第十八話 撮影せず
札幌で乗り換えて、そこから二時間半かかった。
窓の外が、途中から白一色になった。田も畑も雪の下で、区別がつかない。木だけが黒く立っている。
笹内の駅は、無人だった。ホームに屋根はあるが、片側だけで、風の来る側は吹き抜けている。降りたのは私と、大きな荷物を持った男性の二人だった。男性は迎えの車に乗って、すぐに行ってしまった。
改札を出ると、風が顔に当たった。
これまで訪ねた土地は、どこも雪の降らない季節だった。青森も、岐阜も、沖縄も、京都も、島根も。祖母のノートの日付が、たまたまそういう順に並んでいたのだと思う。
今回は、冬だった。
駅前に、除雪した雪が積み上げてある。私の背より高い。道は黒く濡れていて、その両側だけが白い壁になっている。
宿へ向かって歩いた。教わった通りの道を、教わった通りに曲がる。歩きながら、自分の足音がやけに小さいことに気づいた。雪が音を吸っている。
十分ほどで、家並みが切れた。
そこから先は、雪の原に見えた。
よく見ると、雪の下に四角い輪郭がいくつも並んでいる。基礎だけが残った建物の跡だった。かつては、そこに家が並んでいたのだろう。
社宅街の跡だ、とあとで聞いた。
歩きながら、手袋を外して手帳を出そうとして、やめた。指がすぐに冷たくなる。書くのは宿に入ってからにしよう、と思った。
これまでの取材で、私は歩きながらよく書いていた。青森の畦道でも、岐阜の商店街でも、沖縄の港でも、思いついたことをその場で書き留めていた。
ここでは、それができない。
手袋を外す、手帳を出す、ペンのキャップを取る。その三つのあいだに指がかじかむ。書けるのは、屋根の下だけだった。
土地が変わると、取材の仕方まで変わる。当たり前のことなのに、来るまで考えていなかった。
宿は、駅から徒歩十五分のところにあった。三階建ての古い建物で、看板に「旅館」とあるが、玄関の半分は雪囲いで塞がれている。
女将さんが出てきて、私の荷物を見て言った。
「観光の方じゃないねえ」
「調べものです」
「炭鉱の」
「そのようなものです」
女将さんは、それ以上は聞かずに部屋へ案内した。石油ストーブが焚いてあって、部屋の中はよく暖まっていた。窓ガラスの内側が曇っている。
荷物を置いて、私は一階に降りた。
「あの、伺ってもいいですか」
「なんでしょう」
「この町に、雪の上に足跡が残るという話があると聞きました」
女将さんは、帳場の椅子に座ったまま、少し首を傾げた。
「ああ」
その返事は、これまでの土地で何度も聞いたものだった。ああ、あれね。ああ、あの話ね。
だが、続きが違った。
「あるよ」
ある、と言った。あった、でも、聞いたことがある、でもなく。
「ご覧になったことがありますか」
「毎年、見るよ」
私は、手帳を出す手を止めた。
「毎年」
「雪が積もって、風がやんだ朝にね。社宅の跡のあたりから、坑口のほうへ、ずっと」
「どなたの足跡か、分かりますか」
「分からんね」
女将さんは、湯呑みを両手で持った。
「あのへんは、もう誰も住んどらんから」
話を聞くつもりで来て、話が出てこなかった。
女将さんは、私が何を聞いても答えてくれた。嫌がりもしなかった。ただ、答えが短い。
いつ頃からか。分からない。昔からある。
誰かが確かめたことは。あると思うよ。誰かは。
その人は今どこに。いないねえ。町を出たか、亡くなったか。
決まりごとがあるか。ああ、それはある。足跡の上を歩いたらいけん、と言われとった。
「歩くと、どうなるんですか」
「さあ。誰も歩かんから」
これは、島根で聞いたのと同じ形だった。誰もやらないから、やったらどうなるかを誰も知らない。
違うのは、そのあとだった。
「昔は、そういうこともよく話したけどねえ」
女将さんは、湯呑みを置いた。
「今は、話す相手がおらんのよ」
私は、その一言を書き留めた。
この町の人口を、来る前に調べてきた。炭鉱が閉じたのが四十年以上前で、最盛期には一万人を超えていたのが、今は三百人ほどだという。
三百人。宇津良町より少ない。波名島より多いが、島は二百人が寄り集まって暮らしていた。ここは、かつて一万人が住んだ広さに、三百人が散らばっている。
噂というのは、誰かが誰かに話すことで残る。柊野町では、友達の友達を経由して薄まりながら残った。波名島では、二百人が一つの話を共有していた。椋坂町では、一冊の本が全員の記憶をそろえた。
この町には、話す相手がいない。
それなのに、足跡は毎年ある。
これまで私が追ってきたのは、いつも人の話だった。誰かが誰かに話し、その誰かがまた別の誰かに話す。そうやって残ってきたものを、私は聞き集めてきた。
だから、聞き集める相手がいなくなれば、噂は消える。柊野町の駄菓子屋の老人が、戦後の古い類話をもう知らなかったように。
この町では、消えていない。
消えていない理由が、たぶん、人ではないほうにある。
