第二十七話 同じお答え
目が覚めてから、しばらく天井を見ていた。
音がしなかった。
汐待町では、四晩とも波の音の中で寝た。高い晩があり、低い晩があった。低い晩でも、間隔だけは途切れなかった。
この部屋には、それがない。外を車が一台通って、そのあとはまた何もなくなった。
私の部屋だった。机の位置も、カーテンの色も、この家を出たときのままだ。祖母が動かさなかったからで、私が戻ってこなかったからでもある。
顔を洗って、一階へ下りた。
台所の卓の上に、郵便物が昨夜のまま載っていた。明日でいい、と置いたのは私だ。その明日が、今日だった。
チラシを分けて、封筒だけを残した。
火災保険の更新の案内。電気の検針票。市役所からの薄い封書。それから、祖母の名前で届いているものが、二通あった。
去年、替えるだけ替えて、替えきれなかった名義が残っている。この一年、私はほとんど家にいなかった。
取材に関わるものは、一通もなかった。
廊下の電話台の前に立った。
受話器を上げると、発信音が鳴った。線は生きている。確かめる必要のないことだと知っていて、確かめた。
受話器を戻して、手帳を開いた。
昨夜挟んだ領収書が、そのままの向きで出てきた。屋号の下に、市外局番から番号が刷ってある。
電話帳は、居間の棚にある。後ろに市外局番の一覧が載っているはずだ。番号の頭を照らせば、県くらいは分かる。地図帳も、二階の棚にある。
しなかった。
理由は、うまく言えなかった。言えないまま、柱時計を見た。
八時を、二十分ほど過ぎていた。
夏に、岐阜の町で子どもたちの話を聞いた。夕方、知らない番号から電話がかかってくる。出ると、女の人の声がする。あの子たちには決まりがあった。知らない、と答えて切れば無事だと。黙って切るほうがいいと言う子もいて、そこは最後まで揃わなかった。それでも、答え方で決まるという一点は、四人とも動かなかった。
今日、知らない番号になるのは、私だ。
出るほうの人には、決まりがない。
宿は朝が忙しい。昨夜、私はそう考えた。今は、ただ待つ時間になっている。
八時台の二十分は、長かった。
九時を、七分過ぎた。
番号を押した。押すたびに、音が一つずつ返った。
呼び出し音が鳴りはじめた。
一つ、二つ。三つ目で、誰も出ないときのことを考えた。四つ目で、畳んでいたときのことを考えた。
六つ目で、切れた。
「はい」
女の人の声だった。続けて、屋号を名乗った。
紙に刷ってあるのと、同じ四文字だった。
読めるものと、聞こえるものが、はじめて合った。この宿は、まだある。
「朝から失礼します。皆瀬と申します」
「はい」
「宿泊のことではないのですが、少しお尋ねしたいことがありまして」
「はい、どうぞ」
声から、年齢を測ろうとした。測れなかった。若い人のようにも、そうでないようにも聞こえた。相槌の置き方が丁寧で、その丁寧さが年齢を隠していた。
言葉にも、土地のものが混じらなかった。
この一年、私は言葉で土地を測ってきた。語尾が一つ変われば、県がひとつ動く。この人の言葉には、その手がかりがない。宿の言葉だからだ。誰に向かって話しても同じになるように、削ってある。
どこの県にいる人と話しているのか、私には分からなかった。
判が読めないことと、声から土地が出てこないことが、同じところで重なっている。
ここで、やめる道があった。
祖母が昔お世話になりました、お礼を申し上げたかったので。それだけ言って切れば、この人は何も決めなくていい。切ったあとに、何も残らない。
そのかわり、何も聞けない。
「祖母のことで、お電話しました」
私は、そう言った。
「皆瀬静と申します。私の祖母です。遺品の中から、そちらの領収書が出てきました」
「はい」
「去年の、四月二十九日です」
日付を言うのに、思ったより時間がかかった。
「祖母は、その日のうちに亡くなりました。帰る途中の駅で倒れて、そのままでした」
受話器を持つ手を、少し下げた。
「どこから帰る途中だったのかを、私は知らないんです。それが分かるものが、そちらの一枚のほかに残っていません」
言い終えてから、自分が何をしたのかが分かった。
この人は、私の話を聞いてしまった。聞いた以上、どうするかを決めることになる。答えるか、答えないか。決めるのはこの人で、決めさせたのは私だ。
