第十五話 気にしていない町
椋坂町から宇津良町までは、乗り換えを三度した。
最後の列車は一両だった。窓の外が、家並みから田になり、田から山になった。線路と並んで細い川が流れていて、水の色が、京都で見たものより濃い緑をしていた。
宇津良の駅は、無人ではなかった。窓口に人がいて、切符を受け取ると、少しだけこちらを見た。降りたのは私だけだった。
駅を出ると、道が一本、まっすぐ伸びていた。
旧街道だという。両側に、間口の広い家が並んでいる。二階の窓が低くて、庇が深い。宿場だった頃の造りがそのまま残っているのだと、あとで聞いた。
ただ、半分ほどの家は雨戸が閉まっていた。
シャッターの下りた店の前を通ると、色の褪せた看板が読めた。時計、眼鏡、と書いてある。その隣も、その隣も閉まっていて、四軒目にようやく明かりのついた店があった。
椋坂町では、坂の下から上まで人が住んでいた。誰も出ていかない町だった。ここは違う。同じ古い町でも、残っている家と、閉じた家が、一軒おきに並んでいる。
歩きながら、私は自分のことを考えていた。
椋坂町で分かったのは、祖母が話す側にも回っていたということだった。あの町に何を置いていったのか、置いていったものがどうなったのか、確かめる方法はもうない。
これから私も、この町の人と話をする。聞くだけで済むとは限らない。何日か滞在して、宿の人と天気の話をして、どこから来たのかと聞かれれば答える。そのついでに、私が前の土地で聞いてきたことを、少しくらい話すかもしれない。
そうしないと決めるのも、たぶん違う。祖母がしたことを悪いことだと決めたわけではない。ただ、これまでは何も考えずにやっていたことを、今日からは、考えながらやることになる。
それだけの違いだった。それだけの違いが、鞄の重さのように、肩に乗っていた。
明かりのついていた店は、荒物と食料品を一緒に置いている店だった。
引き戸を開けると、奥から女性が出てきた。六十くらいだろうか。前掛けをして、手にふきんを持っていた。
「いらっしゃい。……あら、お客さん」
「すみません、宿を探していまして」
「宿なら、この先の田坂さんとこだけん。看板は出とらんけど、玄関に鉢植えがようけ並んどるけん、すぐ分かるわ」
礼を言って、それから、いつも通りに切り出した。
「実は、この町に伝わっている話を調べていまして」
女性は、ふきんを持ったまま、少し首を傾げた。
「話って」
「夜、家までの道が終わらなくなる、という話だと聞いています」
私は、身構えていた。
青森では、口をつぐまれた。岐阜では、みんなが話したのに元に届かなかった。沖縄では、全員が知っている名前を誰も言わなかった。京都では、聞く前に向こうから話しはじめた。
この人は、どれでもなかった。
「ああ、あれね」
それだけだった。
言い方が、ものすごく軽かった。近所の道が工事中だと教えるときの声だった。
「知っておられるんですか」
「知っとるも何も。うちの人が二回やられとるけん」
「二回」
「一回目は若い時分。二回目は、去年」
女性は、ふきんを畳んで台に置いた。
「去年のは、寄り合いの帰りだけん。飲んどったし。まあ、そういうこともあるわ」
そういうこともある、と言った。
「あの、それは、どういう」
「どういうも何も、家に着かんのよ。歩いても歩いても」
「怖くはないんですか」
女性は、初めて少し笑った。私の質問のほうがおかしい、という笑い方だった。
「怖いことがあるかね。朝にはちゃんと家におるけん」
私は、手帳を出すのを忘れていた。
店の奥で、乾いた咳がした。
棚の陰に、男性が立っていた。七十くらいだろうか。買い物かごに缶詰を入れている。いつからいたのか分からなかった。
「あんた、あれの話しとるんか」
男性は、かごを提げたままこちらへ来た。私は身構えた。声を落とすのか、話を止めにくるのか。青森ではそうだった。
「わしは三回ある」
そのどちらでもなかった。数を自慢しているような口ぶりですらなかった。ただ、話の流れで自分の順番が来たから言った、という調子だった。
「三回、ですか」
「なんも珍しいことじゃない。この道をまっすぐ行くだけだのに、行っても行っても、あの角が来ん」
男性は、店の外の旧街道を顎で示した。
「角が」
「そう。曲がる角があるだろう。あそこがな、来んのよ。ずーっと同じとこ歩いとるみたいでな」
「そのとき、どうされたんですか」
「どうもせん。歩いた」
そして、思い出したように付け足した。
「ああ、一遍、腹が立って怒鳴ったことはあるわ」
女性が、台の向こうで笑った。
「谷口さん、それ寄り合いでも言うとりんさる」
私は、二人の顔を見比べた。笑い話になっている。この町では、これは笑い話として共有されている。
「――結局、お家には」
「着いたよ。気がついたら、うちの門の前だ」
男性は、缶詰の代金を台に置いて、出ていった。引き戸が閉まる音がして、それきり静かになった。
田坂さんの家は、教わったとおり、玄関に鉢植えが並んでいた。数えたら十五あった。
