第三十話 保留
台所の卓に、三枚の紙が、昨夜と同じ並びで残っていた。生命保険の封筒。銀行の封筒。そして、申請書。三枚並ぶと、大きさも色も違うのに、どれも同じくらいの重さに見えた。
四日目の朝も、家の中は静かだった。誰も起こしに来ない。誰かが来る足音を、待つ必要もない。それに、まだ慣れない。
朝の光は、まだ弱かった。窓のガラスに、薄い霜の跡が残っている。カーテンを開けると、庭の木の枝が、白く縁取られて見えた。二月に入って、朝の底冷えは、いっそう強くなっている。廊下には、箱と束が、出したままになっていた。片づける気には、まだなれなかった。
湯を沸かして、湯呑みに注いだ。手のひらに、少しずつ温かさが伝わってくる。それを卓に置いたまま、椅子に座った。三枚の紙を、順に見た。どれも、今日中に片づく気はしなかった。
申請書を広げた。名前を書く欄、日付を書く欄、実績を書く欄。三つとも、まだ空いている。罫の幅は、手帳よりも広い。一行に書ける文字数は、たぶん、そう多くない。
昨日の帰り道、電車の窓には、暮れかけた家々の灯りが映っていた。今朝の光は、それより白い。同じ一日ぶんの隔たりでも、色がまるで違って見えた。
手帳を開いた。埋めるなら、ここから写せばいいと思った。一年ぶんの記述を、そのまま移せばいい。指を、一行目に置いた。
写しはじめて、止まった。
手帳に並んでいるのは、そのほぼ全部が、誰かの口から出た言葉だった。行の終わりの多くには、――談の二字が添えられている。この欄にそのまま移せば、話してくれた人たちの判断を、私が横から奪って、別の場所へ運ぶことになってしまう。渡す先も、渡していいかどうかも、あの人たちは知らない。
昨日、応接室で聞いた弁護士の言葉を思い出した。書いてある中身は見ない。形が整っていれば、それで受け取る。行き先と、日付と、したことが並んでいれば十分で、正しいかどうかは、あちらの仕事ではないという話だった。帰り際、提出の宛先だけを渡された。次に会う約束は、決めなかった。あとは、こちら次第だという意味に取った。
「活動の実績」という言葉を、もう一度、目で追った。実績という字を見るたび、何かを成し遂げた話を書くべきなのかと思う。だが、成し遂げたことなど、この一年、ほとんど浮かばなかった。
地名と日付だけを書き並べれば、形の上では整う。それで済ませることも、たぶんできる。そう考えかけて、手を止めた。
祖母がノートに繰り返し書いていた決まりを思い出したからだった。事実と、聞いた話は、混ぜてはいけない。混ぜたものは、もう取材の記録ではない。手帳の言葉を、日付だけの器に詰め替えても、やっていることは同じだ。中身を抜いて薄めただけの伝聞は、伝聞のまま形を変えているにすぎない。
申請書を、いったん脇へ避けた。生命保険と銀行の封筒に、目をやった。あちらのほうが、よほど簡単に見える。名前を書き直すだけで、決めることは何もない。だが、順番を変えたところで、同じ場所へ戻ってくることは分かっていた。
手帳を閉じた。写す、ということ自体が、たぶん間違っている。何を書けばいいのかは、まだ分からなかった。湯呑みの湯気が、もう細くなっていた。
朝の光が、卓の端まで動いていた。湯呑みの中身は、とうに冷めている。
手帳を、もう一度開いた。今度は最初のページから、一行ずつ読むことにした。昨夜は、鞄から出して、速く繰っただけだった。今日は、読み方を変える必要があった。
手帳の古い部分には、聞いた話がぎっしり書き込まれている。日付、町の名前、相手のイニシャル、そして最後に、――談。文字の詰まり方は、町ごとに少しずつ違っていた。急いで書いた日と、時間をかけて書いた日の差が、紙の上に残っていた。ページをめくる指の速さも、今日は昨夜より遅かった。
一度、椅子から立って、伸びをした。廊下の箱が、視界の端に入る。開けたままの箱に、朝の光がまた薄く差していた。今日、あれを片づける時間はなさそうだった。
はじめのほうのページには、自分の言葉らしい行が見当たらなかった。青森、岐阜、京都。どこも、書いてあるのは聞いた話ばかりに見えた。
沖縄のページに、こう書いてあった。
「当人への追加の聴取は行わない」
要確認、とは付いていない。誰かから聞いたことでも、これから確かめることでもない。あのとき、島を出る船の中で、自分で決めて、そう書いた。
島根のページにもあった。宿の女性から聴取した内容が並んだ一文の、いちばん最後に、――談。だが、その手前に、一箇所だけ、聞いた話ではない部分が混じっていた。氏名は記載しない。それは、宿の女性の言葉ではなく、私が決めたことだった。書いた本人にも、気づかれないまま、一年近く、そこに埋まっていた。
北海道のページには、こう書いてあった。
「写真三枚、保存。公開しない。理由は上記」
理由は上記、とあるとおり、これは誰かから聞いた話ではなかった。撮ってしまった写真をどうするか、自分で決めて、そう書いていた。決めそこねた直後に、決め直した行だった。
新潟のページにもあった。
「――要確認」
あの一言が指していたのは、巡回の日程ではなかった。自分の迷いのほうだった。
そこから少し先のページで、三行目が空いたままになっているのを見つけた。書きかけて、やめた行だった。祖母が同じ場所に書いた言葉を、自分も書こうとして、指を止めた跡だ。書けば、また来ると自分に言うことになる。だから、空けた。
