第二十八話 空き箱
電球が切れていた。
スイッチを押しても、何も点かなかった。去年ここを片づけたときは昼で、電球が切れているかどうかなど、確かめもしなかった。
廊下の明かりだけが、戸口から斜めに入ってくる。四角い光の先で、それは止まっている。奥のほうは、目で見るより先に、手で確かめる場所になった。
埃と、古い紙の匂いがした。汐待町のどの部屋とも違う匂いだった。ここは、誰かが暮らした部屋の匂いではない。ものを置いただけの部屋の匂いだった。
私は、箱と束を一つずつ、廊下へ出すことにした。
紐で括った雑誌と新聞の束が、まず出てきた。紐を解こうとして、やめた。中を見るためではなく、動かすために持ち上げただけだった。
次に、来客用の座布団を重ねた包み。押すと、綿の湿った重さが手に返ってきた。
段ボールが三つ。蓋の合わせ目が、黄ばんで貼り合わされている。剥がすと、乾いた音がした。中には、古い雑貨がまとめて詰まっているだけだった。
扇風機の箱が一つ。傘立てから抜いた傘が、数本立てかけてある。柄の細いものと、太いものが、区別なく並んでいた。
季節ものの飾りを包んだ布も、一つあった。結び目が固くて、指の爪では解けなかった。
壁際に、古い空気入れが立てかけてあった。ゴムの管が、白く粉を吹いている。何の空気を入れていたものかは、もう分からない。
隅に、私の子どもの頃の教科書と、絵の具箱があった。蓋の留め金が、片方だけ壊れている。開けると、乾いた絵の具の匂いがした。
私が家を出たあとも、これは同じ場所に置かれていたことになる。箱に詰めたのは、去年の私だ。
捨てるかどうかを、あのとき私は考えなかった。考えないまま、詰めた。
包んだままの新聞紙の束もあった。開くと、割れた皿が出てきた。いつ割れたのかは分からない。割れたまま、包まれたまま、ここに置かれていた。
廊下に並べた箱と束を、一度、後ろに下がって眺めた。並べただけで、何かが分かったわけではなかった。
探していたものは、はっきりしていた。地名の書いてあるもの。祖母がどこへ行っていたのかが分かるもの。今朝、答えてもらえなかったのは、そこだった。
一つも出てこなかった。
どれも、去年、私が詰めたものだった。
奥から出てくるものと、手前から出てくるものの古さが、ときどき逆転した。どういう順で詰めたのか、覚えている箱のほうが少なかった。
詰めるのが仕事だった。あの日は、急いでいた。中を見る余裕は、たぶん、はじめから無かった。だから、開けたのは今がはじめてだった。
「どうぞ」も、「困ります」もなかった。
誰に断ってから開けるのでもない。誰かが止めに来るのでもない。廊下に並べていくあいだ、埃が肩に落ちても、誰も払いに来なかった。裾についた埃を、自分の手で払った。
膝をつくたび、床の冷たさが布越しに伝わった。それも、誰かが咎めることではなかった。
段ボールの紐を引くと、指の腹に赤い筋がついた。痛みというほどのものではなかった。
最初は、それが軽かった。
時間の感覚が、途中から落ちた。
一つ開けて、次を開けて、また次を開けて。それだけを繰り返しているうちに、自分がどれだけそうしていたのか、分からなくなった。戸口の光の角度が、いつの間にか変わっていた。
廊下の奥で、柱時計が鳴った。
数を数えなかった。何時かより先に、鳴ったという事実のほうが、耳に残った。
今朝、電話の向こうの人は答えなかった。決まりがあるわけではなく、うちでそう決めている、とだけ言われた。少し考えてから、女将はそう言ったのだと、あの人は教えてくれた。考える時間があったということは、考える中身があったということだ。答えないと言われたとき、そこには答えるものがあるのだと分かった。断りは、何かが「ある」ことの証明でもあった。
物置は、何も言わない。
言わないので、無いのか、私がまだ見つけていないだけなのか、区別がつかない。断られたほうが、まだ持って帰れるものがあった。今朝渡された「うちで決めている」という一言は、今も手の中にある。ここにあるのは、何も渡されない時間だけだった。
汐待町でも、答えてもらえないことはあった。それでも、黙って背を向ける人はいなかった。理由のかたちだけは、言葉にして渡してくれた。
物には、顔がない。手もない。読み取る場所が、そもそも無かった。この部屋には、聞く相手がいない。聞かれて困る相手も、いない。
床に座り直して、両手を膝で拭った。埃は、拭っても白く残った。
奥に、紙袋があった。開けると、祖母の外出用のコートが、たたまれて入っている。生地は薄く、色は褪せて、去年のままの折り目がついていた。
袖口を、指でなぞった。擦り切れた部分が、少しだけ硬くなっている。
私は、ポケットに手を入れた。
入れようと決めるより先に、手のほうが入っていた。
出てきたのは、バスの整理券だった。次に、飴の包み紙。使いかけのポケットティッシュ。それから、感熱紙のレシートが一枚。日付だけが辛うじて残り、店の名前は消えかけている。
なんでもないものだった。持ち帰る理由も、捨てる理由も、そこにはなかった。
なんでもないのに、見てしまった。
七つの町で、私は玄関から先へ自分で進んだことがない。上げてもらえた家があり、上がれずに引き返した家があった。どちらになるかを決めるのは、いつも家の側だった。私はその境目の外に立って、呼ばれるのを待っていた。断りは、どこでやめるかを決める線でもあった。
ここには、その線がない。線がないから、止まる場所も分からない。
しばらく、手のひらの上の紙を見ていた。戻すだけでいいはずだった。
