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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
留守の家

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第二十九話 書く欄

玄関に、鞄が置いてある。昨夜、そこへ運んだのは私だ。


中を、まだ何も詰めていない。


朝の光は、昨日より白かった。空気が乾いている日の光だ。しゃがんで、鞄の口を開けたまま、しばらく見ていた。何を入れるかは、今日、自分で決めることになる。


廊下には、昨日出した箱と束が、まだそのまま並んでいる。埃をかぶった段ボールの角に、朝の光が斜めに当たっていた。戻す気には、なれなかった。


昨夜、断ってくれる相手のいるところへ戻る、とだけ決めた。行き先までは、決めていなかった。決めないまま眠って、決めないまま朝になった。


顔を洗いながら、私がこの家から会いに行ける人の中で、何かを決める側に立つ人を、数えてみた。


一人は、駅前の電器店の店主。名前は知らない。一昨日、帰ってきたときに前を通ったが、シャッターは下りていた。


もう一人が、顧問弁護士だった。


それだけだった。指を折るほどの数でもなかった。


祖母を知る人は、もうこの家に残っていない。


台所へ下りて、昨日、家のものとして脇へ置いた束をもう一度開いた。保険と、電気の契約。判の押された封筒の下に、去年の相続手続き一式が挟まっていた。


紙は厚く、表紙に事務所の名前と電話番号が刷ってある。角に、名刺が一枚、クリップで留めてあった。指で外すと、紙の匂いがした。


名刺には、肩書きと名前が並んでいた。声に出して読んでみようとして、やめた。


中には、印刷された案内文と、去年の申請の控えらしき紙が、束ねて挟んであった。


去年、これを見た覚えはある。見て、判子を押して、それきりにした。中身までは、読まなかった。読む余裕が、あのときはなかった。


去年からこのかた、向こうから連絡が来たことは、一度もない。


不思議には思わなかった。そういうものだと思っていた。今朝、それが不思議でない理由に、はじめて気づいた。


来ないのは、来ないことになっているからだ。来るとしたら、区切りが過ぎたあとになる。そのときはもう、決まっている。向こうから来るのを待つ側と、こちらから行く側と、道は二つしかない。


人は、黙っていることを選べる。決まりごとは、黙っていることを選ばない。ただ、動く番が来るまで、動かないだけだ。


先に動くなら、こちらから行くしかない。


誰かに呼ばれて動くのと、自分で決めて動くのとでは、同じ一歩でも重さが違う気がした。


受話器を取った。今度は、待たなかった。


昨日は、九時を七分過ぎるまで待った。六つ目の呼び出し音で、ようやく声が出た。


今日は、二度目で出た。


事務的な、柔らかい声だった。名乗ると、少し間があってから、担当がすぐに代わった。


「相続の件で、申請についてご相談したいのですが」


そう言うと、担当は、すぐに用件を汲み取った。


「今日、お時間をいただけませんか」


こちらから、そう言った。


「では、十四時でいかがでしょう」


「伺います」


時間を決めたのは、向こうだった。行くと決めたのは、私だ。


口座そのものは、去年のうちに使えるようになっている。この一年、旅費はそこから出してきた。手続きが要るのは、一年目の、この一度きりだと聞いていた。使い道を、誰かに逐一伝える決まりではなかった。それが、今日、変わる。


額のことは、聞かなかった。書き留めもしなかった。


コートを羽織って、鞄に、手帳と、去年の書類一式を入れた。外は、乾いた寒さだった。それで、鞄の中身は決まった。




駅までは、歩いた。風に、埃っぽい匂いが混じっていた。


車両は、半分ほど埋まっていた。誰も、こちらを気にしなかった。


乗り換えを、二度した。


一度目は地下で、案内板の文字だけを目で追った。二度目で、階段を上がると、日の光がいきなり強くなった。目が慣れるまで、少し立ち止まった。


ビルの前で、一度、上を見上げた。ガラスの面に、雲が映っていた。八階だと、聞いている。


自動ドアが開くと、冷たい空気と暖かい空気が、一瞬だけ入れ替わった。


エレベーターの階数表示が、静かに変わっていった。数字が動くたびに、小さな音がした。


エレベーターの中で、二人連れの女性が、小さな声で何か話していた。知らない番号からかかってくる電話の話だった。夜中に鳴るのだと、片方が言った。


夏に岐阜で聞いたものは、夕方だった。時刻が違うだけで、型は動いていない。


一年前の私なら、その先を聞くために、耳を澄ませていたはずだった。手帳を開いて、聞いた言葉の端から端まで書き留めていたはずだった。


今日は、聞かなかった。


聞かなかったことに、あとになってから気づいた。手帳は、鞄の中に入ったままだった。開く理由が、浮かばなかった。


八階でエレベーターを降りると、ガラスの扉の向こうに受付があった。低い椅子が並び、卓には雑誌が揃えて置いてある。


名前を言った。


受付の人は、名前だけを聞いて、それ以上は何も尋ねなかった。


「少々お待ちください」と言われることさえなかった。すぐに、奥のソファへ通された。お茶が一つ、音もなく置かれた。


時計の音も、雑談の声も、ここにはなかった。空調の音だけが、一定に鳴っていた。


七つの町では、上げてもらえるかどうかを、いつも向こうが決めていた。上がれずに、玄関先で引き返した家もあった。決めるまでの間が、長い日も短い日もあった。


ここには、その間がない。名前を言えば通される。「どうぞ」が、自動的に出てくる。


決めないことに、決めてある場所なのだと思った。何も無いから通すのではない。最初から、通す前提になっている。


楽になったとは、思わなかった。




応接室のテーブルを挟んで、向かい合った。窓の外に、灰色のビルが何棟か見えた。机の上には、ファイルが数冊、角を揃えて積まれていた。


名前は、書類のあちこちに刷ってある。私はまだ、それを声に出して呼んだことがない。


丁寧な言葉づかいだった。標準語で、抑揚は少なかった。顔つきは終始変わらず、責めるでも、急かすでもなかった。意地悪でも、冷たいわけでもない。ただ、決めることを、そのまま引き受けている人だった。