間があった。
何の間なのかが、分からなかった。
線が悪いのかもしれない。困っているのかもしれない。帳面の場所を思い出しているのかもしれない。この電話を奥へ回すかどうかを考えているのかもしれない。
顔が見えない。手も見えない。
この一年、私はそこを見て決めてきた。鍵を渡す途中で止まった手。洗い物の手が、縁で一度だけ引っかかったこと。目がどこへ逃げたか。そういうものを見てから、次の一言を選んでいた。
今は、耳しかない。
「少々、お待ちいただけますか」
「はい」
受話器が、硬いものの上に置かれた。
そのあとは、遠くの音だけになった。水を使う音。掃除機が、どこかで切れた。板の廊下を、誰かが歩いていった。人を呼ぶ声がして、返事が返った。言葉までは届かない。
この音の中に、祖母は一晩いた。
それだけは、確かなことだった。
足音が戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「はい」
「申し訳ありません。少し、お時間をいただけますか。折り返し、お電話いたします」
「お願いします」
私は、この家の番号を伝えた。市外局番から、ゆっくり言った。
相手が、復唱した。
「皆瀬さまですね。承りました」
電話が切れた。
二階へ上がった。三段目が、また鳴った。
書斎の床に、昨夜のまま束が並んでいる。古い順に、左から。
輪ゴムの欠片が、床にいくつか落ちていた。
いちばん左の束から取った。
今度は、探す屋号が違った。
所在地の判は読めない。日付も、金額も、今日は要らない。刷ってある四文字だけを追った。刷りの字は、判より濃い。
一つ目の束に、あった。
その次の束にも、あった。
年をまたいで、同じ四文字が出てきた。
それを一枚ずつ、床の別のところへ寄せた。
九枚になった。
飛んでいる年もあった。その年の束に無いのか、あっても読めないだけなのかは、分からない。掠れているものは、掠れているままだ。
九枚を、日付の順に並べ直した。
冬のものが多かった。夏のものも、一枚あった。
通っていた、と言いたくなった。
言わずにおいた。私が持っているのは、同じ四文字が九枚あるという、それだけだ。祖母がそこへ何をしに行っていたのかは、この紙のどこにも書いていない。
昨夜の二つの見方は、今日も並んだままだった。別の帳面がどこかにあるのか。書くという手順を、どこかで手放していたのか。九枚は、どちらの側にも寄らなかった。
電話は、鳴らなかった。
十時を過ぎた。
郵便受けの蓋が鳴って、立ち上がりかけた。折り込みの束だった。
家が一度軋んだときにも、同じことをした。
この家の番号は、昨日、渡してある。汐待町で一人だけ、紙に書いて渡した人がいる。あの人からかかってくることは、当分ないと思う。それでも、鳴れば、まずそのことを考える。
もう一つ、考えていた。
折り返しがあったとき、九枚のことを言うべきかどうか。
言えば、この人が持つものが増える。四月の一晩の話だったものが、二十年の話になる。
電話が鳴ったのは、十一時になる少し前だった。
階段を下りて、三度目の呼び出し音で取った。
「皆瀬さまのお宅でしょうか」
同じ声だった。
「はい。皆瀬です」
「先ほどはありがとうございました。お調べいたしました」
調べた、と言った。
調べるものが、あるということだ。この宿には、泊まった人の記録が残っている。私はそこに気づいて、そこから先へは行かなかった。
「四月二十九日のご宿泊については、お答えできないことになりました」
「はい」
「女将に伺いました。少し考えてから、それはお答えしないことにしています、と言われました」
少し考えてから。
私が見られなかったものを、この人は見ていた。
一秒か、二秒か、それより長かったのか。何を考えていたのかは、この人にも分からないはずだ。分からないまま、そこにあったことだけを私に渡してくれた。
「決まりがあるわけではないそうです。うちで、そう決めているのだと」
決まりだから、と言えば、その人は決めていない。うちで決めています、と言えば、決めた人がいる。
この一年で覚えた聞き分けだった。同じ場所に、電話の向こうの人も立っていた。
「分かりました」
私は言った。