宿というより、部屋を貸してもらう形だった。夕食は台所で、田坂さんの奥さんと差し向かいで食べた。煮物と、川魚と、味噌汁。
食べながら、私はもう一度、同じことを尋ねた。
「先ほどのお店の方に、道が終わらなくなる話を伺いました」
「野々村さんかね」
「はい」
「あの人とこは、ようやられるわ」
奥さんも、笑った。
私は、この日三人目に同じ顔をされていた。荒物屋の野々村さん、缶詰を買っていた谷口さん、そして今、この人。誰も声をひそめない。誰も、身を乗り出さない。
これまで訪ねた町では、どこかで必ず、話の温度が変わる瞬間があった。声が小さくなる。目が動く。子どもは向こうへ行かされる。
この町には、それがない。
「田坂さんは、経験がおありですか」
「わたしはないわ。うちの人はあるけどね」
「ご主人は」
「今日は寄り合い。帰りは遅いわ」
奥さんは、お茶を注ぎながら、思い出したように言った。
「あんた、夜に外を歩かれるなら、途中で座らんようにね」
「座る」
「座ったらいけんの。歩き続けとりゃ、そのうち着くけん」
決まりごとだった。
青森では、数えるな。岐阜では、答えるな。沖縄では、一人で歩くな。京都では、停まるな。
この町は、座るな、と言う。
私は、手帳にそれを書いた。書きながら、五つ目の禁忌が、これまででいちばん軽い口調で渡されたことに気づいていた。傘を持っていきなさい、というのと同じ調子だった。
「座ると、どうなるんですか」
「さあ。座った人の話は、聞かんねえ」
奥さんは、湯呑みを持ったまま、少し考えた。
「みんな、座らんけん」
部屋に戻って、私は今日聞いたことを書き出した。
「宇津良町・一日目。聞き取り三件。噂=夜、帰路が終わらない。反復あり(同一人物が二回)。決まりごと=途中で座らない。三件とも情緒の変化なし。恐怖の語りではない。――談」
書いてから、その下に、自分の気づきを一行足した。
「この町は、この話を怖がっていない」
そこまで書いて、ペンが止まった。
怖がっていない、というだけなら、忘れかけているのかもしれない、と読める。柊野町がそうだった。だがここは違う。忘れていない。去年の話として出てくる。何度も起きていて、みんなが知っていて、それでも誰も怖がっていない。
私は、行を変えてもう一行書いた。
「全員、朝には家に帰っている」
これだった。
引っかかっていたのは、ここだ。誰も、この話で困っていない。行方不明になった人がいない。怪我をした人もいない。だから怖くない。
けれど、それはおかしい。
歩いても歩いても家に着かない夜が、この町では何度も起きている。それなのに、全員が無事に朝を迎えている。一人の例外もなく。
野々村さんのご主人は二回、谷口さんは三回。それでどちらも、笑い話として持っている。
けれど、怪談というのは本来、誰かが帰ってこなかったから残るものだ。常世谷の言い伝えも、柊野町の噂も、波名島の夜道も、根のところに必ず「よくないことが起きた」という一点があった。だから語り継がれ、だから禁忌がついた。
この町には、その一点がない。
ないのに、禁忌だけはある。座るな、と全員が知っている。
誰も座ったことがないのなら、座るとどうなるかを、この町の誰が知っているのだろう。
私は、その一行を手帳に書きかけて、やめた。まだ三人にしか聞いていない。
なぜ全員が帰れているのかも、私は誰にも尋ねなかった。三人とも、あまりに当たり前という顔をしていたので、聞くきっかけがなかった。
明日、聞こう。
鞄から、祖母のノートのコピーを出した。
椋坂町の白いページを、指で送った。四枚。もう覚えてしまった枚数だった。
その先で、字が始まる。
「島根県・宇津良町。旧街道。夜、家までの道が終わらなくなるという話について、取材予定」
いつもの見出しの一行。私はページをめくった。
そこで、手が止まった。
字が、続いていた。
次のページにも、その次にも。日付が三つ。聞き取りの相手の頭文字が、六つ。図が一つ。道の見取り図らしいものが、定規を使わずに引かれている。
これまでのどの土地よりも、長かった。
常世谷は、日付と数行と見取り図が一枚。柊野町は、頭文字が一つと、短い聞き取り。波名島は、日付が一つと数行きり。椋坂町は、白紙。
この町のページだけが、びっしり埋まっている。
私は、最初の一行を読んだ。それから、読むのをやめて、コピーを閉じた。
明日、自分の足で聞いてからにしよう、と思った。柊野町で一度そうして、うまくいった。あのときは、自分でたどり着いた相手が、祖母の聞いた相手と同じだったと分かって、それが嬉しかった。
今は、少し違う気持ちだった。
祖母がこれだけ書いたということは、この町で、書けるだけのことがあったということだ。
そして、書かなかった分も、たぶん、この厚みと同じだけある。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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