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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
まだ済んでいない

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第二十三話 見なかった人

朝、風はまだ来ていなかった。


窓を開けると、昨日と同じ音がした。波の間隔も変わらない。今晩から荒れるという話が、部屋の中からは信じられなかった。


一階に下りると、女将さんが帳場から出てきた。


「港の本間さんから、電話がありましたよ」


「本間さんから」


「笠原さんが、昼のうちなら、と」


笠原さん、という名前を、私は初めて聞いた。


「どちらの方ですか」


「旧道の、手前の家の人です」


それで通じると思っている言い方だった。この町では通じるのだと思う。


「歩いて行けますか」


「行けます。昨日の道です」


昨日の道、と女将さんは言った。


私は、昨日どこを歩いたかを、この人に言っていない。


言っていないのに、通じていた。この二日で私が何をしているかは、町のどこかを回って、女将さんのところへ戻ってきている。


女将さんは、それを私に隠さなくなっていた。




海沿いの道を北へ歩いた。


昨日と同じ道だった。違うのは、道の脇の家を見ながら歩いたことだった。


分かれ道の二百メートルほど手前に、家が四軒あった。海を背にして、少しずつずれて建っている。風のよけ方が、どの家も同じだった。


昨日は、通り過ぎただけだった。


いちばん北の家の門柱に、笠原、と彫った石の表札があった。軒下に大根が何本か干してある。


声をかけると、玄関の奥から返事があった。


出てきたのは、七十くらいの女性だった。小柄で、セーターの上に綿入れの半纏を着ている。


「本間さんから聞いています」


「皆瀬灯里といいます」


笠原さんは、私の顔をしばらく見た。


「皆瀬さん」


「はい」


「静さんの」


「孫です」


もう一度、顔を見られた。


「似てませんね」


そう言って、笠原さんは玄関を開けた。


茶の間に通された。石油ストーブが焚いてあって、上にやかんが載っている。湯が小さく鳴っていた。


お茶を出されて、私は手帳を出した。


「二十年前に、祖母と旧道へ入られたと伺いました」


「入りました」


「そのときのことを、伺えますか」


「話すことは、あんまりないですよ」


そう前置きしてから、笠原さんは話した。


静が来たのは二月で、雪の降る日だったという。ノートの日付と合っていた。


その日、笠原さんは庭にいた。分かれ道のところに人が立っているのが見えた。しばらく動かないので、見ていた。それから、その人が旧道のほうへ歩きだした。


「それで、声をかけたんです」


「なんと」


「一人では、行かんでください、と」


「危ないから、ですか」


「崩れるすけ」


笠原さんは、そう言ってから、湯呑みを持ち直した。


「静さんは、じゃあ一緒に来てもらえますか、と言いました」


「祖母が」


「はい」


「それで」


「行きました」


当たり前のことのような言い方だった。


「止めた人が、行かんわけにいかんでしょう」


私は、祖母のノートの一行を思い出していた。


「地元の勧めにより単独では入らず」


地元の勧め、というのは、この人のことだった。祖母は、止めてくれた人をそのまま同行者にした。二十年前のあの一言がなければ、祖母は一人で入っていた。


「どのくらい、歩かれましたか」


「終わりまでです。トンネルの向こうに出るまで」


