第二十二話 あることになる
朝の海は、昨日より静かだった。
風はあるが、防波堤に飛沫は来ていない。波の音が、一定の間隔で続いている。
宿を出たのは八時過ぎだった。玄関で女将さんが私の靴を見て、長靴を貸しましょうか、と言った。断ると、そうですか、とだけ言って帳場へ戻った。
どこへ行くかは聞かれなかった。聞かなくても分かっていたのだと思う。
海沿いの道を北へ歩いた。十分ほどで、道が二つに分かれた。
新しいほうは山側へ入って、短いトンネルになっている。古いほうは、そのまま岬のふちを回り込んでいく。
旧道の入口には、単管パイプの柵が立っていた。
この先通行止、と書いた看板が針金で留めてある。青と白の看板だった。下のほうに町の名前と、設置した年月が小さく入っている。
去年の十一月。
柵にはロープが渡してあった。ぴんと張ってはいない。腰より低いところで、たるんで下がっている。
塞ぐための柵ではなかった。ここから先は町の受け持ちではない、と示すための柵だった。
柵の向こうの道は、普通の道だった。舗装が古くて、路肩に枯れた草が伸びている。海側にガードレールがあり、その外はすぐ崖になっていた。四十メートルほど先で道は右へ曲がり、そこから先は見えない。
崩れているところは、ここからは見えなかった。
私は、しばらくそこに立っていた。
入らなかった。
祖母のノートに、こう書いてあったからだった。
「旧道、通行可。海側に崩落の危険あり。地元の勧めにより単独では入らず」
祖母のときは、通れる道だった。それでも一人では入らなかった。今日の私は、通れない道の前にいる。条件はこちらのほうが厳しい。
手帳を出して、日付と時刻と、看板の文言を書いた。それから、一行足した。
「単独では入らず」
書いてから、祖母と同じ言葉を書いたことに気づいた。
真似をしたつもりはなかった。書くことがそれしかなかっただけだった。同じ場所に立って、同じことを考えれば、同じ言葉になる。それだけのことかもしれない。
引き返す前に、もう一度だけ、道の先を見た。
風が海から吹き上げてきて、路肩の草が一方向に寝た。草は、道の上まで倒れかからなかった。誰かが刈った跡があった。
町役場は、駅の裏手にあった。
二階建ての、四角い建物だった。一階の奥に建設課の窓口がある。若い男性の職員が出てきた。三十くらいに見えた。
旧道の通行止めについて伺いたい、と言うと、少し驚いた顔をして、それから台帳を持ってきてくれた。
昨年十一月十四日付。措置は通行止め。理由の欄には、路肩崩落のおそれ、とだけあった。
「点検で見つかったんですか」
「そうです。年に一度、見て回るので」
「それまでは、通れたんですね」
「通れました。まあ、通る人はほとんどいませんけど」
私は、その前に何かありましたか、と聞いた。
「いえ、点検です」
答えは早かった。早くて、そのあとに続きがあった。
「あの道、もともとあんまり人が行かないところなので。トンネルができてからは、ほとんど誰も」
聞いていないことだった。
これまでの取材で、覚えたことがもう一つある。聞いていないことを足す人は、聞かれると思っていたことに先回りしている。何を聞かれると思っていたのかは、足された言葉のほうを見れば分かることが多い。
この人は、誰かが通ったかどうかを聞かれると思っていた。
私は台帳の日付を書き写して、礼を言った。窓口を離れかけたところで、職員が声をかけてきた。
「旧道のことでしたら、うちの資料より、詳しい人がいますよ」
「どなたですか」
「港の、本間さんです。昔、あの道の草刈りをずっとやってた人なので」
草刈り、と私は思った。
さっき見た路肩は、刈ってあった。通行止めになった道を、去年の十一月から今日まで、誰かが刈っている。
港は、駅から歩いて十分ほどのところにあった。
小さな港だった。船が七、八艘つないである。岸壁の内側にトタンの物置小屋が並んでいて、そのうちの三つ目の前で、老人が網を繕っていた。
「本間さんですか」
老人は顔を上げた。七十代の後半くらいに見えた。日に焼けていて、目のまわりだけが白い。
役場で名前を聞いてきたと言うと、ああ、とだけ言って、横の空いたコンテナを指した。座れということらしかった。私は座った。
「旧道のことだね」
「はい」
「役場は、なんて言ってました」
「路肩の崩落のおそれで、去年の十一月から通行止めだと」
「そのとおりですよ」
そのとおりです、という言い方だった。違う、とは言わなかった。
「あそこは前から崩れるんです。二十年前も崩れてました」
二十年前、という数字が、この人の口から出た。
「ただね、崩れてるだけなら、閉めんですよ」
「閉めないんですか」
「ずっと崩れてるんだから。閉めるんなら、五十年前から閉めてることになる」
網の目が、指の下で少しずつ詰まっていった。手つきが、話の速さと関係なく一定だった。
「去年、何かあったんですか」
本間さんは、網を膝の上に置いた。
「去年の秋にね、あの道に入った人がおってね」
「はい」
「戻ってきましたよ」
私は続きを待った。
「戻ってきたけども、そのあと、町を出ました」
それだけだった。誰が、とも、何があったとも言わなかった。
