第二十四話 見た人
音がしなくなったことで、目が覚めた。
夜のあいだ、雨戸が鳴っていた。それが鳴っていない。
枕元の時計は、五時半だった。窓の外はまだ暗い。
障子を開けると、ガラスに塩が白く乾いていた。海の音は聞こえる。ただ、夜の音ではなかった。高いところが抜けて、低い音だけが残っている。
女将さんの言ったとおりだった。九時ごろから強くなること、夜のあいだが強いこと、朝には収まること。三つとも当たっていた。
支度をして、一階に下りた。
帳場に明かりがついていた。女将さんは起きていて、湯を沸かしていた。
「収まりましたね」
「収まりました」
それだけだった。どこへ行くのかは、聞かれなかった。
三和土の長靴を履いた。昨日から、そこに出してある。
履き終わって顔を上げると、女将さんが軍手を持って立っていた。差し出すのではなく、下駄箱の上に置いた。
私は、それを取った。
「本間さんは、もう出てますよ」
「もう、ですか」
「あの人は、早いすけ」
女将さんは、それから戸を開けてくれた。
外は、まだ暗かった。
海沿いの道に出たところで、港のほうが見えた。船は全部つないだままだった。一艘も出ていない。船も出ませんね、と女将さんが言っていたのは、今日のことだった。
道を北へ歩いた。
舗装の上に、砂が来ていた。歩くと、長靴の下でざらざら鳴る。ところどころに海藻が帯になって残っていて、その上だけ足音が消えた。
海は、まだ見えない。音だけがしていた。夜じゅう続いていた音の、あとに残ったものだった。
言葉にすれば、静か、になる。静かではなかった。低い音が、途切れずに来ていた。
歩いているうちに、空が少しずつ灰色になった。
分かれ道に、人が立っていた。
笠原さんだった。長靴に、綿入れの半纏。手ぶらだった。
「おはようございます」
「早いですね」
「眠れませんでした」
言ってから、余計なことを言ったと思った。笠原さんは、何も返さなかった。
柵のところに、本間さんがいた。熊手と、麻袋と、鎌を持っている。私たちを見て、ああ、とだけ言った。
「行きましょうか」
本間さんが先に立って歩き出した。笠原さんが続いた。私は最後だった。
道は、柵の外から見たときと違っていた。
海藻が、道の上まで来ている。太い帯が何本も、山側へ向かって流れた形のまま乾きかけていた。流木が転がっている。竹が二本。発泡スチロールの白い破片が、細かくなって散っている。オレンジ色の浮きが、ガードレールの支柱に引っかかっていた。
これが上がったものか、と思えば、そう思えるものだった。
本間さんは、熊手でそれを寄せていった。海側ではなく、山側へ寄せる。崖の上のほうへ、少しずつ集めていく。
「海へは、戻さないんですか」
「戻したら、また上がるすけ」
熊手は止まらなかった。
四十メートルほど歩くと、道が右へ曲がった。柵の外から見えていたのは、ここまでだった。
笠原さんは、下を見て歩いていた。
足元だけを見て、一定の速さで歩いている。二十年前に、この人が同じ道でしていたことだった。話に聞いただけのものが、目の前で動いていた。
私は、海のほうを見て歩いた。
決めたつもりはなかった。首が、そちらを向いていた。
濁った海だった。茶色がかっていて、うねりが崖の下で白くなっては消えていく。沖には何も浮いていない。
しばらく、何もなかった。
「本間さん」
「はい」
「荒れた次の朝は、いつも来られるんですね」
「来ます」
「役場の点検の日でなくても」
「点検は、関係ないです」
熊手が砂を掻く音がしていた。
「先に来ておいたほうが、いいすけ」
「先に」
「ほかの人が先に見ると、その人が、言うか言わんかを決めることになるでしょう」
私は、足を止めそうになった。止めずに歩いた。
「決めた人は、そのあとが長いんです」
草刈りの話だと思っていた。道が分からんようになるすけ、と一昨日この人は言った。それは本当のことで、それだけではなかった。
この人は、先に来ている。誰かが先に見てしまわないように、先に来ている。
「本間さんは、決めなくていいんですか」
熊手が一度止まって、また動いた。
「私は、決めてあるすけ」