「二十分ほどですか」


「そのくらいです」


私は、次の質問を少し考えてから出した。


「何か、ありましたか」


笠原さんは、湯呑みを持ったまま、黙っていた。


「私は、見てません」


「見ていない」


「下だけ見て歩きました。足元だけ」


「海のほうは」


「見んようにしてました」


やかんの音が続いていた。


「どうして、ですか」


笠原さんは、すぐには答えなかった。答えないというより、言い方を選んでいるように見えた。


「見たら、あとで、言うか言わんかの話になるすけ」


私は、手帳の上で手を止めた。


「見なければ、その話にならんでしょう」


昨日、本間さんから聞いたことが、一段ずれて見えた。


言えば、あることになる。私は昨日、それをこの町の作法だと書いた。書いたときは、それが最初の一段だと思っていた。


違った。手前にもう一段ある。


見なければ、言うかどうかを決めなくていい。決めなくていいなら、決めそこなうこともない。この人は二十年前のあの朝、いちばん手前の段で止まっていた。


「祖母は、どうでしたか」


「静さんは、見てました」


私は顔を上げた。


「ずっと、海のほうを見て歩いてました。私が下を見ているあいだ、ずっと」


「何か、言っておられましたか」


「いいえ」


「戻ってからも」


「戻ってからも、何も」


「お聞きになりませんでしたか」


「聞いてません」


「一度も、ですか」


「一度も」


湯呑みが、盆の上に戻された。


「静さんは、帰りぎわに、また来ますと言いました」


また来ます。


「そう言って、帰られました」


笠原さんは、そこで一度切った。


「それから、来ておられません」


私は、言わなければならないことを言った。


「祖母は、去年、亡くなりました」


笠原さんは、私の顔を見た。


「そうですか」


それだけだった。驚いた顔ではなかった。二十年会っていない人の話を聞いた、という顔だった。


ストーブの音と、やかんの音がしていた。


それから、笠原さんは言った。


「じゃあ、もう、聞けんですね」


私は、何も言えなかった。


この町の人は、言わないでおくことで、まだ何もないところに留まっている。留まっているあいだは、決めなくていい。決めなくていいというのは、いつでも決められる、ということでもある。


昨日まで、私はそう思っていた。


いつでも決められるわけではなかった。


相手がいなくなれば、決められないまま終わる。二十年聞かなかったことは、これから先も聞けない。なんでもないままではなく、なんでもないまま、終わる。


この人は今日、それを知らされた。知らせたのは私だった。


祖母のノートの「要再訪」も、たぶん同じ形をしている。祖母はこの町に何かを決めないまま置いて、また来ると言って、来なかった。


なぜ来なかったのかは、分からない。


分からないまま、決まらないまま、終わっている。


私は、もう一つだけ確かめた。


「祖母は、上がっているものについて、笠原さんに尋ねましたか」


「聞かれました」


「なんとお答えになりましたか」


「上がってる、と」


「それだけですか」


「それだけです」


祖母のノートの一行が、そのまま目の前にあった。


「聞き取り、二件。いずれも『上がっている』の語を使用。それが何であるかは、両名とも言及せず」


二件のうちの一件が、この人だった。


昨日の私なら、祖母は同行した相手からも聞き出せなかったのだと読んだ。今日は、そうは読まなかった。祖母は聞いて、返ってこないことを確かめて、返ってこなかったとだけ書いた。そして返ってこない理由のほうは、書かなかった。


