第十六話 誰かが起きている
二日目は、朝から歩いた。
昨日の三人に共通していたのは、誰も怖がっていないことだった。今日確かめたいのは、その理由のほうだった。なぜ全員が、朝には家に帰れているのか。
旧街道を、駅とは反対の方向へ歩いた。家並みは途中で切れて、田が広がる。その先にまた集落があって、道はゆるく曲がっている。
歩きながら、この道の長さを測ろうとした。駅からここまで、たぶん二十分ほど。夜に歩いても、そう変わらないはずだ。歩いても歩いても着かない、という話が出てくるような長さではない。
長さの問題ではないのだろう、とすぐに分かった。
昼に測れるものと、夜に起きることは、たぶん別のことだ。青森でも岐阜でも沖縄でも、私は同じ間違いを繰り返してきた。距離を測り、時間を測り、それで何かが分かった気になる。
だから今日は、人に聞くことにした。
最初に会ったのは、田の脇で草を刈っていた男性だった。七十くらいだろうか。
「すみません、少し伺ってもいいですか」
男性は、鎌を置いて腰を伸ばした。
「夜、家までの道が終わらなくなるという話を聞いていまして」
「ああ、あれね」
昨日と同じ、四人目の「ああ、あれね」だった。私はもう驚かなくなっていた。
「一つ、分からないことがあるんです。皆さん、朝にはちゃんと家に帰っておられますよね」
「帰っとるよ」
「帰れなかった方は」
男性は、少し考えた。
「聞かんねえ」
「一人も、ですか」
「一人もおらんと思うわ。おったら、そりゃ話になっとるけん」
話になっている、というのは、噂として残るという意味だった。
つまりこの町では、帰れなかった人が出ていないから、噂が「怖い話」になり損ねている。
「どうやって帰るんですか」
「どうやってて」
男性は、私の質問がよく分からないという顔をした。
「歩いとったら、着くがね」
「歩いていれば」
「そう。座らんかったら、そのうち着く」
昨日と同じ決まりごとが、また出てきた。座るな。
「座ると、どうなるんですか」
「さあ。座った者がおらんけん」
これも昨日と同じだった。誰も座らないから、座るとどうなるかを誰も知らない。
私は、少し違う角度から聞いてみることにした。
「その、歩いているとき、何を目印にされるんですか」
男性は、鎌を持ち直した。
「明かりよ」
その一言が、あっさり出てきた。
「明かり」
「うちの窓の明かりが見えたら、もうそこで終いだけん。それまでは、まあ、歩くわ」
「それは、ご自分の家の明かりですか」
「うちのでも、よそのでもええわ。明かりが見えりゃ、どのへんにおるか分かるけん」
男性は、田の向こうの家並みを鎌で指した。
「あそこの三軒は、夜も点いとることが多いわ。年寄りが起きとるけんね」
私は、その方向を見た。昼なので、ただの瓦屋根が三つ並んでいるだけだった。
「明かりが一つも見えなかったことは、ありますか」
「ないわ」
即答だった。
「一つも見えん晩は、ないねえ」
そう言って、また腰をかがめて草を刈りはじめた。話は終わり、という合図だった。
私は礼を言って、道に戻った。
歩きながら、今の返事を頭の中で二度繰り返した。明かりが一つも見えない晩はない。その人はそれを、天気の話をするのと同じ調子で言った。
昼過ぎに、荒物屋へ寄った。
野々村さんは、昨日と同じように前掛けをして立っていた。私を見て、少し笑った。
「まだおられるんね」
「もう少しいます。一つ、伺ってもいいですか」
「なんね」
「夜、ご家族が遅くなるとき、明かりを点けておかれますか」
野々村さんは、当たり前のことを聞かれた顔をした。
「点けるよ。そりゃ点けるわ」
「いつも、ですか」
「うちの人が寄り合いの晩は、ずっと点けとる。帰ってくるまで消さん」
「それは、いつ頃からの習慣ですか」
「習慣て」
野々村さんは、少し笑った。
「そんな大層なもんじゃないわ。暗かったら分からんでしょ、どこが自分の家か」
私は、手帳を出すのを忘れていた。
昨日と同じことが起きていた。この人たちは、聞けば全部答えてくれる。答えの中に、私が探しているものが最初から入っている。ただ、それが答えだと思っていない。
「野々村さん。この町では、どのお宅もそうされますか」
「どこもそうよ。誰かが遅い晩は、隣も点けたりするけん」
「隣の家も」
「うちの人が遅いのを知っとったらね。まあ、ついでよ」
ついで、と言った。
「誰が遅いかは、どうして分かるんですか」
「そりゃ、寄り合いがあれば分かるわ。あとは、昼のうちに言うとるけん。今日は遅うなるけん、いうて」
「言っておくんですか」
「言うでしょ。心配せられたら悪いけん」
心配をかけないために、遅くなることを昼のうちに言う。言われたほうは、その晩、明かりを点ける。
どちらも、怪異とは何の関係もない理由でそうしている。
「野々村さん。それを、誰かに教わったことはありますか」
「教わる」
野々村さんは、ふきんを畳む手を止めた。
「教わらんわ。うちの母もそうしとったし、その前もそうやったと思うわ」
「理由を聞かれたことは」
「聞いたことない」
そして、少し笑った。
「そんなん、聞くもんでもないでしょ」
私は、店を出て、旧街道に立った。