弁護士は、去年の書類を開いて、条項を読み上げた。


「静さんのご遺志で、口座の使途は『取材活動』に限定されています。もし一年以内に、活動実績の申請がなければ、指定の団体へ寄付されることになっています」


一年という言葉は、去年、聞いた覚えがあった。数えたことは、なかった。


「期限まで、あと三か月ほどです」


弁護士は、それだけ言った。数えるようには言わなかった。事実として、一度、置いただけだった。


知らなかったわけではない。数えないでいられただけだ。


「この一年は、どちらを回られましたか」


七つの町を、と答えた。地名までは、言わなかった。言う必要も、なかった。


弁護士は、うなずいただけだった。多いとも、少ないとも言わなかった。


数だけを聞かれて、数だけを答えた。中身は、まだ、どこにも渡していない。


弁護士が、一枚の紙をテーブルに置いた。


罫の並んだ、地味な紙だった。氏名の欄。日付の欄。それから、「活動の実績」と印刷された欄がある。


そこだけが、空いていた。


氏名の欄に入るのは、私の名前だった。


昨日の封筒は、そうではなかった。祖母の名前が刷ってあって、その下の枠に、私が自分の名前を入れることになっていた。上に誰かの名前が乗っている紙だった。


この紙は、違う。祖母の名前は、条項を引くところに一度あるだけで、書く欄のほうには出てこない。


一年かかって、はじめて、私の名前だけを書く紙が来た。


「これは、誰が読むんですか」


私は尋ねた。


「私が読みます。読んで、要件を満たしているかどうかを、判断します」


決める人が、いた。


この一年、答えてくれない人にも、答えてくれた人にも会ってきた。決める人がいること自体は、初めてではない。ただ、隠さずにそう言われたのは、初めてだった。


私はずっと、決める人を探してきた。ここには、いる。しかも、隠さない。


「中身は問いません。形式が整っていれば、それで足ります」


弁護士は続けた。


「どこへ行き、いつ、何をしたか。書いてあれば、それでいいんです。当否は、こちらでは判断しません」


「焦らなくて結構です。提出は、期限の前日でも構いません」


ペンを、差し出された。受け取らなかった。今は、要らなかった。


昨日も、似たような紙があった。埋めればいいだけの手続きだと、自分に言い聞かせた覚えがある。


埋めるだけでいい、と言われたことのほうが、今日は重かった。


祖母がノートに、繰り返し書いていた言葉を思い出した。


「伝聞は伝聞のまま。事実は事実のまま。混ぜたら、それは取材じゃない」


形式を整えるためだけに書く行は、そのルールと、正面からぶつかる。


手帳に書けるものは、全部、誰かからもらった言葉だった。ほとんどに、――談が付いている。それを、この欄に載せるということは――話してくれた人たちが決めたことを、私が勝手に引き受け直して、別のところへ渡すということになる。


誰かの相槌。誰かの言い淀み。誰かが黙った、その間。手帳に残っているのは、そういうものばかりだった。


日付と地名だけを並べれば、形式は整う。それだけなら、私が決めたことになる。けれど、それでは、何を見て、何を聞いたのかが、消えてしまう。


昨日、電話の向こうの人は、答えるかどうかを決めて、答えないと決めた。その判断さえ、私のものではなかった。


「出さないという選択も、選択です」


弁護士は言った。


「出さなければ、条項のとおりになります。それだけのことです。私は、それを止めません」


この一年、決めるのは向こうだ、と言って、判断を自分の外に置いてきた。


その判断が、まるごと、返ってきた。


私は、申請書を受け取った。


この場では、書かなかった。


何を書くつもりですか、とは聞かれなかった。


弁護士は、机の上の書類を封筒にまとめ直した。次に来る日を、指定はしなかった。


帰り支度をしながら、提出のときの宛先を教えられた。急げ、とは言われなかった。急がなくていい、とも言われなかった。


軽く頭を下げられた。私も、同じくらいの角度で返した。




帰りの電車で、手帳を開いた。


窓の外は、もう暮れかけていた。灯りのついた窓が、飛ぶように過ぎていく。


今日の分を、書こうとした。


書きかけて、止めた。今日会ったのは弁護士で、聞いたのは噂ではなかった。――談が、付かない。


付ける場所がなかったのでも、付け忘れたのでもない。付ける必要が、ない行だった。


この一年ではじめて、自分のことを書く行が、要る。


言葉が、すぐには出てこなかった。誰かの言葉を写す手と、自分のことを書く手は、同じ手のはずなのに、動き方が違った。


窓の外の灯りが、数を増していった。


家に帰ると、廊下の箱と束は、出したままだった。電気をつけると、廊下の埃が、白く浮かんで見えた。上着を脱いだ。


家の中は、しんとしていた。


台所の卓には、昨日戻した二通の封筒が、そのままだった。


椅子に座って、手帳を最初のページから繰った。


古いページには、聞いた人の言葉が、びっしり並んでいる。日付、地名、相手のイニシャル。ほとんどの行の終わりに、――談があった。


人の言ったことは、全部あった。


私が決めたことは、一行もなかった。


申請書を、卓の上の二通の隣に置いた。生命保険と、銀行からの、あの二通だ。


どちらの欄も、まだ埋まっていない。


書く欄が、三つになった。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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