第十七話 点けなかった晩
三日目の朝、雨が降っていた。
宿の窓から見ると、旧街道の石が黒く濡れて、雨戸を閉めた家の軒から水が落ちている。田坂さんの家の玄関には、昨日と同じように鉢植えが並んでいた。十五あるうちのいくつかが、雨で葉を垂らしている。
昨夜、奥さんは台所へ行ったきり、しばらく戻ってこなかった。
明かりのない晩はどうなるのか、と私が聞いたときだった。そら、ないわ。誰かは起きとるけん。そう答えて、湯呑みを置いて立ち上がった。
聞き方が悪かったのだろうか、と何度か考えた。だが、それまでの二日間、この町の人は私が何を聞いても嫌な顔をしなかった。悪かったのは聞き方ではなく、聞いた場所だったのだと思う。
台所には、ご主人がいた。寄り合いから帰ったばかりで、上がり框に座って靴下を脱いでいた。
奥さんは、その人の前では黙った。
そこまで思い出して、私は布団の上に座り直した。二日間、私はこの町を「誰も何も隠していない町」だと思っていた。隠していないのではなく、隠すようなことが起きていないのだと。
一つだけ、目の前で黙られていた。
朝食のとき、奥さんはいつも通りだった。魚を焼いて、味噌汁をよそって、雨の話をした。
私は、昨日のことを持ち出さなかった。
今日の午後の便で、この町を出る。持ち出さないまま出るのだろう、と思っていた。
昼前に、雨が上がった。
荷物をまとめて、部屋の畳を拭いていると、階段の下から声がした。
「ちょっと、ええですか」
奥さんだった。上がってこず、下から呼んでいる。
降りていくと、台所の椅子を勧められた。お茶が二つ置いてある。奥さんは、自分の湯呑みを両手で持ったまま、しばらく何も言わなかった。
「昨日の、明かりの話やけどね」
私は、手帳を出さなかった。
「うちも、点けんかったことがあるわ」
雨の落ちる音が、軒からまだ続いている。
「一度だけね。うちの人が寄り合いで遅いんは、朝から分かっとった。分かっとったのに、その晩は疲れとって、先に寝てしもうたんよ」
「……はい」
「起きたら朝で、うちの人は横におった。帰っとったんよ、ちゃんと」
奥さんは、そこで少し笑おうとして、うまくいかなかった。
「けど、聞いたら、その晩はえらい時間がかかった、いうてね。いつもは十五分の道が、どんだけ歩いても着かんかった、と」
「怖い思いをされたんですか」
「うちの人は、怖がっとらんかったわ。ああ、あれかね、いうて、それで終いよ」
この町の人らしい反応だった。
「怖かったんは、私のほうだけ」
奥さんは、そこで少し間を置いた。
「あの晩ね、二時ごろに目が覚めたんよ。玄関が暗いんに気づいて、飛び起きて、点けたわ。それから外に出て、道の先を見とった」
「見えましたか」
「なんも見えん。真っ暗よ」
湯呑みの中を見ている。
「そのうち、足音が聞こえてね。うちの人やった。何しとるんや、いうて笑うとったわ」
「よかったですね」
「よかったんよ。よかったんやけど」
そこで、初めて声が小さくなった。
「私が点けたけん帰れたんか、点けんでも帰れたんかが、分からんのよ。今も分からん」
私は、その言い方をそのまま覚えておこうと思った。
確かめようがないことを、確かめようがないまま抱えている。二十年か、それ以上。この人は、それを誰にも言わずに、毎晩起きて待つことで処理してきた。
奥さんは、湯呑みを両手で包み直した。
「その日から、うちの人が遅い晩は、必ず起きとる。眠うても起きとる。点けっぱなしで寝るんじゃなくてね、起きて待っとるんよ」
「ご主人には」
「言うとらん」
即答だった。
「言えば、気にせんでええ、いうて言われるだけやけん。あの人、ほんまに気にしとらんもの」
私は、しばらく何も言えなかった。
二日間、私はこの町を「気にしていない町」だと思っていた。それは間違っていなかった。四人に聞いて、四人とも笑い話として話した。誰も怖がっていなかった。
その中に、一人だけ、気にしている人がいた。
そして、その一人は、誰にも言っていない。夫にも、近所にも、たぶん娘にも。言えば「気にせんでええ」と言われることが分かっているから。
町全体が気にしていないというのは、この人が黙っているということでもあった。
明かりを点けるのは、暗いと家が分からないから。隣が遅いのを知っていたら、ついでに。誰もが、そういう理由でやっている。
この人だけが、違う理由でやっている。
そして、その違う理由のほうが、たぶん、この町の習慣が途切れずに続いてきた本当の芯だった。ついでで点ける人ばかりなら、いつか誰も点けなくなる晩が来る。眠くても起きて待つ人が、どの代にも何人かいたから、続いてきた。
昨日、私は手帳にこう書いた。この町は、気にしなくて済む状態を毎晩自分たちで作っている、と。
半分は合っていた。半分は、足りなかった。