道の両側に家が並んでいる。半分は雨戸が閉まっていた。閉まっている家は、もう誰も住んでいない。
昨日、私はこの景色を見て、過疎の町だと思った。今日は違うものが見えた。
夜になれば、残った家に明かりが点く。誰かが遅い晩は、その隣も点く。歩いている人から見れば、道の先に必ずどこかの明かりがある。
歩いていれば、いつか明かりが見える。
明かりが見えたら、そこで道が終わる。
宿に戻って、田坂さんの奥さんに同じことを聞いた。
「点けるよ。うちの人が寄り合いの晩は、玄関だけ点けとく」
「消し忘れることはありませんか」
「あるある。朝まで点いとって、もったいないことしたわ、いうて」
奥さんは笑った。
「あの、失礼なことを伺うかもしれませんが」
「なんね」
「もし、どの家も明かりを点けていない晩があったら、どうなるんでしょう」
奥さんは、湯呑みを持ったまま、初めて少し黙った。
「……そら、ないわ」
「ない、ですか」
「誰かは起きとるけん」
そう言って、話を切り上げるように立ち上がった。台所へ行って、しばらく戻ってこなかった。
私は、その背中を見ていた。
今日一日で四人に聞いて、四人とも、明かりの話を「大層なもんじゃない」と言った。そして最後の一人は、明かりのない晩のことを聞かれて、黙った。
この町の人は、怪異に対処していない。少なくとも、対処しているつもりがない。
暗かったら自分の家が分からないから明かりを点ける。隣が遅いのを知っていたら、ついでに点ける。それだけのことを、何十年も、たぶん何代も続けている。
続けている限り、誰も帰れなくならない。
誰も帰れなくならないから、この話は怖い話にならない。怖い話にならないから、誰も気にしない。気にしないまま、明かりだけは点け続けている。
対処が生活の中に溶けていて、本人たちが対処だと思っていない。
常世谷では、言い伝えに理由があった。関わった者に良くないことが続く、という理由が、来訪者を遠ざける作法を支えていた。柊野町では、知らないと答えれば助かるという決まりごとを、子どもたちが守り抜いていた。波名島では、島が一人のために決まりを作った。
どれも、誰かが意識してやっていたことだった。
この町だけが違う。誰も、自分が何かを守っているとは思っていない。守っているつもりのない習慣が、結果として毎晩人を帰している。
そして、意識していないから、途切れる心配もしていない。
私は手帳を開いて、書いた。
「宇津良町・二日目。聞き取り四件。全員が『明かり』に言及。帰宅時の目印として機能。点灯は各戸の習慣であり、怪異への対処という認識はない。『誰かは起きているから、明かりのない晩はない』――談」
書いてから、その下にもう一行足した。
「この町は、気にしていないのではない。気にしなくて済む状態を、毎晩自分たちで作っている」
夜になってから、祖母のノートのコピーを開いた。
宇津良町のページは、これまででいちばん長い。日付が三つ、頭文字が六つ、それに見取り図が一枚。
昨日は最初の一行だけ読んで閉じた。自分の足で聞いてからにしよう、と決めたからだった。
今日は、最後まで読んだ。
聞き取りの中身は、私が今日聞いたものとほとんど同じだった。道が終わらない。座るな。歩いていれば着く。頭文字の六人が、それぞれ少しずつ違う言い方で、同じことを言っている。
そして、見取り図。
旧街道が一本、まっすぐ引いてある。定規を使わずに引いたのが分かる、少し曲がった線。その両側に、四角がいくつも並んでいる。家だ。
四角のうち、いくつかに、小さな丸が打ってあった。
数えると、十一個あった。
丸の意味は、どこにも書いていない。凡例もない。祖母は、丸が何を指すのかを一行も説明していなかった。
私は、しばらくそれを見ていた。
丸は、道の両側にばらけている。固まってはいない。均等でもない。道の途中に、丸が一つもない区間が二箇所あった。
それから、今日歩いた道を思い出して、丸の位置と照らし合わせた。荒物屋。田坂さんの家。田の脇で草を刈っていた男性の家は、集落の外れのあのあたりだろう。
草刈りの男性が鎌で指した三軒も、位置がおおよそ合っていた。年寄りが起きているから夜も点いている、と言っていた家だ。
明かりの点く家だ、と思った。
思ってから、確かめようがないことに気づいた。祖母は書いていない。私がそう読んだだけだ。
だが、祖母はこの町に来て、六人から話を聞いて、道の絵を描いて、いくつかの家にだけ丸を打った。それだけのことをして、丸が何なのかは書かなかった。
書かなかったのは、確かめきれなかったからかもしれない。あるいは、書かなくても分かると思ったのかもしれない。
椋坂町では、祖母は白紙を残した。この町では、材料だけを残した。答えは、どちらにも書いていない。
私は、コピーを閉じた。
明日、もう一つだけ確かめたいことがあった。
明かりのない晩は、本当にないのか。奥さんが黙ったのは、そこだった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
お楽しみいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。