女将に代わっていただけませんか、とは言わなかった。
言えば、その人は電話口に出てくる。出てくれば、もう一度決めることになる。一度決めた人に二度目をさせる理由が、私にはない。
「ご丁寧に、ありがとうございました」
「いえ」
そこで終わるはずだった。
「あの」
その人が言った。
「はい」
「これは、宿の記録のことではないのですけれど」
言葉を選んでいる間があった。
「女将は、お祖母さまのことを、存じておりました」
私は、受話器を持ち直した。
どうして分かるんですか、とは聞かなかった。
聞けば、この人はまた奥へ行くことになる。行った先で、また誰かが決める。
「ありがとうございます」
「いえ。差し出がましいことを申しました」
「そんなことは、ないです」
「またお電話をいただいても、同じお答えになると思います」
その言い方に、突き放す色はなかった。事実を言っただけの声だった。
かけてもいい。かけなくてもいい。それを、私に返してきた。
「お仕事中に、失礼しました」
「とんでもございません。失礼いたします」
受話器を置いた。
耳のあたりが熱かった。押しつけていたらしい。指で触ると、縁の形だけが皮膚に残っている気がした。
そのまま、電話台の前に立っていた。
名前を、聞かなかった。
宿の四文字は二度聞いた。応対した人の名前は、二度とも出てこなかった。私も尋ねなかった。
聞き忘れたのか、聞かないでおいたのか、自分で分からなかった。
この一年、私は聞かないでおくほうを選んできた。選ぶたびに、選んだという自覚があった。今日は、なかった。
選ばずに聞かないことが、できるようになっている。
それは、たぶん、あまり良いことではない。
台所の卓へ戻って、手帳を開いた。
今日の日付を入れて、三行書いた。
「最終の一枚の番号へ架電。宿は現存。四月二十九日の宿泊については、回答を得られず。宿の女将の判断によるものとの由――談」
「決まりによるものではなく、宿でそう決めているとの由――談」
「同じ屋号の領収書、菓子缶の束に九枚。年をまたぐ。所在地は依然不明」
昨夜書いた行には、――談を付ける相手がいなかった。今日は、付いた。
付いてはいるが、少し空いて見える。誰の言葉なのかを示す名前が、この行にはない。氏名は聴取せず、と足せば形は整う。整うだけで、さっき分からなかったことは、そのまま残る。
電話帳は、まだ居間の棚にある。
今からでも調べられる。市外局番から県が出て、四文字で当たれる範囲が絞れる。今日の午後のうちに、たぶん、町の名前までは行ける。
しない。
教えてもらえなかったものを、横から取りに行くのなら、あの人が決めたことは、無かったのと同じになる。決めた人がいるという一点だけは、確かに私に渡されたものだ。
筋の通った考えなのかは、分からない。今日は、そうした。それだけだ。
断られた。
これまでは、相手に決めさせないために黙っていた。今日は、自分からかけた。背負わせると決めて、そのうえで断られた。
背負う人は、一人だと思っていた。
二人いた。電話に出た人と、その奥にいた人と。私が渡したものは、私の知らないところでもう一度渡されて、そこで決まった。
決める人が、私に都合のいいほうを選ぶとは限らない。
言われてみれば、当たり前のことだった。この一年、私が黙って守ってきたのは、そういう人たちのことだったはずだ。
祖母がどの駅で見つかったのかを、私はいまも知らない。
葬儀のとき、聞かなかった。宿は、答えなかった。
では、答えられるものは、どこにあるか。
昨夜、私は引き出しの中身を二つに分けた。取材のものと、家のもの。家のほうは、見るだけ見て脇へ置いた。判の押された封筒に、家の保険と、電気の契約。
あちらには、決める人がいない。
私は、廊下の突き当たりへ行った。物置の戸を開けると、去年片づけたはずの束が、そのまま積んであった。
紙は、しゃべらない。昨夜、私はそう書いた。
しゃべらないものは、断らない。
断らないかわりに、無いものは、無い。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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