私は、コートの内側の、もう一つのポケットにも手を入れた。表からは見えない、胸の高さの内ポケットだった。相手がいたら、絶対にしなかった。誰かが見ていれば、それは踏み込みすぎだと、自分でも分かる場所だった。
中には、何もなかった。何もないことを、確かめてしまった。
襟元にも、指を這わせた。ボタンの糸が、一箇所だけほつれていた。それも、確かめなくていいことだった。
整理券とレシートを、元のポケットに戻した。折り目の向きも、なるべく同じに直した。コートを畳み直して、紙袋に戻すと、紙の擦れる音がした。
戻しても、見たことのほうは、戻らなかった。
奥の、いちばん下に、空の段ボールが一つあった。
持ち上げると、軽かった。表に、宛名も品名も書かれていない。
底に、硬くなった輪ゴムの欠片がいくつか落ちていた。指先で触れると、乾いた音を立てて崩れた。紙の粉も、薄く積もっている。
四隅の内側が、それぞれ四角く変色していた。指でなぞると、変色した部分だけ、わずかにざらついていた。長いあいだ、同じ形のものが入っていた跡だった。日に焼けなかった部分だけが、白く残っている。
大きさを目で測った。昨夜、膝に載せた菓子の缶。あの缶に入っていた束が、ちょうど収まるくらいの大きさだった。
何が入っていたのかは、分からない。
この箱を、去年見たかどうかさえ、思い出せなかった。見た記憶も、見なかった記憶も、同じくらい薄かった。
去年、私自身がここから何かを出して、別のところへ移したのかもしれなかった。詰めるのが仕事だったあの日、私が何を触ったのかを、私は覚えていない。手が動いた分だけ、記憶のほうが追いついていない。
祖母は、これとは別の帳面に書いていたのか。それとも、書き記す習慣そのものを、途中でやめてしまったのか。昨夜からの疑問は、形を変えずに今日も残っている。
この箱は、そのどちらの答えにもならなかった。空だったという事実だけが、そこに残った。
答えを持たない箱が、答えを持たないまま、いちばん奥にしまわれていた。
しばらく、蓋を開けたまま座っていた。中は、見ているあいだも空のままだった。
今朝の断りには、少なくとも中身があった。答えないと言えるのは、答えるものを持っている人だけだ。
この箱は、それも言わない。
私は、段ボールを畳んで、元の場所に戻した。畳んだ音が、思ったより大きく響いた。
廊下へ出したものは、そのままにしておいた。戻す理由が、まだ無かった。
台所へ行くと、外はもう暗くなりかけていた。卓の上に、今朝からの封筒が、まだ載っていた。
電気をつけた。台所の棚に、湯呑みが二つ並んでいる。今日は、どちらにも手を伸ばさなかった。
今朝分けた封筒の中から、二通を抜いた。差出人の名前は、今朝のうちに見ている。取材に関わるものでないことも、そのときに分かっていた。分かっていて、封は切らずに置いた。
一通目は、生命保険会社からだった。契約者の名義変更の手続きが済んでいない旨が、印字してある。宛名は「皆瀬 静 様」。返信用の封筒が、折り込まれていた。
二通目は、銀行からの通知だった。長く動きのない口座について、確認してほしいとある。同じく、機械の印字だった。
差出人は、祖母が死んだことを知らない。知らないから、断らない。ここでも、宛名だけが去年のままだった。
返信用の封筒に、名義を書き直して出せば、遠くの誰かがそれを受け取る。手続きを通すかどうかは、受け取った側の判断になる。決めるのは、私ではない。切手はすでに刷られていて、封をするだけで足りた。
書く欄を見た。祖母の名前が印字してある行の下に、空の枠がある。そこへ、私の名前を書く。
字を埋めるだけの手続きだった。それだけのことだと分かっていて、卓に向かって座る気にはなれなかった。
今朝、あの人は言った。女将は祖母のことを知っていた、と。会ったこともない人が、そう言った。この家には、そう言える人が一人もいない。
その名前を、私が消して、私の名前を書く。順番として、たぶん、そうなのだろう。順番だと分かっていることを、今日はしたくなかった。
今日は、書かなかった。二通とも、封筒に戻して、卓の隅に寄せた。いつか書く日が来ることは、分かっている。
手帳を開いた。
「物置、確認。取材に関わるものなし。空の段ボール一箱、底に輪ゴム片および紙の粉。何が入っていたかは不明」
書き終えて、ペン先を止めた。
――談を付けるかどうかを、今日は考えなかった。この一年、行の終わりにその言葉があるかないかを、いつも気にしてきた。今日は、気にする前に、手のほうが先に止まっていた。
断らないものからは、断りが出てこない。出てこない代わりに、何も出てこない。
この家には、祖母を「静」として知っていた人がいない。近所の人にとっては、皆瀬さんのおばあさんだった。あの呼び方の中に、行き先の入る隙間はなかった。あの人がどこへ行っていたのかは、孫の私も知らない。
知っている、と言われた相手は、会ったこともない、電話の向こうの人だけだった。
それ以上は、追わなかった。追えば、女将にもう一度、決めさせることになる。物置には、決める人がいなかった。あの電話には、いた。決める人が、この家にはもういない。その事実だけが、卓の上に残った。
明日は、外へ出る。
行き先は決めていない。ただ、断ることのできる人のいる場所へ、戻るつもりでいる。
鞄を、玄関のたたきに出しておいた。中身は、まだ入れていない。
手帳を閉じて、封筒を卓の上に残したまま、私は台所の電気を消した。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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