いつ決めたのかは、言わなかった。どちらに決めたのかも、言わなかった。
言わないほうに決めた、ということだと思う。思っただけで、確かめなかった。確かめれば、この人にそれを言わせることになる。
道が、少し登りになった。
「去年の人は」
本間さんが、こちらを見ずに言った。
「私より先に行ったんです」
それだけだった。
去年の秋、あの道に入った人がいて、戻ってきて、町を出た。一昨日、この人はそう言った。昨日、笠原さんは玄関で、去年の秋もそういう朝でしたよ、と言った。
二つが、今つながった。
その人が何を見たのかを、私は知らない。決めた結果がどちらだったのかも、知らない。
分かるのは、その朝、本間さんが間に合わなかった、ということだけだった。
道が、もう一度右へ曲がった。
曲がった先で、本間さんが止まった。
熊手を路肩に置いた。置いてから、しゃがんだ。
麻袋は、肩にかけたままだった。
私は、近づいた。
近づいて、本間さんの肩越しに、見た。
海の音がしていた。風はほとんどなかった。朝の光が、ようやく道の上まで届いていた。潮の匂いに、別の匂いが混じっていた。
本間さんは、しゃがんだまま動かなかった。長いあいだではなかった。十秒か、二十秒か、そのくらいだった。
袋には、入れなかった。
熊手も、使わなかった。
後ろで、足音が止まっていた。
振り返ると、笠原さんが顔を上げていた。
下を見ていなかった。こちらでもなく、海でもなく、本間さんの手元のあたりを見ていた。
私は、何も言わなかった。言わないでいることに、力が要った。
指の先が冷たくなっていた。軍手をしているのに、冷たかった。
本間さんが立ち上がった。膝の砂を、二度払った。
「行きましょう」
それだけ言って、熊手を拾った。
私たちは、歩き出した。
ここには、書かない。
書けなかったのではない。書かないことにした。
言ったら、あることになる。一昨日、港でそう聞いた。その日の夕方、手帳の上で試した。昨日は口で試して、しくじった。今日は、目で見たもので試している。
三日のあいだ、私はそれを、この町の作法として書きつけてきた。自分でやってみて、分かったことが一つある。
作法ではなかった。逃げ道でもあった。
書かないことにすれば、私は決めずにいられる。見たものについて、どちらとも決めないまま、持って帰れる。それは、ずるいことだった。
ずるいと分かったうえで、私は書かないことにした。
道は、そのあと、何ごともなく続いた。
海藻の帯が二本と、木の枝と、砂。本間さんは、それを山側へ寄せながら歩いた。
十分ほどで、前が明るくなった。
新しいガードレールの白が見えて、その先にトンネルの口があった。舗装が急に黒くなる。白線が引いてある。バス停の標識が立っていて、時刻表の紙が、ビニールの中で白くなっていた。
二十分、歩いただけだった。二十分歩いて、私たちはふつうの場所に出ていた。
本間さんが、熊手を肩に担ぎ直した。
「見ましたか」
「見ました」
「そうですか」
それだけだった。何を、とは聞かれなかった。
「言うか言わんかは、あんたが決めることだすけ」
「はい」
「急いで決めんでも、いいですよ」
そう言って、本間さんは鎌を出した。
「私は、草を刈ってから戻ります」
引き止めなかった。礼を言った。本間さんは、ああ、とだけ言って、来た道へ入っていった。
笠原さんと二人で、トンネルを通って戻った。歩道が細くて、車が一台通るたびに壁に寄った。壁の内側では、足音がよく響いた。
歩きながら、一つのことに気づいていた。
この朝、誰も、上がっている、と言わなかった。
三日のあいだ、私はその言葉ばかり聞いてきた。女将さんも、本間さんも、笠原さんも、みんなその言葉を使った。何が、とは言わないまま、上がっている、とだけ言った。
それが目の前にある朝に、誰もその言葉を使わなかった。
使う必要がなかったのだと思う。あれは、そこにないものについて話すための言葉だった。
トンネルを出ると、分かれ道はすぐだった。
明るくなっていた。海の色が、さっきより薄い。
笠原さんが、家の手前で足を止めた。
「皆瀬さん」