聞けば答えるだろうと思った。宿の女将さんのときと同じだった。聞けば答えて、そのあとが閉じる。
私は聞かなかった。
代わりに、昨日から気になっていたほうを聞いた。
「上がっている、というのは」
「上がってるんですよ」
「何が、とは」
「言わんね」
「言わないんですか。それとも、分からないんですか」
本間さんは、少し笑った。笑って、網に手を戻した。
「言わんのですよ」
風が来て、小屋のトタンが鳴った。
「なぜ、言わないんですか」
指は動き続けていた。目は網を見ていた。
「言ったら、あることになるすけ」
「あることに」
「そう」
そのあと、一度だけ、こちらを見た。
「言わんでおけば、まだ、なんでもないでしょう」
私は手帳を開いたまま、しばらく何も書けなかった。
これまでの町でも、人は黙った。青森では、来訪者を案じる決まりごとがあって黙っていた。岐阜では、忘れていた。沖縄では、本人に頼まれて守っていた。京都では逆に、みんなが同じことを喋っていて、その全部が一冊の本から来ていた。島根では、気にしていなかった。北海道では、聞く相手がもういなかった。
この町の黙り方は、そのどれでもない。
隠すというのは、あるものを見せないことだ。忘れるというのは、あったものを落とすことだ。どちらも、あることは決まっている。
ここでは、決まっていない。
言えば、あることになる。言わなければ、まだ、なんでもない。この町の人は、その手前で止まっている。止まっていられるあいだは、まだ済んでいないのではなく、まだ始まってもいない。
そう考えると、女将さんが鍵を渡す途中で手を止めた一秒の意味が、少し変わってくる。あれは、言うかどうかを決めるための一秒だった。決めるというのは、この町では、あることにするかどうかを決めるということだった。
網の音が続いていた。
「東京から、女の人が来たことがあったな」
顔を上げた。
「ずいぶん前です。二十年か、そのくらい」
「祖母です」
本間さんは、こちらを見た。見て、少しのあいだ何も言わなかった。
それから、また網に戻った。
「あの人は、旧道に入りましたか」
「入りましたよ」
「一人では入らなかったと、ノートにあります」
「そりゃ、一人じゃ入れんです。あそこは」
「どなたと一緒だったか、分かりますか」
網を繕う手が、止まった。
一秒か、二秒だった。昨日、女将さんの手が止まったのと同じ長さだった。
「分かります」
「お会いできますか」
本間さんは、糸の端を歯で切った。
「聞いてみますよ」
聞いてみます、であって、会えます、ではなかった。
私は礼を言って立ち上がった。歩き出してから、一つだけ振り返って聞いた。
「旧道の草、刈っておられますか」
「刈ってます」
「通行止めなのに」
「刈らんと、道が分からんようになるすけ」
道が分からなくなる、と本間さんは言った。通れなくてもいいが、どこが道だったかは残しておく、という言い方だった。
宿に戻ったのは、四時前だった。
帳場に女将さんがいた。私を見て、今日は歩かれましたね、と言った。それから、天気の話をした。
「明日の晩から、荒れるすけ」
私は手を止めた。
「荒れますか」
「西風が入るって。船も出ませんね、明後日は」
女将さんは、それだけ言って、湯呑みを片づけに立った。昨日、自分が何と言ったかを覚えていないような口ぶりだった。あるいは、覚えていて、それでも天気の話は天気の話として言えるということかもしれない。
部屋に上がって、天気の予報を見た。明日の夜から風が強くなり、波が高くなる。明後日の朝には、少し落ち着く。
海が荒れた次の朝に、道に上がっている。
女将さんは、そう言っていた。
明後日の朝だった。
私は手帳に、明後日の日付と、その一行だけを書いた。何が上がるのかは、書かなかった。
書けなかったのではなく、書かないことにした。書けば、あることになる。今日はそれを教わったばかりで、まだ試したことがなかった。
祖母のノートを開いた。
「聞き取り、二件。いずれも『上がっている』の語を使用。それが何であるかは、両名とも言及せず」
昨日までは、この行を、祖母が聞き出せなかった記録として読んでいた。答えが返ってこなかったので、返ってこなかったとだけ書いた。そう思っていた。
今日、読み方が変わった。
祖母は、返ってこないことの意味を分かって書いたのかもしれない。両名とも言及せず、というのは、二人が示し合わせたように同じところで止まった、ということでもある。祖母はそれを、そのまま置いた。
だとすると、次の行の読み方も変わる。
「本件、継続の可能性あり。要再訪」
継続の可能性あり。まだ続いている、ではなく、続いているかもしれない、と書いてある。祖母は、あることにしなかった。この町の作法に合わせて、書かずに、また来るつもりだった。
そして、来ていない。
思いつきだった。祖母はもういないので、確かめようがない。
手帳に、そう書き添えた。
「断定不可」
窓の外は、まだ静かだった。明日の晩から荒れるとは思えないほど、波の音が低かった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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