女将さんは、毎年見る、と言った。見ているのは女将さん一人ではないだろう。だが、見た人どうしが、それについて話していない。話さなくても、毎年そこにある。
噂が人の口を離れて残るというのは、どういうことなのか。私はまだ、その形を知らなかった。
翌日、町の資料館へ行った。
旧炭鉱の事務所を使った建物で、入口に「開館 十時〜十五時」と手書きの紙が貼ってあった。中は暖房が入っていて、係の男性が一人いた。
記録の量に、驚いた。
社史が三冊。年ごとの広報誌が、閉山の年まで揃っている。従業員の名簿。坑内の図面。写真の束。事故の記録も、慰霊碑の除幕式の写真も、社宅の間取り図もあった。
「よく残っていますね」
「会社が作った町ですから」
係の男性は、そう答えた。
「会社は記録を取ります。何人働いて、何トン掘って、何人辞めたか。全部残っとります。閉山のときに、市が引き取りました」
私は、社史の索引をめくった。
足跡のことは、一行もなかった。
広報誌も見た。閉山までの四十年分、毎月出ている。運動会の記事も、独身寮の献立も、坑内の安全標語も載っている。
足跡のことは、どこにもなかった。
「あの、雪の上の足跡の話は」
聞くと、男性は少し笑った。
「そういうのは、載りませんよ」
「載りませんか」
「会社の記録ですから。仕事のことは全部書きますけど、そうでないことは書きません」
当たり前のことを言われた。だが、私はしばらくその場を動けなかった。
この町には、記録が完璧に残っている。何人が働き、何を食べ、いつ辞めたかまで分かる。
その記録に、足跡は一行もない。
そして、足跡を語り継ぐ人のほうは、もう三百人しかいない。
「この町のことで、記録に載っていないものは、どこにありますか」
尋ねてから、答えようのない質問だと気づいた。だが、係の男性はしばらく考えてくれた。
「……人の頭の中ですかね」
「そうですよね」
「うちに来られる方は、たいてい炭鉱のことを調べに来られます。何年に何があったか。それはここに全部ある」
男性は、社史の背表紙を指で撫でた。
「でも、あの頃どんな匂いがしたかとか、冬に何が怖かったかとか、そういうのは書いてないです。書いた人がおらんかったので」
書いた人がいなかった。
祖母は、この町に来ている。ノートに何を書いたのかは、まだ読んでいない。
午後、社宅街の跡まで歩いた。
除雪された道は途中で終わっていて、そこから先は誰も通っていない雪だった。膝の下まで沈む。長靴を持ってきてよかったと思った。
基礎の輪郭が、雪の下に並んでいる。四角が規則正しく並んでいて、かつてそこが街路だったことが分かる。
その雪の上に、足跡があった。
私は、立ち止まった。
一列だった。社宅の跡のほうから、緩い坂を上って、山の側へ向かっている。
近づいて、しゃがんだ。
輪郭がぼやけている。降ったばかりの雪ではなく、少し時間が経った跡だった。大きさは、私の足より少し大きいくらい。靴の形は分からない。
顔を上げて、足跡の続く先を見た。
雪の斜面をまっすぐ上って、木立の手前で見えなくなっている。距離があるので、そこで消えているのか、木立に入っただけなのかは分からない。
振り返った。
足跡は、来た方向にも続いている。社宅の跡を突っ切って、その先の雪の原へ消えていた。
つまり、どこかから来て、どこかへ行っている。
途中で消えているわけでも、片道だけでもない。ごく普通の、人が歩いた跡だった。
写真を撮って、手帳に位置を書いた。
それから、しばらくその場に立っていた。
この足跡が、女将さんの言った足跡なのかは分からない。誰かが今朝ここを歩いただけかもしれない。三百人は、まだこの町に住んでいる。
分からないまま、私は足跡の脇を歩いて戻った。上を歩かないようにしたのは、決まりごとを聞いたからだった。
信じたわけではない。ただ、この町で最初に教わったことを、初日から破る理由もなかった。
宿に戻って、祖母のノートのコピーを開いた。
笹内町のページ。日付が二つ。数行の記述。そして、その下に、短い一行があった。
「足跡、確認。撮影せず」
撮影せず、と書いてある。
祖母は、この町で足跡を見ている。見て、写真を撮らなかった。
理由は書いていない。
私は、スマホの画面を見た。今日撮った写真が、そこに残っている。雪と、基礎の輪郭と、一列の足跡。
祖母が撮らなかったものを、私は撮った。
それが正しいのか間違っているのかは、まだ分からない。ただ、祖母がわざわざ「撮影せず」と書いたということは、撮るかどうかを迷ったということだ。
迷った跡だけが、残っている。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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