「はい」
「今日は、見ました」
私は、うなずいた。
「二十年前は、見んかったんです」
「伺いました」
笠原さんは、道の先のほうを見ていた。旧道の入口のほうだった。
「見ていれば、静さんに、聞けたんでしょうか」
私は、答えを持っていなかった。
考えてみれば、たぶん、そういうことだった。見ていない人が尋ねるのは、相手に言わせることになる。この町では、それがいちばんしてはいけないことだった。見ていれば、二人のあいだに同じものがあることになる。あることになったものについてなら、話せたかもしれない。
笠原さんは二十年前のあの朝、その手前で止まった。
笠原さんが、半纏の袖に手を入れた。
「皆瀬さん。あれは」
そこで、息を継いだ。
私は、待たなかった。
「今日でなくても、いいです」
笠原さんが、こちらを見た。
「決めてから、で」
しばらく、何も言われなかった。
道を、車が一台通っていった。
「そうですね」
笠原さんはそれだけ言って、門のほうへ歩いていった。軒下の大根が、風で少し揺れていた。
うまくやれたとは思わなかった。昨日よりは、ましだった。それだけだった。
宿に戻ったのは、八時前だった。
玄関で長靴を脱いだ。砂と海藻が、内側まで入っていた。
洗って返すつもりで、水道を探した。女将さんが帳場から出てきた。
「そのままでいいですよ」
「汚してしまって」
「そういうものだすけ」
女将さんは長靴を三和土の隅へ寄せて、それで終わりにした。
朝食のあいだ、天気の話だけをした。今日の日中は穏やかなこと、明日も荒れないこと。
私がどこを歩いてきたかは、聞かれなかった。長靴を出した人が、それを聞かないでいた。
二階へ上がって、手帳を開いた。
日付。六時。旧道。同行二名。徒歩二十分。
それだけ書いて、手を止めた。
祖母のノートを出した。汐待町のページは、やはり五行だった。
「旧道、通行可。海側に崩落の危険あり。地元の勧めにより単独では入らず」
「聞き取り、二件。いずれも『上がっている』の語を使用。それが何であるかは、両名とも言及せず」
「本件、継続の可能性あり。要再訪」
昨日まで、私はこの五行の読み方を、何度も変えていた。書けなかった記録として読んだり、書かなかった記録として読んだりした。
今日は、読み方が変わらなかった。
変わったのは、こちらだった。読んで分かることと、やって分かることは、別のものだった。私は三日かけて、この五行の意味を頭で組み立てた。組み立てたものは、たぶん、間違ってはいなかった。それでも今朝、道の上でしゃがんだ人の後ろに立つまで、私はこれを知らなかった。
祖母は二十分歩いて、海のほうを見て、これを書いた。
歩いているあいだに見たものは、一行もない。
私は、見た。そして尋ねなかった。書きもしなかった。
あれは何ですか、と聞くことは、いくらでもできた。本間さんにも、笠原さんにも聞けた。聞かなかった。
祖母と同じ場所に、立ったことになる。
似てませんね、と笠原さんは昨日言った。
要再訪、という言葉を、もう一度見た。
また来て確かめる、という意味だと思っていた。確かめに来る前に、祖母はいなくなった。そう読んでいた。
別の読み方が、一つ浮かんだ。
決めずに置いておく、という意味の再訪もある。もう一度来る、と書いておけば、今は決めなくていい。
思いつきだった。今日の私が今日思いついたことは、たぶん、今日の私に都合がよすぎる。
手帳の隅に、小さく書いた。
「断定不可」
一昨日と、同じ言葉になった。
祖母は、この五行から先を書かなかった。二十年、そのままにしてある。
私のほうは、今日が一日目だった。
決めるのは、これからでいい。急いで決めんでも、いいですよ、と本間さんは言った。
ただ、一つだけ、もう戻らないことがある。
見なかったことには、できない。
窓を開けた。日が高くなっていた。
海は、まだ濁っていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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