沖縄、島根、北海道、新潟。あとになるほど、自分の言葉の行が増えていた。最後は、空白で終わっていた。習慣は、少しずつ、確かに育っていた。育ちきる前に、旅が終わっていただけだ。
昨夜、私はこう思っていた。人の言ったことは、全部あった。私が決めたことは、一行もなかった。手帳を閉じて、そう結論づけたはずだった。
的外れだった。あったのに、見落としていただけだった。それも、一つや二つではなかった。急いで繰った目には、映らない行があった。数の問題ではなく、読み方の問題だったのだと思う。同じ手帳の紙が、今日は少し重く感じられた。
祖母のノートのコピーを、鞄から出した。表紙の紙は、指の脂で、もう少し柔らかくなっている。角も、もうずいぶん丸い。持ち歩いた回数のぶんだけ、擦れていた。この一年、いちばん多く開いた紙かもしれない。
笹内町のページを開いた。日付が二つ。数行の記述。
「足跡、確認。撮影せず」
そして、「一月。来訪者名簿を閲覧」。
以前これを読んだときは、しなかったことを、わざわざ書いていると思った。書かないことと、書かなかったと書くことは違う、と。理由まで、自分で推し量って手帳に書いた覚えもある。
今日は、もう一段違う場所を見ていた。あの推し量りは、この一行の中身についての話だった。今日気づいたのは、そこではない。このノートそのものが、祖母が見聞きしたことの記録ではなく、祖母が、書いてもいいと決めた分の記録だということだった。地名と、日付と、決めたこと。人の言葉は、一つも入っていない。それだけで、一年ぶんの仕事になっている。
書き方は、もう分かっていた。祖母が、最初から示していた。ずっと目の前にあったのに、今日まで、それと気づかなかっただけだ。
申請書を、もう一度広げた。
昨日、私は弁護士に、七つの町を回ったと答えた。地名までは言わなかった。中身に触れることになる気がしたからだ。だが、この欄に書くのは、それとは違う。地名は、誰の持ち物でもない。地図に載っている名前を書くことと、誰かが私だけに聞かせてくれた言葉を書くことは、別の重さを持っている。渡してはいけないのは、人が言ったことのほうだ。それなら、書ける。
ペン先を、手の甲で一度なぞって、インクの出を確かめた。かすれない。指の関節が、まだ少し強張っていた。一文字ずつ、ゆっくり書くことにした。
地名の横に、日付も書いた。おおよその月だけを頼りに、迷いながら埋めた。日にちまでは、思い出せない行もあった。それでも、順番だけは、はっきり覚えていた。そのあとに、一行ずつ、決めたことだけを書いていった。
「青森県・常世谷。ある人が誰なのかを、尋ねなかった。」
「岐阜県・柊野町。知ってしまったことを、書かなかった。」
知っている、とだけ、自分の中で結論づけていた。名前までは、今も知らない。
「沖縄県・波名島。当人への、追加の聴取は行わなかった。」
「京都府・椋坂町。以前のことを、尋ねなかった。」
尋ねていれば、答えは返ってきただろう。ただ、その答えは、たぶん本物ではなかった。
「島根県・宇津良町。言わないと約束して、氏名を書かなかった。」
「北海道・笹内町。撮らないと決めることが、私にはできなかった。撮ってしまったものを、公開しないことにした。」
正直に、そう書いた。決めそこねたことも、決めたことのうちに入ると思ったからだ。都合よく書き直せば、この欄はただの自慢話になる。撮ってしまった事実は、消さなかった。
「新潟県・汐待町。要確認と書いた一言は、巡回のことではなく、自分の迷いを指していた。」
ペンを置いて、七つの行を見返した。誰の名前も、聞いた話の中身も、どこにも入っていない。それでも、一年が、そこにあった。字の大きさが、行ごとに少しずつ違う。書いているあいだの手の力の入り方が、そのまま残っていた。書き上げた、という気持ちには、なぜかならなかった。
氏名の欄に、名前を書いた。日付の欄も、埋めた。ペン先の跡が、紙にわずかに残った。
今朝、手帳の中に見つけた行のことを思い出した。自分の言葉だけの行は、沖縄からあとに増えていた。島根、北海道、新潟。後になるほど多く、最後は空白で終わっていた。
同じ形が、今、目の前にもあった。七つの行が並び、そのあとに、何もない。
七つで終わっていいはずだった。回った町は、七つしかない。
それでも、ペンが止まったままだった。この一年は、七つの町では終わっていない。まだ続きがある。今、私がいる場所だ。
東京。
町ではない。私の家がある場所だ。地名として、実績の欄に並べていい場所ではない。それでも、この一年の続きは、たしかにここで起きている。
八行目に、何を書けばいいのか、分からなかった。断られたことを受け取ったきり、それ以上は追わなかった。物置のことも、まだ何一つ片づいていない。昨日の弁護士のことも、決めていない。この紙を出すかどうかさえ、決めていない。決めた、と書ける行が、一つも見つからなかった。
――談を付けるのは、誰かの言葉があるときだけだ。要確認、と書くのは、確かめに行けば済むことがあるときだけだ。ここには、そのどちらもない。ただ、決めていないだけだった。
紙は、まだ封筒に入れない。封筒の二通も、まだ封をしていない。次に手を伸ばす日がいつになるかも、決めていない。
八行目に、私は一語だけ書いた。
――保留。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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