追わずにいた。今日、決めた。追わない、と。決めていないのと、追わないと決めたのとでは、重さが違う。前者は、まだ何も選んでいない。後者は、選んだ結果、そこで止まっている。四つのうち、三つに答えを出した。


電話の相手は、決まりがあるわけではない、うちでそう決めているのだ、と言った。決めた人がいる、ということだった。あのときも、そこは聞き分けられていた。分かったうえで、その先へは行かなかった。行かなかった、を、行かないと決めた、に書き改めるだけのことに、三日かかった。


生命保険の封筒を開いた。祖母の名前が印字してある行の下に、空の枠がある。難しいほうを先に書いたせいで、これはもう、埋めるだけで足りるようになっていた。ペンを持って、そこへ、自分の名前を書いた。字は、思ったより素直に書けた。書き終えて、しばらく眺めた。それだけの手続きが、それだけのことに見えるようになるまで、数日かかったことになる。切手は、もう刷ってある。折って、封をした。指先に、わずかな震えが残っていたが、悪い震えではなかった。


銀行の封筒を開き、中の用紙に名前を書いた。判を押す欄に、判を押した。数字の並んだところは、見ないまま通り過ぎた。見なくても、書くべきところは分かった。去年、似たような書類に判を押したときは、意味もよく分からないまま、手だけを動かしていた。今日は、違った。


申請書を、封筒に入れた。宛先は、昨日、教えられたとおりに写した。文字が曲がっていないか、一度だけ確かめた。読み返しはしなかった。読み返せば、また手が止まる気がした。


三枚とも、封をした。卓の上に、また三枚が並んだ。大きさも色も違うのに、今度は、どれも軽く見えた。


弁護士は、中身は問わないと言った。行き先と日付と、自分が決めたことだけでいい、とも言った。あの言葉のとおりに書いたのだから、あとは、渡すだけでよかった。渡した先が、何を思うかは、もう私の仕事ではない。




コートを着た。門を出るとき、二階の窓を見上げた。灯りのついていない窓は、この四晩、変わらずそこにあった。


外の空気は、乾いていて冷たかった。息が、白くなって消えた。


駅までは、十二分と決まっている。この一年、私はいつも、その十二分を、家へ向かって歩いた。今日は、逆だった。


同じ道でも、逆に歩くと、見えるものの順番が変わった。角の家の垣根、閉じたままの踏切、電柱の広告。どれも見た覚えがあるのに、並び方だけが新しかった。行きに見る町と、帰りに見る町は、たぶん、いつも少しだけ違う町だった。


風に、土の匂いが混じっていた。潮の匂いはしない。ここは、そういう場所ではなかった。


すれ違う人は、まだ少なかった。犬を連れた人が、会釈だけをして通り過ぎていった。ここでは、誰も、私が何者かを気にしない。


ランドセルを背負った子どもが、走って追い越していった。この時間に学校へ向かう子がいるのだと、今日はじめて知った。少し先に、小学校の門があった。旗を持った誘導員が、車を止めて子どもを渡らせていた。


自転車が、後ろから追い越していった。ベルは鳴らさなかった。


道の途中に、赤いポストがあった。


鞄から、三枚を出した。手の中で、重なった。それぞれ違う厚みが、指の腹に伝わってくる。生命保険の封筒がいちばん薄く、申請書がいちばん硬かった。


投函口に、封筒の角を差し込んだ。手を離せば、それきりだった。戻すことは、できない。


三日前、この家の電話で番号を押したときも、似た形をしていた。あのときは、答えるかどうかを、相手に渡した。今日は、渡すのが、私のほうだった。人に渡してきた一年の続きに、自分から渡す一日が来た。同じ形でも、どちらの側に立つかで、手の震え方が違った。


手を離した。


音は、しなかった。三枚とも、奥へ落ちて、見えなくなった。


しばらく、ポストの前に立っていた。動かしたのは指先だけだったのに、体の奥のほうが、まだ小さく揺れている気がした。振り返っても、赤い箱がそこにあるだけで、何も変わって見えなかった。それでも、確かに何かが、私の手を離れていった。