作っているのは町全体ではない。ついでで点ける人が大勢いて、その底に、気にしている人が何人かいる。気にしている人が黙っているから、大勢のほうは気にしないでいられる。
黙っている側の顔が、私にはずっと見えていなかった。
「あの」
私は、それでも聞いた。
「今のお話、書いてもいいですか」
自分でも意外なほど、素直に出た言葉だった。
これまで私は、書かないことを選んできた。岐阜では、名前を聞かずに帰った。沖縄では、名前を聞いて、書かなかった。書かないという判断ができるようになったことを、少しだけ誇りに思っていた。
今回は、書きたいと思った。
奥さんは、湯呑みを置いた。
「ええよ」
あっさりしていた。
「名前は出さんでね。それだけ」
「はい」
「うちの人にも、言わんでね」
「言いません」
奥さんは、そこで初めて、ちゃんと笑った。
「知らん人やけん、言えるわ。ずっと誰にも言うとらんかったけど、あんたなら、明日にはおらんもの」
明日にはいない人だから、話せる。
そういう理由で私に渡されたものが、これまでにもあったのだろうと思った。気づいていなかっただけかもしれない。
祖母も、行く先々で同じように渡されてきたはずだった。地方紙の記者を辞めたあと、一人で全国を回っていた人だ。どの土地でも、明日にはいない人だった。
そして、渡されたものの多くを、書かなかった。
椋坂町のページは白紙で、この町のページは丸だけだった。何も聞けなかったからではない。聞いた上で、書かないことを選んでいる。
書かない理由が、少し分かった気がした。
奥さんは、名前を出さないでほしいと言った。夫にも言わないでほしいと言った。書いてよいと言われた話でさえ、そのくらいの条件がつく。条件のつく話を、そのまま紙に置いておくのは、たぶん怖い。
祖母は、その怖さを、白紙と丸で処理していた。
午後の便まで、少し時間があった。
私は駅のベンチに座って、手帳を開いた。
「宇津良町・三日目。宿の女性より聴取。点灯を怠った晩が一度あり、当該の晩、帰路に長時間を要した事例あり(本人からの伝聞)。以後、遅い晩は起床して待つ習慣を継続。家族・近隣には未告知。氏名は記載しない。――談」
書いてから、その下に一行足した。
「この町の習慣は、ついでで点ける人ではなく、起きて待つ人が支えている」
祖母のノートのコピーを出した。
宇津良町のページ。見取り図の四角に、丸が十一個。意味は書かれていない。
昨日、私はそれを「明かりの点く家だ」と読んだ。読んでから、確かめようがないと思った。
今日も、確かめようがない。祖母がどういうつもりで丸を打ったのかは、もう誰にも分からない。
ただ、一つだけ気づいたことがある。
十一個の丸のうち、田坂さんの家にも丸があった。
祖母がこの町に来たのは二十年以上前だ。奥さんが点け忘れたのが、その前なのか後なのかは分からない。分からないが、祖母はあの家に丸を打っている。
私は、コピーの上に自分の手帳を重ねた。
祖母は、丸が何かを書かなかった。書かなかったから、私は二日かけて自分で歩いた。歩いたから、丸の意味を自分の言葉で書ける。
たぶん、そういうふうにできている。
だが、私は書くことにした。
自分の手帳の、今日のページの下に、こう書き足した。
「祖母のノートの丸=点灯する家と推定。確認は取れていない。断定不可」
断定不可、と書けば、あとから読む人は自分で確かめに行く。祖母が白紙や丸で残したものと、たぶん同じ働きをする。書き方が違うだけだ。
ページをめくった。
宇津良町の記述のあと、白いページが三枚。それから、また字が始まる。
「北海道・笹内町。旧炭鉱町。冬、雪の上に残る足跡について、取材予定」
行き先と、聞くべきことの見出しだけ。
雪の上の足跡、と読んで、私は少し考えた。足跡は残るものだ。残るものを、わざわざ取材予定と書くからには、残り方がおかしいのだろう。
旧炭鉱町、とも書いてある。
宇津良町は、半分の家が閉まっていた。それでも、残っている家には人が住んでいて、毎晩どこかに明かりが点いていた。
炭鉱が閉じた町は、たぶんそれよりも人が少ない。明かりの数が減れば、この町のような支え方はできない。
冬、と書いてあるのも気になった。私がこれまで歩いたのは、どこも雪の降らない季節だった。
今は、それだけ分かればよかった。
コピーを閉じて、鞄に入れた。
ホームに立つと、雨上がりの田の向こうに山が見えた。二日前に着いたときは、曇っていて見えなかった山だった。
一両の列車が来た。乗ったのは、私だけだった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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