私は、手帳を閉じた。


閉じてから、いちばん聞きにくいことを聞いた。


「明日の朝、旧道で何が上がっているのかを、見に行きたいんです」


言い終わる前に、笠原さんの顔が変わったのが分かった。


変わった、というより、閉じた。この二日で何度も見た閉じ方だった。


私は今、この人に、あることにさせる言い方をした。


「すみません」


私は言い直した。


「明日の朝、旧道を歩きたいんです。一人では入るなと言われていますので」


何が上がっているのか、とは言わなかった。見に行く、とも言わなかった。


昨日、手帳に書かずにおいたのと同じことを、今日は口でやった。うまくできたとは思えなかった。一度言ってしまったものを、言い直しただけだった。


それでも、笠原さんは湯呑みを持ち直した。


「朝は、早いですよ」


「はい」


「六時には、明るくなります」


「伺います」


笠原さんは、少しのあいだ、やかんのほうを見ていた。


「私も、行きます」


私は顔を上げた。


「二十年ぶりですけどね」


礼を言って、立ち上がった。


玄関で靴を履いているとき、笠原さんが後ろから言った。


「去年の秋も、そういう朝でしたよ」


私は振り返った。


笠原さんは、それ以上、何も言わなかった。


聞けば、答えるだろうと思った。答えれば、あることになる。私は今日、この人にそれをさせないと決めたばかりだった。


聞かずに、外へ出た。




港へ回ったのは、四時前だった。


本間さんは、昨日と同じ小屋の前にいた。網ではなく、浮きの紐を結び直していた。


「会えましたか」


「会えました」


「そうですか」


それだけ言って、手を動かしていた。


「本間さんは、昨日、聞いてみます、と言われました」


「言いました」


「どなたに、聞かれたんですか」


本間さんは、少し笑った。


「笠原さんにですよ」


私は、自分の受け取り方が違っていたことに気づいた。


昨日、私はあの言葉を、はぐらかされたのだと思った。聞いてみます、であって、会えます、ではない。そう手帳に書いた。


そうではなかった。この人は、笠原さんが二十年誰にも言っていないことを、本人に断らないまま私へ渡すつもりがなかっただけだった。


「二十年、誰にも言ってないことだすけ」


紐を引きながら、本間さんは言った。


「本人に聞かんと、こっちからは言えんでしょう」


「そうですね」


「明日、道を見に行きます」


手は止まらなかった。


「荒れた次の朝は、いつも見に行きます」


「昨日は、そのことを言われませんでした」


「昨日は、明日の話じゃなかったすけ」


私は、時刻を聞いた。六時、と本間さんは言った。笠原さんと同じだった。二人のあいだで、もう話がついている。


一つだけ、聞いておかなければならないことがあった。


「あの道は、通行止めですが」


「草刈りです」


本間さんはそう言って、はじめてこちらを見た。


「役場にも、そう言ってあります」


役場は知っている。知っていて、看板を立てたままにしている。入るな、とは言う。入っている人がいることのほうは、言わない。


昨日の職員の早い返事を思い出した。この町では、役場も、名前を与えない側に立っていた。


私は、自分がどこに立っているかを考えた。


看板は私にも向けられている。町の人が何十年も続けてきたことについていくのと、自分で柵を越えるのとは違う。そう思いたかった。思いたいだけかもしれなかった。


手帳に書いた。


「明日、六時。本間氏の道路巡回に同行。笠原氏同行。町の通行止め措置は継続中――要確認」


要確認、と書いたのは、道のことではなかった。自分のことだった。




宿に戻ったのは、五時を回っていた。


風が変わっていた。昼までは海から来ていた風が、今は横から来ている。防波堤のあたりで、波の音が高くなりはじめていた。


玄関を入ると、三和土に長靴が一足、出してあった。


昨日、女将さんが貸しましょうかと言って、私が断ったものだった。


今日は、何も言われなかった。出してあるだけだった。


私は、断らなかった。


断るという場面が、そもそも作られていなかった。この町の人は、そういうふうにものを渡す。


夕食のとき、女将さんは天気の話だけをした。今晩の九時ごろから風が強くなること、夜のあいだが強いこと、明日の朝には収まること。


明日の朝、と女将さんは二度言った。


私がその朝に何をするかは、聞かれなかった。


部屋に上がって、手帳を開いた。


明日の欄には、時刻と、二人の名前と、道の名前が書いてある。それだけだった。


祖母のノートも開いた。汐待町のページは、五行しかない。旧道は通れたこと、崩落の危険があること、単独では入らなかったこと、二人が同じ言葉を使ったこと。そして、また来ると書いたこと。


二十分の道を歩いて、海のほうをずっと見ていて、書いたのはそれだけだった。


歩いているあいだに見たものは、一行もない。


書き足すことが、私のほうにも一つ残っていた。


見るか、見ないか。


笠原さんは見なかった。祖母は見た。二人は同じ道を、同じ朝に、並んで歩いて、違うほうを見ていた。そして二人とも、戻ってから何も言わなかった。


見なかった人は、二十年、聞けなかった。


見た人は、二十年、書かなかった。


どちらが良かったのかは、分からない。分かるのは、どちらを選んでも、そのあと黙ることになるらしい、ということだけだった。


私は、まだ決めていない。


手帳には、何も書かなかった。


窓の外で、雨戸が鳴りはじめた。


海の音が、昨日までとは違う音になっていた。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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