来た道を、そのまま戻った。三枚ぶんの重さがなくなった鞄は、心なしか軽かった。


祖母の遺志は、これまで、条項の中の言葉でしかなかった。今日、その言葉が、初めて、私のした一つの行動と結びついた。




帰り道、駅前の商店街を通った。


昼の光は、白かった。半分の店が閉める支度をしていた、あの夕方の色とは違う。シャッターはほとんど上がっていて、開いた店の奥まで日が差し込んでいた。惣菜屋の前を通っても、揚げ物の匂いはまだしなかった。時間が違えば、同じ通りも、まるで別の顔をする。


数日前は目についた、二軒だけ変わったという店の並びも、今日はもう見慣れてしまっていた。


花屋の店先には、まだ霜が半分残っていた。魚屋の前を通ると、氷の匂いがした。パン屋の窓ガラスは、内側から白く曇っている。


古い電器店のシャッターは、今日も下りたままだった。


八百屋の店先で、年配の女性が二人、立ち話をしていた。買い物袋を提げたまま、声を落とすでもなく話している。


「また、あの家に灯りがついてたんだって」


「気のせいじゃない」


「でも、もう十年は空き家でしょう」


「前にも、誰か見たって言ってなかった」


「さあ、どうだったかしら」


それだけだった。すれ違う一瞬に、耳へ入ってきた。


少し前までの私であれば、続きが気になって、動けなくなっていたはずだった。ここ何日か、耳に入る話があっても、そのまま通り過ぎることを覚えてしまっていた。器用になったのではなく、ただ鈍くなっただけだ。


声を中に入れることを、いつのまにかやめていた。今日は、中まで入ってきた。それだけのことに、少し安堵した。


今日は、足を止めた。


鞄から、手帳を出した。開くのに、理由はいらなかった。ページを繰って、白いところに、聞いたばかりの言葉を書いた。地名は書かなかった。町の名前は、もともと必要なかった。


「近所の空き家、夜に灯りがつくと噂される――談」


――談は、三日前にも書いている。受話器の向こうの声を、そう書き取った。目の前にいる人の声にこれを付けるのは、宇津良町以来だった。祖母のノートで覚えた形が、こんな場所でも使えることに、少し驚いた。


手帳のページは、まだ半分近く白いままだった。埋まる日が来るのかどうかは、分からない。それでも、今日、また一行だけ、埋まった。


手帳と、さっき出した申請書は、逆の決まりで動いている。申請書には、人の言葉を入れない。手帳のほうは、たいていが人の言葉だ。今日、そこへまた一つ、誰かの言葉が増えた。


灯りがつくという話は、たいてい、そこにまだ誰かがいることにしたい人の話でもあった。誰も住んでいないはずの家に、灯りがつく。それだけで、留守は留守でなくなる。


この数日、私が過ごしている家も、傍から見れば、似たようなものかもしれない。灯りは、ちゃんとついている。それでも、留守は、まだ終わっていない気がした。


七つの町は、どこも遠かった。切符を買って、乗り換えて、宿を取って、たどり着いた場所だった。この一年、噂は遠いところにしかないと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。ここは、家から、十二分の場所だった。行きも帰りも、同じ十二分の中に、こんな話が転がっていた。


手帳を、閉じた。


女性たちは、まだそこにいた。片方が、もう片方の肩を軽く叩いて、笑っている。買い物袋の中で、葱の葉が揺れていた。


この一年、私がしてこなかったことが一つある。手がかりも紹介もないところで、知らない人に、自分から声をかけて尋ねることだった。七つの町では、いつも先に名前があった。祖母のノートの一行か、誰かの紹介か、どちらかがあってから、私は動いていた。今、目の前にいる二人に対しては、そのどちらも持たずにいる。


私は、二人のほうへ歩いていった。冷たい風が、二人と私のあいだを、一度だけ吹き抜けた。心臓が、少し速くなっていた。声を出す前に、一度、息を吸った。


「すみません」


声をかけると、二人が、同時にこちらを見た。驚いたような顔をされたが、逃げるふうではなかった。片方が、もう一度、私の顔を見た。値踏みするような目ではなかった。


断られたら、それでいい。そう自分に言い聞かせてから、続けた。


「今のお話、もう少し聞かせてもらえますか」

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


お楽しみいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。